「迷子の英訳を知っておるか」


「知るとも…」
 知らぬとも、と自信がない訳ではないのに、その先を口にするのを躊躇いながら田代は口の中で呟いた。教えてつかわそう、と山本が言うその目を見つめることができなくて俯く。その先の言葉を聞くのもひやりと恐ろしかった。何故かは分からなかった。漱石だな、と頭の中では思っている。学生時代に捲ったページがぱらぱらと行き過ぎ、白紙の瞼の裏に覚悟を決め顔を上げた。顔を伏せたまま聞くなどと礼の無いことはできない。彼は師であれば。自分は弟子であれば。

 帰宅の道すがら、坂道を下りながら迷羊、迷羊、と呟く。もう一つ、また別のくだりがあったのだと記憶の糸を手繰ると鼻の奥に香ったものがあった。滅多につけることのなかった香水と、それをくれた人の記憶だった。香水の壜はどこへいったか、もう思い出せない。狭いアパートの部屋のどこかにはあるだろうか。捨てれば記憶にあるものを、と思うと、更に香水を振り捨てるような小説があったようだと想起の連鎖は続いた。しまった、と口を覆い一人で赤くなったのは作品のタイトルを思い出してからだ。香水は初夜の褥に振り撒かれるものである。すると迷羊という言葉と共にヴァニラの香りが鼻腔に蘇るほど思い出されて、田代はすっかり暗くなった坂道で脚を蹌踉めかせた。
 この坂を上って初めてあの庭先に辿り着いた日、自分が迷い子であったことは確かで、彼がそれを笑みや軽い冗談をもって思い出すということは田代にとっても嬉しい。しかしどうにも危うい場所を歩いている感は否めず、刃の上とまではいかないまでも、自分の発する言葉や思わずしてしまう表情の、理性の手綱をしっかり握ってやらねばならないあたりやはり綱渡りの続く日々だった。いつからこの綱に乗ったのか。道というものが一つであるというなら最初から、出会ったその日からは勿論、それ以上に不本意な離職も出世コースからは外れてゆく道さえも、溯れば更に更にあの頃からこの場所へ続く道を辿っていたのだという思いがひしひしとした。
 そういう自分だからこそ出会った。しかし本当に出会えるとは思っていなかった。常住死身の書を見上げていたあの頃、自分は山本と相まみえる日を夢見さえしなかった。
 バスに乗って帰宅した時、夕飯にはやや遅い時間になっていて、山本の誘いを断ることもなかったと思ったがあのままあの場所にいたら危うかったろうからやはりよかったとも思う。やる気のないのを表すかのように冷蔵庫から取り出した冷や飯と、台所の棚のどこかに閉まったと記憶する清酒を探しながらふと思い立って、奥の六畳間の明かりを点け箪笥の中を探った。否、ここではない。とって返し洗面台の、石鹸や何かの買い置きを入れた抽斗を開ければ、その奥に香水の壜はひっそりと眠っていた。
 田代は風呂の湯を張り、そこに香水を振りかけた。空の壜を取っておいても仕方ないと思ったが捨てる張り合いもなく風呂場の小窓の桟に置く。匂い立つ。くらくらする。風呂場を出ても脚がふらついた。酔ったのだ。
 それでもその夜はレンジで温めた飯に、壜詰で買っておいた鮭のほぐし身をかけた茶漬けを掻き込み、今日書き留めたものを整頓した後は風呂に入った。甘い香りは風呂場に踏み込んだ一瞬眩暈をつれて田代を包んだ。また眼鏡をかけたままだったので、一歩後じさって眼鏡だけ外した。
 身体を洗うのも髪を洗うのも香りのする湯だった。ひたすら雑念を閉め出してただただ香水の匂いと湯に包まれようとしても無理な話で、瞑った目のぼんやり明るい闇の中、時折白い手や肩が掠め、あれは香水をくれた人の手だなと思いつつも、重なるのは今の自分の手や肩であり、妄想がその細部まで姿を現す前に田代は湯を抜き、小窓を開け、冷たい風を胸一杯に吸い込まなければならなかった。緩く勃起しているのは分かっていた。
 どうしてこんな愚かしいことをしてしまったのかな、と真顔になりながら湯を沸かす。清酒ではいよいよ始末に負えなくなるだろう。抹茶を飲み干すと、身体の奥から苦い香りが立ち上り少しはマシな気分に落ち着いた。布団に入る瞬間も、それが自分の匂いを覚えた布団であるから異質な香りを纏わせていることが強く際立ったが、僅かな間のことである。眠りに落ちた時、もう気にしてはいなかった。
 翌朝は布団から半身起こし、溜息をつき、洗濯機を回しながら更に溜息をつく羽目にはなったのだけれど。








2014.3〜4月