蚊取り線香や懐かしい匂い




 小学二年生になったばかりの子供が田代の袖を引いて、おじいちゃんのにおいがする、と言った。
 添削を待って並ぶ子供たちがいっせいに笑った。離れた席で笑い出しそうになった上級生もいたが田代の眉間を見るとひゅっと笑いを収めた。小さな子供の手を取って教えていた筆谷が振り向いてにっこりと笑顔を浮かべる。
「ショックだったんですか?」
 教室がひけ、長机も片付けてがらんとした広い板間に黙々と雑巾をかける田代に筆谷の声がかけられた。
「君は気にしない質かと思っていたから、ちょっと意外だった」
「飾らない言葉なだけに、少しショックです」
 子供の言葉だよ、と言いつつも筆谷は腕を組む。
「でも、ぼく彼女の言った意味が分かるなあ」
 田代は足を止めて筆谷を振り返った。表情はそう変わらないが目元が暗い。筆谷は、違う違う、と手を振り自分も雑巾がけで田代の隣に追いついた。
「加齢臭とか言っている訳じゃないんです」
「汗ですか」
「うん、今年は暑くなるのが早いけどね、だからだと思うんだ」
 気づきませんか、と筆谷は自分の肩をかぐ。
「分かりません」
「染みついているんだろうね。君、蚊取り線香の匂いがするんですよ」
 田代も思わず自分の肩に顔を近づけた。
「先生のお宅でしょう」
 雑巾がけを再開すると、筆谷も足音軽く後ろからついてくる。
「小さな子供だからおじいちゃんという語彙になったかもしれないが、ぼくは懐かしい匂いだな。ぼくもね、君が朝帰りした日は分かるよ」
「朝帰りだなんて」
 人聞きの悪い、と呟いて田代はまた教室の端から端まで足音を響かせる。
「蚊取り線香の匂いだけじゃなくて、懐かしい、古い家の匂い。家族が代々長く暮らしてきた家の匂い。朝ご飯の匂い。土間のしんと冷たい匂い。山の水気を含んだ風の匂い」
「本当に…そんなに分かるんですか」
「そう訊くのは野暮だろう?」
 でもぼくは鼻がいいからね、と筆谷はまたいい加減なことを言った。



2014.7.3