台風の夜は百物語にでも興じるか
嵐の前の風の匂いはいつも不安であるというより自由で、懐かしい匂いがする。それは子供の頃かいだ匂いであり、美術図鑑の重たいページを持ち上げた風の匂いであり、魂がこの名前で生まれ落ちる前漂っていた風の匂いでもあるのだろう。あなたの呼気の一部でもあったのだ、と田代は思った。カエサルが裏切り者の名前を叫んだ最後の呼気もこの空中に漂っているように、同じ故郷で生まれた者同士であればその繋がりは更に濃いであろうから。共に食事をし、同じものを食べ、同じ水を飲む。言葉を交わし、手を触れ、隣に眠る。それぞれの肉体、それぞれの魂ながら、血を分け合うこともできない間柄ながら、しかし自分の一部は確かに山本常朝という存在でできている。一部と言わず、魂にも肉体にも染みこんでいる。開いた傷口を絆創膏のように塞いだ言葉がいつの間に膚に溶け一部と化したかのように。風に背をあおられながら庭を横切る。振り返れば木々の隙間から僅かに街が見える。灰色の空の下、じっと地面にへばりついて息を殺す街が。喧噪は遥か遠く、風の音ばかり響くこの山の麓にあって、梢が鳴れば幼い頃読んだ物語の主人公のように野も山も駆けていけるのではないかと珍しく子供のような夢を見た。子供も子供の、きっと兄が生きていた頃に見た夢に違いなかった。山本が雨戸の準備をしている。 「今度は来るかもしれん」 「どうもそのような雲行きですね」 「屋根が心配だが」 二人で見上げた屋根の瓦は重々しく見えるものの、軒から忍ぶ草が垂れてもいる。 「心配をしたところで今更どうしようもないんでな。寝ているところに雨漏りしても怒るなよ」 「また丼を用意しますか」 「丼で済めばいいがなあ」 バケツに盥にと用意もある。 「いつぞやのフルオーケストラになった日には寝られんな」 「今夜は夜明かしいたしますか」 「いいや、俺は寝るぞ」 夜が更けて風はいよいよ強い。部屋の隅に丼の用意はあるが、まだ使うには至らなかった。だが、騒がしい夜ではあった。風に、木々が泣く、山が鳴る。雨戸が時々脅かすような音を立てた。田代は枕にと自分の膝を貸したまま、山本の求める本を朗読する。『怪談』は、成る程夜明かしには相応しい。 「交互に読めば、最後は何か出るかもしれません」 「信じておるのか」 くすりと笑うと、お前が戯れを言うのも珍しい、と本を取り上げられた。 「どれ一つ読んでやるか」 夜半過ぎ、ぽと、ぽと、と畳を小さな音が叩いた。田代は手を伸ばして丼を引き寄せた。器の底を叩く水音は暗闇の中に涼やかだ。 「寝るか」 顔の上から本をどかして山本が言った。 |