六月十二日




 雨が今一つ降り出さぬので、むっと暑い。日が落ちてもまだ凪いだままである。
 台所の明かりに誘われて、網戸にヤモリが貼りつく。ちらと見上げた時には既にいた客であった。田代は残り物の卯の花を小鉢に移し冷蔵庫に入れた。流しには空っぽの皿が沈んでいる。
 団扇をぱたぱたやる音に振り向いた。勝手口に山本の背中がある。流れてきた煙は蚊取り線香のそれではなく煙草だった。田代はすんとそれを吸い込んだ。
 日暮れ前に訪れてから時間はひどくゆっくりと流れている。夕飯はどちらも小食だった。飯に、卯の花に、人参に削り鰹を和えたもの。山本は魚を尾だけ残して綺麗に食べた。田代の皿には幾らか骨が残った。
 皿を片付け、米を研ぐ。米櫃に手を突っ込み目を瞑ると手から伝わる沈黙が心地良い。二合。少し多いかもしれぬが、どうせ朝も一緒だし。
 偶に団扇が腕だか臑だかを叩く乾いた音がした。この前梅雨に入ったばかりと言うのに、もう蚊を見かける。先日は帰り道、時間は遅かったけれども薬局に寄ってムヒを買った。坂道を下る半ばで食らわれたものだった。
 田代は米を研いだ手の甲を額に当てた。涼しい。指先にはまだ米粒の歌うのが聞こえる。息を吐くと、暑いな、と声がかけられた。
 茶は熱いのを。
 炊飯器のスイッチを押すと、この古風な家にも電子音の響くのが、いつも些細ながら愉快である。一仕事終えたという気分だ。
 湯呑は真新しいものが並んでいた。
 唐津であった。
 田代は薬罐の湯が沸くのを待ちながら、益体もなく昨日のことを思い出す。教室に着くと一仕事前だが筆谷が茶を淹れてくれて、お土産、と松露饅頭を出してくれた。
「唐津ですか」
「一昨日は悪かったね。一人で大丈夫だったかな」
「子供たちはいつもより静かでした」
「君、また眉間に皺を寄せたろう」
 机を並べる間、筆谷は煙草を一服する。
「先生には湯呑をお送りしたんだけど」
「お土産ですか」
「うん。今日はねえ、本当なら顔を出してご挨拶したかったけど、夜も教室だし」
 続く沈黙は妙にざわめく感があった。煙草を口から離し自分を見つめる筆谷の笑顔からいよいよ邪気が抜けて、何かあるのだなと思った。
「今日は山本先生の誕生日なんだがね」
「…そうでしたか」
「田代君はもしかして知らなかったのかしらん」
「初耳です」
 何故気にしたことがなかったろう、と考える。田代は自分の誕生日にも執着はない。山本にも話したことはないし(筆谷は履歴書を見たから知っているだろう)、何だかんだで付き合いの続いている北からも祝いの一言ももらったことはない。家では毎年赤飯を炊いてくれたけど。
 何かお祝いしてみたいが、と思ったが一日遅れているし、かえって気を遣わせる気がする。そもそも誕生日や行事に関係なく、田代はよく土産を持ってあの坂を登るのだ。
 それでも昨日から気もそぞろであった。今日は朝から玉屋をうろついた。ちょうど父の日の売り出しで、平日だが催事は賑わっていた。実家にも随分戻っていない。同じ市内に住みながら、ここ数年疎遠である。山本は折に触れて親孝行をしろと言う。既に親不孝の限りを尽くしているせいで、いっそ顔向けせぬ方が孝行ではないかと思いもしたが、山本はそれを叱った。
 桐の下駄を選び、宅配で父に宛てた。結局、誕生日祝いは見つからない。話を聞けば北が例の禿髪の細君を伴って寿司を持参したろうという話なので、今更御馳走というのも。悩む内に夕方になったので仕方なくいつもの鞄一つ提げてバスに乗った。
 ささやかな夕食。今日は二人共言葉少なであった。湯呑みは二つある。対という訳ではないようだ。絵唐津。黒い影は松である。
「先生」
「ここでいい」
 山本は振り向き、熱い茶を受け取った。
 田代は山本の傍らに佇んだ。彼の背の向こうにただただ濃い山の夜が見えた。月は雲の上だろうか。天に昇って雨ともなりきれない湿気がべっとりと貼りつき、団扇の涼もなかなか膚の内まで届かない。
「筆谷め、二つ寄越しおった」
 半ばまで飲み干し、山本が愉快そうに言った。
「一つは弟子の分ということだろう」
 田代はもう一つの湯呑に茶を注ぎ、手の中に包み込む。身体を覆う熱よりいっそう明瞭な熱は皮膚に痛いような、だがその痛みに似た熱さが心地良いような。
「使うごとに味がでる。今日と同じ器はない」
 空っぽの湯呑みを手渡され、洗ったものを明かりに翳した。時のような砂の色と、松蔭は鉄の黒である。これが昨日、この家で息を始めたばかりだという。
「昨日、お誕生日だったと伺いました」
「門松は冥土の旅の一里塚と言ったもんだが、生き延びたもんだ」
 その言葉は笑みを含んだものではなく、闇にうっそり吐き出されるもののようであった。田代は汗ばんだ肌に不意に鳥肌の立つのを感じた。おめでとうございます、と言い損ねた。
 山本がすっくと立ち上がった。引っかけた下駄がコンクリートの土間でからんと音を立てた。
「歩かんか」
 勝手口の草履を履いた。自分と山本の足の大きさがたいして変わらないのは不思議な気がした。
 家の裏を回り庭に出ると、雲を透かして月の影が見える。ぼんやり明るく、だが行き先は危うい暗さである。いつも来るのと、坂を反対方向に歩く。山中に続く道は、景気の良かった頃、サイクリングロードとして整備されたと言う。道の所々には苔生して字の見えない指標がある。
 空のぼんやりとした明かりの他、照らすものはなかった。それも両脇の樹木が大きく張り出すので次第に遠ざかり、闇ばかり濃くなる。
 どこからか水音が聞こえる。この先に小さな川があるのは知っている。しかし行く先から聞こえてくる音は、夜の中で存外に激しく足が竦んだ。
「どうした」
 山本が振り向いたらしい。
 姿は見える。しかし闇に洗われた目が見るのは果たしてこの世のものだろうか。
 山本が歩き出すので、後を追う。このままどこへ連れて行かれるか分からない。水音の喚起させる恐怖と、この人の背を追ってならどこまででも、道など終わらなければいいと静かに興奮する想いが綯い交ぜになる。息が上がる。
 硬質な足音が立ち止まった。橋の上まで来た。
 ざあざあと川の流れる音は、この身体の中でどうどうと巡る血の音を飲み込む。己の存在が闇に溶けた心地だ。山本は目の前にいるのだろうか。
 やおら、田代は現実に引き戻された。淡い光が目の前を流れて、消えた。
 煙草ではない。あの赤い火ではない。
 黄のようである。水の碧のような残像が残った。
「蛍…」
 呟いたのは自分の声だった。はっとして口を覆った。
 小城の祇園川に見るような乱舞とまではいかぬが、それでも一つ二つと数えるには余りある数だった。
「呼んでおるな」
 隣で山本の声がした。
 蛍の横切る、僅かな時間だけ互いの顔が見えた。
 淡い舞いが終わり、寂しげに一つ二つが鳴かぬその身を焦がす頃、二人の足はようやく動き出した。戻ってみると十時も近かった。
「よくも転ばなかったものだ」
 勝手口の明るさに目をしょぼつかせながら山本が言った。
「あっ」
 田代は小さな声を上げて立ち止まった。
 草履の鼻緒が切れている。
「すみません」
「何、元から古かった」
 それより怪我はないかと問われる。蚊に食われていた。
 薬箱からムヒを取り出す。それを塗る間、山本が蚊取り線香を点けた。
「明日は、俺もついでに下りようか」
 独り言のような言葉。
「草履を買って、筆谷にも礼を言わねばならん」
 虫刺されの赤い痕が残る足に、山本が団扇であおぎかける。それが呼んだか、ようやく縁側から風が吹き込んだ。風鈴が鳴る。雲が流れ、月が顔を出す。
「仰げば空に月ぞさやけき」
 ぽつりと詠む声が重たい水の一滴のように胸に落ちた。
「気を遣わせてしまったようだなあ」
 俯いていると、伸びてきた手が頭を撫でたので田代は驚いて顔を上げた。
「悩んだか」
「はあ…その……」
 下駄を父に宛てて送ったことを話した。山本は笑った。
「それだけで終わらせるなよ。日曜はちゃんと家に帰りなさい」
「努めます」
「何を思っておる」
「先生は何を思っておられるのかと」
 問う人のありか…、と山本は呟いた。
「生き延びて、果報者になるとは思わなんだな」

 翌朝は雨が降った。一つしかない傘を差し掛けてゆくと、濡れるだろうが、と肩を抱き寄せられた。
 傘を買う。
 草履を買う。
 スターバックスで軽い昼を摂る。
 教室を、母屋の側から訪ねると、顔を出した筆谷がおやおやと声を上げた。茶請けは松露饅頭だった。
「俺たちが来なんだら一人で食うつもりだったか?」
「美味しいですから」
 田代はぽいと一つ口に入れる。鼻から吐く息に甘い香りがまじった。



思ふことなど問う人のなかるらむ仰げば空に月ぞさやけき(新古今・一七八〇番)

2014.6.12 しゃさん、お誕生日おめでとうございます。