首斬りが梅




 襖一枚へだてて鼾を聞いていたはずが、目を覚ますと隣には誰もいなかった。
 飯はそろそろ炊きあがる時分である。台所では炊飯器が湯気を立てている。だがその他は静かだし、足音一つ聞こえない。田代には懐かしく思えた。静けさ、心許なさ、それでいて爽やかな朝である。
 畳の上に残っているのは昨日来ていた綿入れではなく外出用の上衣で、師のものであるはずのそれを田代は躊躇わず羽織った。表に出れば、朝日は白雲の向こうに隠れているものの、その雲を銀に、空を眩しく光らせ、冬の陰鬱な雨の去った気配、屋内にいても清々しく感じられたのは日輪の力であったか。下駄を借りて、庭から外へ出た。
 緑の深い山である。繁る楠が冬の寂しい山も常緑に覆う。間近に見れば裸の木もあり、多くは桜であった。ここまで続く坂道にまだ竈の煙のあった時代、山本の父、またその先代が植えたものか。常に毎年咲く花である。師の幼い頃より変わらぬ景色であるという。が、樹皮の輝くにもまだ早い。残る冬の寒さにじっと耐え、蕾は固い。
 段になった坂を一歩ずつ上れば視界の開ける。葉が落ちてちょうど、霞む街がうっすら見えた。これが芽吹き、ほこれば隠されてしまう。今だからこそ望み得る佐賀の町である。上りきったところで石に腰掛けて眺むれば寒い中にも心地よさがあった。やはりよい朝である。
 やおら、振り向いた。
 花の香にである。梅の香である。枝が首を打つ。枝を掴み、山本が見下ろしている。
「先生、そんなところにいらっしゃったんですか」
「気づかなんだか」
「はい。殺気は感じられませんでしたので」
「ふん。修行が足らぬかな」
「いいえ、梅の香に、こうして気づきました」
「刀なら、首は落ちたぞ」
「本望です」
 梅の枝は引かれ、とん、と山本の肩に載った。
「寒かろう。薄着で」
「いいえ、温かいですよ」
「綿入れは…」
「それは先生が」
「待っておればよかったものを」
 枝を咥え、山本は綿入れから腕を抜く。それでは先生がお寒いでしょうに、とこちらも上衣を脱げば、とりかえばや、と差し出される綿入れ。ぬくい。確かに冷えていたようである。
 肩を並べて戻りながら、まだ早い桜の枝に手を這わせる。硬い枝が掌を擦る。
「桜伐る莫迦、梅伐らぬ莫迦、だったか」
「梅は、母もよく生け花の題材にしました」
「教えていらっしゃるのか」
「僕が子供の頃」
「お前は」
「姉は手ほどきを受けましたが気に入らなかったようで」
「お前より強いという例の姉さんだな」
「今やれば分かりません」
「勝つか」
「負けはしないかと」
「おれとはどうだ」
「では、参りますか」
「悪くない。が、まずは朝飯を食おう」
 梅は、活けておけ、と手渡された。



2015.5.4