甘えたくて走りました


 泣いた子供に膝を貸した。子供は涙と鼻水を垂れ流すだけ垂れ流した。ズボンが濡れた。子供相手の教室だ。このようなこともある。
 子供が得意ではない。泣かれると持て余す。しかし今日はただ黙って頭を撫でた。膝にとりすがるぬくもりが、田代に遠い日を思い出させた。撫でる掌は昔もらったものの返礼だった。同じように、泣く子供を撫でた。
 筆谷が一杯やっていかないかと言ったが――「随分日も長くなったし、ほら、月だ」――頭を下げて辞した。
「そそくさと、どこへ帰るのかな」
「ご想像通りです」
「言うようになったね」
 走ってバスに飛び乗り山の麓まで行く。待ちきれなかった。坂の途中で、行く先の拓けた景色の、明るい空を背に人影が見えた。
「先生!」
 眼鏡を押し上げる。煙草だ。煙草の火だ。
「どうした大声出して」
 山本が驚いている。膝に手をつき、肩を上下させ息をした。
「何を慌てとる」
「その…」
 田代は顔を上げ、汗を拭った。
「…いいえ」
「子供だな」
 肩を軽く促され、坂をもう少し歩く。家に入る。汗を流してこいと言われ、はなから泊まる腹だったという己にも気づいて、妙に思い出される筆谷の笑みが気まずかった。
 それでも遅い夕飯を摂り、洗い物をしながら話をし、山本が風呂に入る間ノートを捲っては書き直し、また話をし、書き留め、気づけば外は芯から夜である。深い紺を切り裂くような細い月がバスからは見えていた。もう沈んだろうか。
「そう言えば何故慌てておった」
「慌てる理由もなかったのですが」
 早くお会いしたくて、と素直に答えた。子供が泣いて縋った膝に触れた。
 す、と手の中からペンが取り上げられた。指先の、切り揃えた爪を撫でる手。田代が指を添わせようとすると、ぐ、と強く手首を掴まれた。
 脈が、鳴る。
 強く引き寄せられる。じっとその目が見ている。視線は逸らさなかった。ぐ、ぐ、と。
「来い」
 山本が言った。