魚を捌く師と噂の弟子
手を、見比べてしまう。手首が思いの外細い。竹刀を握る手の煙草を持つ仕草のあまりに男性的なのから、また時々自分の目の前を横切る掌の広いのから、本人の頑健な印象から比べると、意外である。骨が浮き出ている。手首の内側には血管が青白く走るのが見える。田代は切なさを感じながらも目を離さない。山本は魚を捌いている。 役所を辞めるまで魚を捌いたことがなかった。独り暮らしは長いが切り身を買えば十分。既に調理済みのものでもよい。 「つまらん食事を」 教えてやるから見ておれと言われて隣に佇んでいる。包丁を握る手。掌は柄と一体になったかのようである。刃は指先のように操られる。魚は元あった十全な形をなくしながらも、最初から定められた形へ戻るばかりのように切り分けられる。見とれる間に衣をつけられ油で揚げられ、昼食の一品となった。 「中野、というのがいるんだが、親戚筋でな。広い畑を持っておる。鶏も飼っているから時々もらう。そこの、齢の近いのが道楽で船を持っていてな」 「釣ってこられたのですか」 「家族は飽いて食わんと言うからもらってやっとるんだ」 「有り難いことですね」 「そのとおり」 箸を持つ手つき。己の生をいかなる意志を持って生きるのか、些細な仕草からもそれが感じられた。雑な仕草というものがない。魚を捌く。飯を食う。山本の手は目の前の行為に真摯だ。 食わんのか、と尋ねられた。箸が止まっていた。 「いいえ」 箸を使う、鉛筆を握る、竹刀を掴む。そのどれも教育された。田代は箸使いが美しいと給食の時間には褒められたものである。奢るほどでもないが、自分の手はそうなのだろうと思ってもいた。しかし今、目の前の手に心から憧れを感じた。手首が思いの外細い、その手。 切なさのちくちくとした刺激は子供の頃硬く閉ざしたつもりの場所に至り、不意に涙の膜が厚くなった。焦点が僅かにぼけた。洗い物をする手はひやりと涼しい。昼を過ぎてここも気温が上がり始めた。電話のベルさえ夏の音だ。 「噂をすれば、だ」 受話器を置いた山本が座敷から首を逸らして田代を見る。 「夏蜜柑は好きか」 「ああ…、はい」 「陽が傾いたら俺も一緒に少し下る。中野が山と摘んだそうだ」 日射しから痛みの消えた夕方、一緒に坂道を下り、初めて自分の知らない山本の知り合いを紹介された。 「噂の弟子か」 「誰の噂だ」 「会えばこの若者の話しかせんだろうが」 夏蜜柑は風呂敷に包み、鞄と反対の手に持った。山本と中野の二人に見送られ、辞した。 バス停で待つ間、噂の弟子、という言葉にむずむずしてじっと座ってはいられなかった。アパートに着き風呂敷を解くと夏蜜柑は畳の上に転げ落ちた。 掌に掴む。額にぶつける。 しゃがみこんだまま軽く天井に放り投げ、掌に受けとめる。また軽く俯き、夏蜜柑の匂いをかいだ。笑っている自覚はなかったものの、少し浮かれた心が軽い。その無防備さにつけ込むように細い手首を思い出して、微笑みながら胸の奥が痛い。 |