睫毛と目薬


 ふ、と喋っている途中で田代が俯いて、言葉半ばの山本は思わず口を噤んだ。僅かに沈黙。先生、と小さな声。りん、と軒下の風鈴が鳴る。風が通る。
「すみません」
 と、田代が眼鏡を外す。指先が目尻を擦る。
「ゴミが入ったか」
「睫毛が…」
 多分、と小さな声。あまり擦るなよ、と言おうとしたが相手は子供ではあるまいし。今は掌が目の上を覆って、その仕草は泣いているようにも見えた。
「すみません」
 田代は繰り返す。
「涙で流れれば」
 頬杖をついて縁を見遣った。初夏の風だ。心地良い。
 ちらと盗み見る。やはり泣いているように見える。
「先生?」
 眼差しを気づかれたかと思わず目を逸らした。
「ああ」
「お話しの続きを、どうぞ」
「…何だったか」
「…………」
 りん、と鳴る。風はいきいきと座敷を吹き抜ける。強い。遠くから何かを運んでくるかのよう。雨だろうか。空はひどく明るい。
「逆さ睫に難儀をしているのがいた」
「…どなたですか」
 山本は答えなかった。睫毛の、瞳の上にそっと落とす影を思い出す。面差しは常に憂いで見えた。言葉は多くなく、相対する時は常に厳しい緊張感があった。だが笑みは人一倍優しかった。
 立ち上がり、箪笥の上から薬箱を下ろす。目薬は未開封だった。
 陣基、と呼んでおいて背後に座る。肩に手をかけ軽く引き寄せると、田代はぎこちなく足を崩し山本の膝を枕にした。しかし手をどかさない。
「子供だな」
 また別のことが思い出されて笑む。
「娘も、目薬を怖がった。目を開けておられずに」
 あやして、瞼を開かせ、隙をついて一滴垂らす。うまく入ったものだ。
 田代は掌をどかし、そばめつ、何とか瞼を開こうとする。下瞼をちょっと指で押さえてやり、一滴。すぐに瞼が閉じる。薬液か涙か、じわりと盛り上がったものが目尻に流れた。睫毛が一筋、はりついて取り残される。涙はこめかみへ向けて流れてゆく。
 残された睫毛を指先で触れ取り、ふっと息を吹きかけた。見えなくなった。
 田代が起き上がり、ありがとうございますと頭を下げる。擦ったからか、目元が微かに赤いような、だ。溜息をつく横顔の、睫の影を目新しく思うのは、陽の下で彼が眼鏡を外すのは随分珍しいからだった。
「見えるか?」
「ぼんやりとしています」
 かけようとした眼鏡を取り上げる。
「先生」
「たまにはそのままでおれ」
 コンタクトにしようと思ったことはないのかと尋ねる。
「怖いです」
 田代は愚直に答えた。