東風に風ひくべき薄着


 バス停からの道のり、まだ坂のなだらかなところを歩を早めた。浮き足だったつもりはないが足を蹴り出したか。靴の中に小石を一つ拾ったようである。がつり、と刺されて田代は立ち止まった。
 片足立ちになり靴から小石を追い出しながら、自分はこの小石を蹴るところも、これが靴の中に入り込むところも見ていたのだと思った。見ていて何故立ち止まらなかったのか。痛い思いまでして。
 怒っていたのかもしれない。喜怒哀楽のどれも、田代は表に出すのは恥ずかしい。怒っていたのか、と空っぽの靴を見つめ、怒っていたのだろう自分に腹を立てた。
 理由を何、と一つ判ずるのは難しかしい。
 久しぶりに家に顔を出した。ニュースで知った顔を見つけた。昔のことを思い出した。アパートの管理人に呼び止められた。教室で言うことを聞かない子どもの二、三人。どれも大したことではないように思われる。平生起きうることである。それを一方的に腹を立てているということは自分の狭量のせいだろうと思うといよいよ遣る瀬なさが嵩じて、どうにもいけない。立ち止まるくらいでいいのだと息をつき、靴を履いた。これから上る坂を見上げた。いずれ、着く。腹立ち紛れに地面を蹴ろうとて、駆け上がろうとて、いつものように一息一息上ろうとて。
 叱ってもらおう、と思い顔を上げたところで雲の薄いところから陽が射した。薄雲を押し流す風の音にのせ、色のついた香りが鼻先に漂った。両脇の畑の、まだ少しばかり上った先、農家の軒先に梅が咲き誇っている。折りても活くという、梅にさえ自分は及ばない。
 滅多なことはしない。一枝いただけませんか、とそれは全くの思いつきであった。声をかけようとしたが、車庫から黒い犬がじっとこちらを見つめていた。口が開きかけたところで自分が背を向けた。低く唸る声、息。吠えられず歩むのも少し気抜けしてしまうが。
 庭の木戸を押し開けると、まだ陽気がいいとも言えぬのに縁側が開け放たれていて、何かあったのかしらん、誰か来たのかしらん、と思うが人の姿はない。濡れ縁には黒い枝。紅い梅が花をつけている。
 少し裏に回ると物置の戸が開いていて、成る程、と思った。
「先生」
 声をかける。
「去年の壺、どこに仕舞ったか覚えとらんか」
「座敷に飾られたものでしたら、こちらに」
 薄暗い中に入り込む。埃くさい空気が鼻をついてくしゃみを堪えた。
 壺を収めた木箱は膝丈もある。いつか地震の起きた際、割ってしまうのは惜しいからと低きに置いたのを山本は見逃したらしかった。
「歳のせいか。忘れ物を歳のせいにするのは現実の享受と精神の怠慢、どちらだと思う」
「若者でも忘れます」
「お前は覚えとったろうが」
「なかなか忘れませんので」
 記憶の底の腹立ちさえ今でも再燃する。が、この家のことならば何一つとて忘れるつもりはない。
 梅は、素人だぞ、という山本の手で野趣溢れる風に活けられ、座敷に据えられた。
「中野さん…ですか」
「よく分かったな。数馬だ。米を取りに行ったついでにな、庭に咲いているのがあんまり良かったんで一枝、と乞うた」
「しかしこんなに」
「一枝では寂しかろうとな。あいつめ。侘びは望むところだわ」
 田代は濡れ縁に腰掛けたままそれを観じた。座敷の古い香りに梅の香がしんと染み入る。
「表から来い」
 返事をして濡れ縁から下りた所、また陽が翳る。風が葉の落ちなかった山をざわめかせ、麓の男はくしゃみを一つした。
 人前であれば照れるところ。
 鼻をすすり、ここで憤然としてはこれまでの甲斐がないと一つ溜息、玄関をくぐる。
「騒がしいな」
 座敷から出てきた山本に言われた。途端、熾きに水をかけたように怒りがしゅんと消えた。
 お聞き苦しかったでしょう、と今更袖で顔を隠した。
「上着はどうした」
「下はぽかぽかしています。陽が照れば」
「それでその薄着か」
 シャツに、セーター一枚。バスを下り坂を上る時は寒さなど感じもしなかった。梅の香も気づかなんだ。
 今、ようやく寒い。
 玄関の戸を閉め、またむずがる鼻に袖をあてて小さくくしゃみをする。
「強がりをしおって」
「東風ですから」
「風邪を引いてもしらんぞ」
 言いながら山本は来ていた袖無しの半纏を脱いで、不養生の話はしたろうが、と苦々しい顔をつくりつつぐいと差し出す。
「…ありがとうございます」
 梅の香の漂う座敷、不養生の話を山本は繰り返す。いいか、俺は末子でな…。一度と言わず二度か三度は聞いた話だが田代は黙って耳を傾ける。肩が温もるのに目を細めていると、聞いとるんか、と山本が手を伸ばし額をこつりとやる。