梅の香る三月五日


 風があまりに強い。冬が舞い戻ってきたようだ。小笹の影に隠れればざわめきは隔てられて遠く、風がすっかり頬を冷やしてしまったのが凍みる痛みに感じられた。風邪薬は今朝で飲みきっていた。初期感冒だと同級生の医師は言って、感心した。
「いや何、こんな時でもお前はペルソナを被るのが上手い」
「褒め言葉じゃないな」
「ちょっと嫌味な表現になったのは謝るよ。そうじゃないさ。こんな時も弱みを見せないんだなと思ったんだ」
「十分見せてるだろう」
 シャツのボタンを留めながら答えた。同級生はカルテの上に肘を突いて少し遠目に田代を見た。
「変わらんねえ、お前は」
「そうか」
「高校生の時のままさ。清冽だよ」
 眼差しに不審を隠さなかったから同級生は更に言葉を続けなければならなかった。
「大丈夫、見た目はちゃんと老けてる」
 三日四日前の遣り取りだった。
 何故、風邪を引きかけたのだか理由が思い出せない。心当たりがない。この所毎日元気とはいかなかったことは認める。筆谷がぷいといなくなった。水曜の教室に出たらいなくなっていた。家には鍵がかかっていなかったし、教室の戸も窓も開け放されていた。何かの用事だかと思ったら、それから一週間帰って来ず、田代は何の準備もなく教室の仕事を一手に引き受けることになった。筆谷はカルチャースクールの書道講師も週一で請け負っていたから、そちらにも急遽代理で入った。目まぐるしい一週間。しかし妙に活力はあったのでは? 青天の霹靂のようなこの状況を困難に思いつつも、立ち向かうことは楽しくなかったろうか。
 一週間後の水曜の日暮れ、小学生や中学生の生徒たちが帰る頃入れ替わりに庭に入ってきた筆谷の方がよほど疲れた顔をしていた。彼のそんな表情はほとんど見たことがないが…。彼は肉体的は疲れを見せても精神面のそれを露わにすることはなかった。寧ろ精神の疲弊などありえず無尽の活力をどこか秘密の泉から手に入れているような男であったのだ。その筆谷が泣き疲れたような顔で庭を横切り、縁側から教室にごろりと横になってこう呟いた。
「寒い」
 結局田代は自分の愚痴を全て脇に置いて飯の世話に温かい風呂にとひとしきり面倒をみたのだった。
「泊まっていかないかい」
「よします」
 火を入れたストーブを背に、風呂上がりの半裸の男は言った。田代の端的な答えは予想の内か、しかし少し寂しそうな顔を見せた。
「まあね」
 灰皿を引き寄せ、いつのか分からない吸いさしを口にくわえマッチを探す。
「勘ぐられても、困る」
「勘ぐりようもない」
「真面目な返事はせんでもよろしい」
 マッチは卓袱台の上だった。田代が取り上げて火を熾した。筆谷は眩しそうに、また煙たそうに目を細め火を吸い付けた。そして田代は眼鏡をかけていない男に、年齢が刻むよりも深い皺を見出した。
「ぼくはねえ、田代君…」
 筆谷の言葉は続かなかった。口からはだらしなく紫煙が溢れる。田代君、と煙草を離し、切り直すように息を吐く。
「君、電話をしますか?」
「電話は…実家に、時々」
「先生に電話をしてごらんなさい」
 預言者めいた眸が田代を見た。田代は答えなかった。見つめ返す目に、やはり不審は浮いていたろうと思われた。しかし相手は預言者の眸である。揺るがなかった。重く、光なく、だが強く田代を縛り付けた。
「今夜です。電話をかけなさい」
「…何があったんですか、筆谷さん」
「ぼくのことはいいんだ。片はついたよ」
 御馳走様、と煙草を揉み消し筆谷は胡座の両膝に手をついて頭を下げた。
 あの夜、電話をした。電話は繋がらなかった。寒気を拾ったのはあの夜かそれとも翌日ではなかったか。病みついたと言うほどではないが何とも肉体の不自由なような日々。電話をかけるという試みはあれよりしていない。今日は連絡もせず訪ねるところだ。
 山の上の方からざわざわと総毛立つような気配がやってくる。それがふと消えて恐怖の源は何だったのだろうかと天を仰ぐと、まさに頭上の梢が吹き下ろした風に揺れている。楠の緑は濃い。空は明るい水色である。だから尚、濃い。立ち止まっていると身体はほかほかしている。コートの内側で熱が逃げ場をなくしている。頬に手の甲を触れると、そこは人の肌ではないように乾いて冷たいのに。田代はもう一踏ん張りと坂を登った。
 手入れされなくとも道の脇の梅は咲く。山本が教えてくれたところによるともう何軒も古い家があったらしいが、今は跡形もない。山本の邸を見ても思われるように立派な家だったのだろう。塀が崩れても梅が残っている。白梅である。こぼれたのが道を彩る。まだ誇るだろう。桜の季節がやってくるまでは。初めてこの坂を登った年は桜が早かった。早咲きを田代は見出したものである。目を伏せると早朝の光が目蓋の裏に蘇った。あの朝。紫煙を追いかけて師の姿を探した朝。
 はたと気づいた時には家も目の前だった。今日が三月五日だと思い出した。田代はカレンダーに印さえつけているのだ。初めてここを訪うた日は、今も鮮やかに思い出される。人に漏らせば女々しいと言われそうで己の内にのみ留めているが、今日は記念日なのだ。手ぶらで来てしまった…、と庭の前に佇んだ。
 庭は静かである。古い家屋も何だか静かである。ご不在か、と思い急に熱が抜けた。体重がなくなったようで心細い。門を抜けて見ると、庭は掃き清められているから今朝まではいたものだろうかと思われる。庭の端にしゃがみこんで縁と、影を落とす屋根と、背後の金立山を仰ぎ見た。喉が渇いている。頬が冷たい。急にぞくりと鳥肌が立った。汗が冷えて突然寒くなった。田代はくしゃみをした。
 縁側のガラス戸の向こうに人影が。誰かいる。誰かいるとすれば山本である。だが妙な心細さを捨てきれぬまま恐る恐る見つめていた。ガタガタと開けようとすると必ず鳴る最初の数センチ。それからストンと開く。ガラス越しに目は合っていたはずだが、お互い初めて互いに気づいたと言わんばかりに目を見開いて見つめていた。
「何をしとる」
「こんにちは」
 田代は立ち上がり、汚れてもいない膝を払った。
「ついさっきお邪魔しました」
「入れ。寒いだろう」
「風が冷たいですね。いつまでも…」
 話ながら玄関に回る。戸を開けると山本が出迎えて、やはり互いに妙な心地である。
「…どうか、されましたか」
「いや、今年は来んのかと思うて今し方電話をかけたところだ」
「どこへです」
「お前の家だ」
 確かに、今年、と山本は言った。田代はそれを何度も胸の中で繰り返し、どう表情を作っていいのか困る。
「今年も来ました」
 朴訥な言葉に山本がようやく笑った。
「顔が赤い」
 んにゃ、と言い直す。
「頬が赤いぞ。真っ赤だ。熱か。風邪引いとんのか」
「いいえ、薬は飲んだのです。これは北風のせいでしょう」
 田代は手の甲を頬に当てる。赤いと言う。だが冷たい。手も冷たい。よく分からない。コートの内側がまた急にぬくもった。台所に向かおうとすると、日向に行けと追いやられる。縁側から差す日は明るいがぽっかりと寂しい。明るい空白が先までここは独りだったのだとやけに教えてくる。日向に座布団一つ。それから何も書かれていない短冊一枚。今年の展覧会に出品される作品を練っておられたのだ、と思う。座布団には座れぬから、少し離れた所に正座した。
 ガラス戸を開けて冷えた空気は静かに押し寄せてくる。風は屋根の上、頭上遠くに鳴る。山本が盆に湯飲みを二つ、運んでくる。が、それを差し出す前に座布団に座れと押しつけてくる。すみませんと謝りながら座ると、医者にかかる前に病の根を断てと毎年どころか毎シーズン言って聞かせなければ分からんか、と山本は畳の上に直に座った。
「生姜湯」
「ありがとうございます」
「俺に伝染すなよ」
「気をつけます」
 辛いのが効いている。喉を心地よく刺す。痛いのが心地よいからやはり治りかけか、このぬくもりで治ろうとしているのだろうと田代は安堵した。
「して、何だ。忙しいか」
 展覧会の準備のことを問うている。田代は筆谷が出奔したことを話した。それで疲労が溜まったのだろうと言った。あいつめ、と山本は呆れ返った。
「何をしておるのだ」
「事情は尋ねませんでしたが」
「殴ってやったか」
「まさか」
「俺がいたら拳骨を食らわせてやるものを」
「悪い気はしません。僕を信頼してるんだろうと分かりましたから」
「甘えおって」
「もっと素直に甘える方かと思っていましたが」
 田代君、疲れたから掃除をしておいてくれないか。そう笑顔で頼まれたことはある。あれはあれで素直に甘える要領のいい男というペルソナだったのだろうか。ならば田代は筆谷の素顔をほとんど見ていないことになる。
「…事情はあったことかと思います」
 改めて田代は言った。静かな声に山本が口を閉じて頬杖をついた。
「聞き出すか」
「展覧会が終われば、アルコールにでも助けてもらいましょう」
「飲めんくせに」
「先生のお相手はできます」
 顔を見合わせて笑い、ぽっかりと明るいばかりの空気がようやく緩んだ。
「筆谷め、どんな顔をしとった」
「疲れているようですか」
「人、であるな。あのような男でさえ人生の痛苦から解脱はかなわん」
「先生」
 呼びかけるとじっと見つめる目が底の方まで見通して、先が続けられなかった。筆谷に言われて電話をかけた夜のこと。電話の通じなかった夜のこと。あの夜の寂しさがしゃがみ込んだ庭先までずっと続いていたのだ。
「…いい句は浮かびましたか」
「休憩だ。休憩」
 山本は色紙をすっとどけて、飲んだか、と空の湯飲みを盆の上に戻した。
「向こうを向け」
「え」
「向こう」
 指をさされる。座敷の奥、掛け軸が掛かっている。書かれているのは長歌だ。その下に筆が乱暴に走ったのは多分絵であると思われる。どなたの、と尋ねようとした田代の背中にぬくもりがどすんとのしかかった。
「先生」
「これは意外。塩梅が良い」
「先生」
 背中にもたれかかってくる重みに押され、こちらは前のめる。山本は合わせた背中を伸ばして気持ちよさそうな声を上げた。
「ほれ、このままだと寝るぞ」
「それは参ります」
 押し返す。押し返しすぎて今度は田代の背が伸びる。丁度良い塩梅を見つけると、確かに心地よかった。ぬくい。
「さっき、何を言いかけた」
 田代は黙っていた。すると山本の後頭部がごつごつとぶつけられる。観念した。
「僕も電話をしました」
「いつだ」
「三日か四日か…五日くらい前か」
「おいおい、いつだ」
「ああ、水曜です」
 筆谷が帰ってきた晩だった。預言者の眸にそそのかされたのだった。
「僕らは電話をしませんね」
「お前が来るからな」
「そうです。お話しを伺いたければこうやってお訪ねする方が早いので」
「早くはあるまい。遠いぞ」
 いいや、早いのだ。電話で不在を知り過ごす夜は長い。訪ねようと思った時、自分はそれができるのだ、と田代は思った。そして筆谷のことを思った。訪ね得ぬ人を訪ねたかったのではと思いついた。電話さえ繋がらぬ人。会いたい人。
 先生、と呼ぼうとして口を噤む。あまりに言葉を口に出すのは浮薄な気がした。ただこの沈黙を共有し、時を確かなものにしたいと思った。初めて訪ねたあの日は遅くまで話し込んだものだったが…。
 ぞぞ、と二人の背の間を走るものがあった。風の立つ音。山を鳴らすようである。流石に寒いのが縁側から吹き込んだ。だが。
「梅だな」
 山本が呟いた。田代は掛け軸の向こうに仰ぎ見る金立山を思い描いた。
「この先の紅梅ですね」
「あれはいつ植わったのか、分からん樹でな」
「そうだったのですか」
「俺が餓鬼の頃からあったようにも思える」
 母親が梅の枝を抱いていたという記憶を山本は低い声で話した。
「母が切ったものだ。手には鋏があった」
「梅と桜は違いますね。季節も勿論なのですが、枝振りが」
「どう見る」
「天にまっすぐ手を伸ばすようです」
「桜は」
「撫でる」
「撫でる?」
「咄嗟にそう思いました。樹下を撫でるようだと」
 風は止まず、漂ったと思った梅の香は潮の引くように去る。
「梅の初花…」
 詠みかけて考え直したか、また沈黙が降りた。田代はわずかに首を傾けて春を待つ庭を、山を眺めた。そして目を伏せた。
 ――咲としても人にしられぬ梅か香をさそひなゆきそ春のやま風
 山本が詠むのに誘われて、鼻腔に梅の香りが遊び、またするりと消えてゆく。背中はぬくいが少し寒い。日は照るが冷える午後だ。ごつん、と山本の首がぶつかった。
「寒い」
「閉めましょうか」
「まだ、いい」
 動くなとのことだ。田代は遠慮しいしい自分の後頭部を相手にぶつけた。長い午後だったが、それでも田代は一日がもっと長ければと思った。
「今日は話すことがあったんだがなあ」
 あくびを堪えたのが背中越しに伝わる。
「少し寝る」
「どうぞ」
「倒れるから膝を貸せ」
 起きたら話す、と山本は言った。
「一日が二十四時間では足りん」
「僕もそう思います」
 背中から熱が離れる。熱は膝の上に移る。風が収まって、日溜まりにはまたぬくもりが戻った。梅の香に山本はどんな夢を見るのだろうか。田代は穏やかな心地で目を伏せる。目蓋の裏に春の模様が踊る。梅のこぼれた道を歩く。紅梅を抱く母を想像する。その姿は姉にもなる。妹にもなる。鋏を持っているのは田代である。一枝、切り取る。何、と思った訳ではない。だが掌は自然と山本の肩に載っていた。そういえば今日は三月五日だったのだ、と思った。








2015.3.5