梅雨入り


 膚に染み入るような重たい雨だ。大粒の雨だ。梅雨の入りを告げる天水の最初の一滴は、だが蒸し暑さに弱っていた身には心地良い。坂道の最後を駆け上がるように登った。
「転ぶぞ」
 遠くから声がかけられた。軒下に見慣れた人影を見た。まだ昼だが山は薄暗い。座敷の明かりに、身はまだ雨に打たれているというのに、人心地がついた。
 庭を横切り玄関に駆け込む最後の二、三歩はあるいた。
 廊下の奥からは足音にがさがさと雑音が混ざる。
「傘は」
「急に降られました」
「天気予報では言っとったろう」
「らしいですね」
 朝から一度もテレビをつけなかったものだから…。そう呟く鼻先にタオルが差し出され顔を拭った。抓んでいた眼鏡を取り上げられる。
「お土産は無事です。親戚から小夏をもらいました」
 そう言葉を継ぐ間にがさがさという音は足下に敷き詰められる。靴を脱いで新聞紙の上に立った。タオルで足下を拭こうと顔を上げて気づいた。山本が自分の眼鏡をかけている。鼻の先にちょんとのせている。
「ほら、雷だ」
 言葉の最後にかかるように雷鳴が聞こえた。俄に蛙の声が活気づいた。
「着替えるだろうな」
「…ご迷惑を」
「風呂に行け。脱いでこい」
 服の裾からは絶えず水滴が落ちる。今年最初の雨の季節の匂いである。
「すみません」
 廊下に敷かれた古新聞の上を踏んだ。
 用意されたのは浴衣で、泊まった時に一度借りたものである。外は暗いがまだ夕にもなっていないのだなと思えば妙な心地だった。照れることはないのだけれどと座敷に顔を出すと、何を照れとる、と山本が言った。珍しくテレビがついていた。梅雨入りのニュースだ。
「これは、まあ」
 降水確率を見た田代は自分に呆れながら座った。
「不覚の士め」
 山本は笑い、半分に割った小夏を差し出す。
「酸いのでどうかと思いましたが」
「酸いのがいいんだろう」
 縁側の向こうは日暮れのような暗さだ。空のパッと閃くのが見えた。わずかな静けさの間。音が轟き腹の底にずんと落ちる。田代は濡れた鞄からノートを取り出した。雨は染みていない。ページを捲ると乾いた匂いがする。過ぎし五月の匂いだ。
「先生」
 山本が振り返る。田代は遠慮がちに手を差し出す。返された眼鏡をかけるとにやにや笑いがよく見えた。