転居いたしました


「あれは君のことが羨ましいからあんなことを言うんだ」
 北の車が遠ざかるのを、筆谷が呆れた目で見送り言った。
「怒ったか」
「いいえ」
 田代は憮然として答え、アパートの階段を上る。鉄の階段は、かん、かん、と音を立てる。田代が置き去りにしたので一升瓶は筆谷が抱えて上った。
「北は人より強欲な男だ。得たいと思ったものは得る。自分の手の中にあるものがこぼれるを嫌う。君が慮外の行動を取ったのでショックなんだろう。私が結婚した時もそうだった」
「…その手の方なんですか」
「君も付き合い、長いだろ。違うさ。細君にお会いしたことはなかったかな」
「お若い方とは」
「あれは彼女が十七の時に娶ったんだよ」
 なあ、と筆谷は笑い田代に追いついた。
 まだ荷物を積んだだけのがらんとしたアパートの、上り框に腰掛け筆谷は一升瓶を置いた。
「君もいじめてやれ。言われっぱなしは癪だろう」
「………」
 答えられずにいると、まあこれを持ってきたのも北だから、と一升瓶が押しやられた。
「君も可愛がっている後輩だし、先生のことも尊敬している。それが両方取られたような気分になったのさ」
「…おかしな考え方だ」
「そこが強欲なあれの性格でね」
「しかし…何故気づかれたのか」
 すると筆谷はいよいよにこにこして、そうか、とじっくり視線をくれた。
「何ですか」
「自分の瞳は見えないものだから」
 田代は襟元から耳までじんわり熱くなるのを感じつつ、精進が足りませんでした、と呟いた。
「いいや、いい」
 筆谷は尚、笑う。
「田代君、君は実にいい」

 下の町からてくてくと坂を上って山本の家に辿り着き、祝いの清酒を差し出してその話をすると、瓶の中に舞う金箔を眺めていた山本が突然笑い出した。
「奴め、何と言ったと」
 田代はふっと息を吐く。
「姦通という言葉を使いました」
 じ、と黙ったが大笑の余裕は残っている。山本は口元を持ち上げ、どん、と清酒を置いた。その一言を吟味しているようだった。
「傍からそのように言われると、成る程、あれは夢ではなかったと実感される」
「夢、とお思いでしたか」
「毎朝頬を抓っている」
 湯呑みに注ぐ、清らかな流れが渦を巻き、その中心に金箔が沈む。
「…不義、でしょうか」
「義は時に罠となるぞ、陣基」
 こつり、と湯呑み同士を触れ合わせる。一口飲み干し、互いの顔をまじまじと見つめれば、目の前の人の存在の確かさが、いよいよ姦通の一言の指し示す真実を明らかにし、酒精によるものばかりでなく、熱が喉を込み上げた。
「僕は今」
 田代はぐいと残った半分を飲み干した。
「だから何だと。義だろうが忠だろうが孝だろうが全部放り出そうとも構うまいと思っています」
「熱くなっとるな」
「なっていません。冷静に己が心の底を見通して得た真実です」
「怒っているな」
「怒っていません」
 新たに酒を注いでやりながら山本は楽しそうで、俺も少々かちんときたが今ので、と美味そうに酒をすすった。
「おまえのその意気で溜飲が下がったわ」
 空の器に、今度は田代が酒を満たす。
 もう一度こつんと重ねた陶の縁の澄んだ音。二人はじっと黙りこみ、揺れる水面が静まるまで指の背を触れ合わせていた。熱は酒精によるものばかりではない。姦通という言葉の生んだ些か隠微な熱でもあった。
 田代は目を伏せた。この目を見られたのだな、とようやく得心した。








2014.2月