一景


 柿が葉陰に青い実をつける頃になると、幹の向こうに隠れてこちらを覗いている幼女の姿が時々田代には見える。山本は知らないようだ。視線はいつも自分を素通りし、山本を追っている。縁のある人かと思う。




二景


縁の下から見上げる少女を前に正座し、両手をつき、田代は頭を下げた。
「先生を連れて行かないでください」
「何故ですか」
「何故でもです」
 顔を上げると真っ黒と思えた瞳の中にもくるくると泳ぐような光があった。確かにその中には何かが泳いでいるのだった。月だ、と田代は思う。空が真っ暗なのも風が吹かないのも、この娘が月を呑んだからなのだ。故に童女は清浄でもある。いくらこの場所が俗塵から隔てられているとは言え、この清らかさに比べれば埃まみれも同然と思われる。
「お帰りください」
「私は父に会いにきたのです」
「時宜がありましょう」
「時宜とな」
 童女が笑うと口から風が吹いた。生温かい夜風である。蚊帳の表が静かに波打つ。童女は風をおさめると、口元にほんのり笑みを残し、言った。
「よろしい。相応しい時を見計らいましょう」
「有り難く存じます」




三景


 月の明るい夜にばかり、見える。てくてくと坂を下る途中、九十九折りも半ばの、木立がフィルムのように景色を切り取るのが見えた時、ふとそれが佇んでいるのが見える。
 人だ、と思う。
 次に女だと思う。
 否、それにしては小さい。あれは童女だ、と思う。だが月が照っているとは言え夜目に何故あれを童女だと分かるのか。
 そのことに気づいた時、ぞっとする。
 立ち止まってしまったのは北だった。
「おい」
 声を掛けると、数歩進んで筆谷が立ち止まる。さくらいはその隣を立ち止まる。田代は早く進みたそうにもう数歩行ってようやく振り向いた。
「見えんか」
「見えるな」
 筆谷は柔和な顔のまま返す。
「おい」
「何だ」
「見えるんだろう」
「見えている」
「女だ」
「幼女だよ、あの齢は」
 見えているのだ。
「知っているのか」
「いいや、ぼくは初めてだ」
 前方の田代に視線を向ければ、二人からじっと見られた田代は多くを語ることではないと思っているようで、いつものことだ、とだけ言う。
「いつもいるのか」
「そう声を荒らげるな」
 筆谷の眉が寄った。
「せっかくのいい夜に」
「貴様、何をしている」
「何って?」
 筆谷の両手はさくらいの目を塞いでいる。
「見ない方がいいと思う」
「そうだが、違うだろう」
「行こう」
 田代が、焦れは表に出さず平坦な声で言った。四人は歩き出す。筆谷さん、とさくらいが呼ぶ。手が外される。
「何か見たの?」
「何も」
「筆谷さん、私には嘘つくのね」
「他の人間にもつくよ」
「おい」
 苛立った北の声が呼ぶ。
「何故驚かない」
「驚いてる」
 筆谷の顔から口に出した答の誠は感じられない。
「田代」
「立っているだけで、何と言うこともない」
「気味が悪いだろう」
「下りでしか見ないし、夜に下ることはもうあまりないし」
 ああ、と呆れ顔になった北の顔が次の言葉で更に歪んだ。
「先生の家では蚊帳を吊るし」
 歩調を速め、すたすたと田代を追い越した。
「北さん転びます」
 さくらいが追いかける。
「転ばん」
 背中で返事をする。
「いいえ。私が」
 その言葉で北の足が止まり、己の家内が後ろにつくまで待った。
 少し離れ、田代と筆谷は並んだ。
「君は何だと思いますか」
 筆谷が煙草に火をつけ、尋ねる。
「僕は植物だと思うことにしています…。いや、もう信じている」
「植物?」
「満月の夜にだけ咲くサボテンがあったでしょう」
「月下美人かい」
「あれのように月の射す夜にだけ生える植物でいいと思う」
「いいと…思う?」
「先生には見えないそうです」
 童女の面差しは誰かに似ている。
「会いたい、と言われても困るし」
「そうだな」
 筆谷は深く息を吐き、確かにそれは困る、と低く笑った。
「しかし綺麗な娘さんだ」
「奥様に似ているのだと…」
 咥え煙草で筆谷がこちらを見た。困るなという顔に見えた。そのとおりです、と言うつもりで頷いてみせた。
 前方ではさくらいが、私たちも蚊帳を吊りましょうか、と声を弾ませる。うちにはないだろう、と北が渋い顔をする。