暑気と葦簀


 暑さに身体がついていかない、などと。人がいつか老いることは分かっているものの、覚悟を重ねてきた人生だと自負するものの、いざ座敷の影に横になれば一抹の悔しさがある。重い身体に重い目蓋だ。山本は腕で目蓋の上を覆い、もうわずかに影の奥へ逃げ込む。やれやれ今年の暑さは異常だと毎年のように繰り返すニュースだが、山にあってもこの暑さは、今年は異常だと言わざるを得ない。冷房などいらない生活だったし、実際そうしたものがない古い家だ。扇風機の風が足下を撫でる。人工の風を起こす低い音。扇風機は何年か前、安いのを見つけて買い換えた。羽根は水色の透けていて、それを越してくる風は心持ち涼しく感じたものだが、今は目から涼を得ることもできない。
 ただ、暑く、ねっとりとした空気が身体を覆う。じわじわと喉を圧される息苦しさ。血液も、その流れを止めたかと疑いたくなる。何もかもがのろのろと暑さの底を這っている。眠りさえ、暑さに阻まれて訪れない。
 シャッ、と。
 音が鈍重な空気を切り裂いた。暑さに刃を入れて隙間を風が通ったようだった。
 足の裏が畳表を摺る音、だ。
 お前しかおらんだろうな、と腕をどかした。白い足が見える。
「物置の鍵をお借りします」
「すまんな」
「急に暑くなりました」
 街は釜の底のようですよ、という声の後に踵が返される。
 手を、伸ばしてみた。
 触れはしなかった。だが爪の先が踝を掠ったようだった。背中越しに振り返ったのだろう、田代はかすかに笑っていたのかもしれぬ。
「今しばしご辛抱を」
 声音が妙に優しく、熱気の底に溶けずに残った。
 山本は目を瞑り、耳を澄ませていた。畳の上を足が摺る音、立ち去る足音。蝉の声もまだなのに、このうだる暑さ。声を上げるものはない。遠くで戸の開くのが聞こえたような気もしたが、熱が音を隔ててしまう。山本は待つ。かたり、と音がして影の重なり合い蔭になる涼しさにようやく目蓋が開く。縁側に葦簀が立てかけられている。その向こうの人影がひょいと顔を出す。
「先生」
 逆光に表情は見えなんだ。
 雨音かと思いきや、ホースの水が庭を打つ音だ。打ち水を越した風が吹いた。山本は息を吐く。
「やれやれだ」
 息をし、首を傾ける。葦簀の向こうに田代の後ろ姿が見える。ホースの先から撒かれる水の光るのも、内側からはよく見えた。田代は笑っているのではないか、と山本は思った。