二月
傘を打つ音が代わり、ふと顔を上げれば脇に小笹の繁る坂道のいささか薄暗い景色をよぎる斜線の、天上から降るそれが妙に重く白く見えるのだった。雨は霙に変わっていた。田代は立ち止まり、傘を脇に傾けて空を見た。雲の腹は妙に明るく見えた。もう少しの道のりなので、後は休まず歩いた。軒下に入ると、返りて見る景色はいよいよ白い。すぐにでも雪に変わるだろう。 「先生」 玄関を開けて呼びかけると、入れと奥から返事がかえってきた。 戸を閉めたのに家の中を冷たい風が流れる。座敷に人影がないので台所へまわった。 「先生?」 勝手口が開き、細長く切り取られた裏庭の景色に見慣れた背中を見つけた。灯油を注ぐポンプの音。 「ちょうど今だ。この寒い中忌々しいが、いつか切れるものだし仕方がない」 「もう少し待っていただければ僕がやりましたのに」 「お前が来ない日も灯油は切れるぞ。いつものことだ」 眇めに目盛りを見てポンプを止める。狭い裏庭にも小笹が迫っている。暗く沈んだ景色に白い一片がよぎる。 「いよいよ来たな」 山本は白い息を吐き、銀色の灯油タンクを抱えて勝手口から上がった。 「どうした、その袋」 冷たい廊下を歩きながら山本が振り返る。田代はいつもの鞄の他に赤い紙袋を提げている。 「チョコレートを」 「チョコレート?」 「買ったので」 「お前も商業主義の戦略にのせられたか」 座敷も、換気をしたのだろう、うっすらと寒い。タンクをストーブに入れる重たい音。カチカチという音がして火が点く。山本はストーブの前にしゃがみ込んだまま、赤く熱せられ始めたのの前に手を翳す。 「確かにバレンタイン・デーではありますが、男の僕が買うものです。義理チョコでも本命チョコでもありませんよ」 「最近は友チョコだのというのまであるんだろう」 「お詳しいですね」 笑いながら田代は袋を開ける。まだ炬燵には入らない。 「他にも自己チョコだの何だのと名前をつけおって。たまたま美味いチョコレートを食べたくなったのが二月十四日だったらどうすんのだ」 「ですから僕のもたまたまですよ」 山本がようやく炬燵に足を突っ込み、田代は上着を脱いで畳むとそれにならった。ストーブの火は入ったばかりだ。まだ寒い。 「スーパーでもどこでも、あれだけ並んでいると美味しそうなものが目についてしまうので。悪くはないかと」 「女だらけの列に並んだろう」 「いいえ、この天気ですからお客はちらほら」 「街も雪か」 「僕の出た頃はまだ雨でした。ここに来る途中で霙に」 包み紙を開けてひろげれば食べないということもなく、では今日は紅茶にしますか、と田代はまたすぐ立ち上がる。 「時代の風潮というのは変えられんもんだ」 仕切りをされた箱の、その中で小さな細工物のように並ぶチョコレートを山本は一つ抓み上げ口に入れた。 「応じることもまた必要である」 「先生はもっと頑固な方かと思っていました」 「変えられぬ風潮の中でもよくしようと努めることだ」 甘い、と呟き紅茶を啜る。 「そも、これにしてもどこから始まったのんか。元は聖人の殉教だろう」 「聖ヴァレンタインですね。ローマ皇帝の命に背き絞首刑に処せられたといいます」 「ほう」 「皇帝は兵士の結婚を禁じていたそうです。愛する者を故郷に残した者がいては士気が下がると。聖ヴァレンタインは秘密のうちに彼らの結婚を執り行ったということです」 「それでまつられるものなのか」 「奇跡も起こしているようですよ。監獄で召し使いに盲目の娘がいたが聖ヴァレンタインの説教を聞いて目が見えるようになったと。そもそも聖ヴァレンタインという人物は数人の像が重なって明らかにはなっていないらしいですが、恋人たちの守護聖人として信仰されてきた」 「欧米では男女関係ないらしいな」 「ええ。花だとかカードだとかを贈り合って」 いつもは縁のない美味しいものを食べるきっかけと思えば、と田代もチョコレートを抓んだ。 「先生、それはボンボンです」 「ん」 山本が口に入れたのから、アルコールの香りが鼻に抜けたのだろう、ふうんと笑う。 「佐賀にもキリスト教は伝来しとる」 「本当ですか。いえ…そうですね。長崎、熊本と九州に隠れキリシタンの伝説は多いのだし」 「『日本西教史』という書物に、文禄元年、佐賀候が洗礼を受けたという記述があるが」 「本当ですか!」 「真実は疑わしい。何月何日であったという記載もない。が、佐賀は概ね好意的な態度をとっているな。仏教とキリスト教というものは、当時のこと、激しい対立があったが佐賀では僧の協力を得て教会や修道院を建設している」 「僧? お坊さんが?」 「そのとおり、元佶和尚という人で、佐賀を訪れたドミニコ会が領内に教会を建てる許可を申し出ると、初代藩主の勝茂はこの元佶和尚に相談しなければならないと言ったと言う」 「そして協力はなったと…」 「今の柳町の付近だ。慶長の城下絵図には南蛮寺と記載されている。そうとうに広い一角だぞ」 「知りませんでした」 「今は影も形もないからな」 田代はようやく思い出してノートを取り出し今の話を書き留める。山本の話はいつ始まるともなく始まっている。記憶力はある方だが、次から次へと話されるものだから、このようにノートがなければ漏れてしまうことも多々だ。 「ですが、すぐにキリシタン禁令が出ますよね」 「佐賀での布教はたった五年間のことだ。どれだけ信奉者が増えたかは定かではないが、我が藩も最後にはそれに従わざるを得なかった」 「迫害されたのでしょうか」 「神父は追放され、内何人かは長崎で処刑されたんではなかったか。宣教師の筆録にくわしくあったと思うが、もうそこまで覚えておらんな」 紅茶で一息をつき、さて、どうしてこんな話を始めたんだか、と首を捻るのもいつものことである。目の前のチョコレートに手を伸ばし、これか、と二人して思い出した。 「聖ヴァレンタインの殉教の話でしたね」 「お前がチョコレートなぞ買ってくるから」 ボンボンは一つだけかと問われ、添え紙を見ながら、これもですと指さす。 「兵が主君にお仕えしお家の繁栄に尽くし命を捨てるが当然ではあるが、そがために結婚を禁じたとはなんとも無体な皇帝もいたものだ」 「先生も、愛情は人のウィークポイントとなるとお考えですか」 「ローマの兵士と日本の武士、現代の我々まで同じに並べて語るはそれこそ無茶というものだが、おれも極まるところは死に狂いだと思うておる」 「二つ二つの場にて、早く死ぬ方に片付くばかりなり」 いつもの言葉、二人の合い言葉のようなものであるから、山本は頷いて満足げな笑みを湛える。 「愛情なあ」 「何かお話しが」 「中島山三という男が」 しかし山本は言いかけて不意に口を噤んだ。 「…どうかの」 首を捻る。つられてそちらを見ると、わ、と小さな声が出た。真っ白な雪が庭を覆っていた。 「これは積むぞ」 山本は眉を寄せる。 「田代、帰りは大丈夫か」 「ええ、坂を下れば後はタクシーでも」 山本が立ち上がってリモコンを取り珍しくテレビをつけた。市街地も真っ白で赤いテールランプの連続する光景が映される。少し停まっている間にも車の屋根にはどんどん雪が降り積んだ。 「無理をするな。泊まっていけ」 あまりにあっさり言われたので田代もはいと素直に返事をし、返事をしてから何だってと胸の中で問い返した。 酒でも買っておくんだった、と山本が言った。 「ボンボンはさっきのが最後か」 「ああ…」 田代は添え紙を取り上げる。 「最後ですね」 お気に召しましたか、と笑いながら動揺した自分に目を背け、じゃあ今度買ってきましょうと言うと山本はふんと息を吐いたが悪くはないのだろう。お茶のおかわりを淹れ、夕飯の時間までまた話し込んだ。 西鶴の言葉が出たのは夕飯の後だった。しばらくつけていたテレビの、入って来たニュースからその方面に話が飛んだ。同性婚の話であり、ちょうど夕飯の準備にと立ち上がるところだったからすぐに山本はテレビを消した。だが話は続いたのである。
2014.2月
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