土用干し
少し風がある。遠く太平洋の南には台風が生まれたと言うからその影響かもしれない。風にのって古書の香りが舞い上がり、また少し懐かしくなった。 奥座敷の棚に揃えられたのや、畳に積まれたもの。和書もある。郷土の資料のようである。佐賀藩の歴史について語る時、山本はよくこの中から一冊を取りだした。または歌である。田代は一冊を手に取った。古今集は何か全集のうちの一冊だ。深い臙脂色の表紙は背が些か褪せたが、しかし日に向けて傾ければまだ表紙を覆う赤い糸がつや、と玉虫色に反射する。表紙を開き、親指でぱらぱらとページを捲った。閉じられ閉じ込められた長い時間の匂いがした。 土用干しと座敷一杯に広げられた本の奥、山本は寝転がっている。ちょうど干している本を枕にして、本当にうとうとしているようだった。連日の蒸し暑さであったが、今日は風のお蔭で息が通る。汗ばむが、確かに心地良い午後である。首を振る扇風機もそれに一役買っていた。 柱を背に腰を下ろした。胸のボタンを一つ外し、喉元に触れる。汗に濡れた膚はひやりとしていて、自分の手で触れながら自分の肉体でないような妙な心地がした。 ページを捲るが目が滑る。一首に集中すれば、その三十一文字にどこまでも耽溺することができた。何か一つのものを味わうのに終わりがない。永劫はあるのかもしれぬと田代は思う。たとえ人が滅び国が滅びようとも、この星が塵になって歌を詠む人間がいなくなろうとも、それでも目の前の歌の価値が損なわれることは永遠にないのだと思った。 顔を上げると山本が本の向こうにいて、手を伸ばして触れ得る距離ではないのに肩や耳元があたたかく心安い。先生、とは呼ばずただ眼差しを投げて、時々自分も眠そうな瞬きをした。 「何を見ておる」 片目が開いて田代を見た。 「時が、見えるようで」 ふん、と笑って山本は目蓋を閉じる。深呼吸を一つ。古書の匂い、夏風の運ぶ空の匂い。 とん、とん、と掌が畳を叩いた。田代は少し本をどかし、頭を寄せるようにして横になった。すると扇風機の風があたる。開いた襟の、胸のあたりがひやりとした。 「先生は…」 田代は胸に古今集を抱く。 「これらの本、どうなさったのですか」 「学生の頃に集めたのも幾らかあるがなあ。やはり教師になってからか」 「研究を」 「継いだのだ」 ぽつりと山本は呟いた。 「恩のある方から譲り受けた。それが半分だ」 何故か田代は瞬間的に、半分ではない、それ以上ではないのかと思った。何故かは分からなかった。そしてそれを考える胸が酷く痛んだ。 扇風機が首を振る。胸が冷たい。ふと首筋に山本の手が触れた。 「身体を冷やさんか、これでは」 本を抱いていた手で首筋の手に触れた。 「先生の手が熱いんです」 指を絡める。山本が目を瞑る。田代も目蓋を伏せ、胸の痛みを溶かすように山本の寝息に耳をすました。眠気の紗が静かにおりてくる。古い言葉に、沈黙する時に囲まれて、今は二人きりだと絡めた指をしっかりと握った。 |