蚊遣り
ぱちんと叩く。掌には黒い蚊の死骸を中心に血が小さな花を咲かせていた。陣基は縁の外に向かってピンと死骸を弾き、残された血の跡を見た。既に吸われていたのだ。叩いた跡は赤く膨らもうとしていた。 「手を洗わせていただきます」 「おう」 別に断りはいらんぞ、と山本は言った。流しで手を洗い、ふと台所の窓から東の空が西日の反射を受けているのを見た。 「先生」 「文明の利器だな」 山本は蚊取りマットの電源をコンセントに突っ込んだが、首を捻る。 「効くんだろう。そうも見えんが」 ええ、と相槌を打ちながら開け放したままの縁に出る。 「開けておくか」 背後から山本が言う。 「蚊が」 「しかし暑かろう」 縁側に置いた蚊取り線香が妙に効く気がするのは何故か。 山本は薬箱からムヒを取り出して田代い差し出した。 「ありがとうございます」 刺された足首を無意識に掻いていた。
蚊帳
蚊帳を吊った中に山本はもう本を抱えて這入り込んでいる。そこに積まれた数冊は枕となって、うち幸運にも取り上げられた一冊のページが片手で器用に捲られる、その微かな音が薄い網の膜越しに届く。田代はまだ濡れ縁の、蚊取り線香の脇に胡座をかいていつまでも暮れなずむ空の色を浴びていた。 「眼鏡には空が映るか」 「もう古いものなので」 田代は眼鏡の奥で目を細める。 「長い付き合いですよ」 「共に人生を旅する訳だな。相棒か」 「身体の一部と言う人もいるので」 先生は、と振り向くと些か厳しいと言いつつも山本は寝転んだまま起きようとしない。読書灯は箪笥の上にあった。田代は立ち上がってそれを取ってくると、蚊帳の周りをぐるりと半周して山本の頭の方、蚊帳の外にそれを点した。 「暗い」 確かに遠い。 山本が手招きをした。田代は少し戸惑い躊躇したが、師と決めたこの男の言葉には逆らわないのである。明かりを片手に、失礼します、と蚊帳を捲り上げ素早く潜り込んだ。 「何をお読みでしたか」 「何だろうな。見えておらなんだ」 連なっているのは英語であった。山本が読んだ。追って田代が日本語に訳した。時々止まっては互いの解釈について話し合いまた続きを読む。 凪の時間が終わり、縁の外から涼しい風が吹き込んだ。軒の風鈴と、そして蚊帳を吊る金輪も微かな音を立てる。その涼しげなこと。田代は目を細める。眠いのか、と山本が尋ねる。
2014.3〜4月
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