夏・夜風の名残を梳り


 ここだ、ここ、と山本が自分の後頭部を指し示して見せるので、同じように腕の形を真似てみれば確かに跳ねた髪の先が掌に触れた。
「お恥ずかしい…。気づきませんでした」
「来なさい」
 その一言に何故か肝を冷やしながら後についてゆく。縁の向こうには眩しい夏の光が満ちあふれ、庭の緑も空の青も影を失い白一色に溶けるようだった。座敷の端に座らせられ、箪笥を前にごそごそやっている彼を肩越しに振り返る。乾いた紙の箱の蓋が開く、微かな音が妙に涼しいように耳には聞こえる。外はもう蝉の声が聾するばかりだが。
 手の中の櫛を見て、亡くなった奥方のものだろうと思った。田代は前を向いた。他人の手が頭に触れる。床屋でも時々奇妙な心地になる。今自分の髪を梳くのが山本だと思えば尚更だった。
「身嗜みに気を配るということは、何も特別なことではない。さして時間もかからん。日頃から気をつければいいことだ」
「面目ありません」
「どうした」
「昨夜も暑かったので」
 開けたベランダの窓にかかる月を思い出した。
「夜風に吹かれて、そのまま」
「生乾きでか。その油断がよ、夏風邪を拾うぞ」
「気をつけます」
 髪を梳かれる心地良さに思わず表情を和らげ、田代は頷いた。教壇に立っていた頃はな、と山本は言う。
「毎朝行水をしてから出掛けた。爪も鑢をかけ、それは今でもやる。もうやらねば気持ちが悪いわな」
 シャツのアイロンは奥方がかけてくれたそうだが、スーツにブラシをかけるのは自分の仕事と定めていた。
「伊達者を気取る訳じゃあないぞ。今日一日とて何が起きるか分からん。転んで死ぬかもしれん。日頃からその覚悟を持てばよ、どうして卑しい振る舞いなどできる。覚悟のない人間は見苦しい死に方をするに決まっているのだ」
 どれ、マシになったか、と背後の気配が去り田代は後ろ髪を撫でた。いつもの慣れた自分の頭の形をなぞる。
「ありがとうございます、先生」
「道具もたまには使ってやらねば」
 箪笥の前に佇んでいる。紙の蓋が空気を吐き出す微かな音を立てて閉まる。
「埃を被る。錆もする、か」
「櫛が」
「道具としての役割がだ」
 抽斗を閉め、すたすたと座敷を出て行く。その後ろ姿を追って田代も立ち上がった。
「先生は今日も、今日死ぬかもしれぬとお考えですか」
「かもしれん」
 何が起こるかなど、誰に分かろうかよ、と山本は言う。
「人間なぞ人形と同じこと」
 この言葉を聞くのは二度目だった。田代はやけに鼻の奥を騒がせるむず痒さを誤魔化すように、もう一度梳かされた後ろ髪に触れた。




初秋・野分の午後


 ベランダの窓に雨戸はなかったから雨はガラスの上をざあざあと滝のように流れ、畳の上に流れる影を映し出した。雷鳴は遠いが雨は激しい。そして思いの外、明るい。本を読むには暗いが、田代は既にノートを置いている。窓を背に膝を抱え、あの家を思った。昨年雨漏りをした箇所の修繕はしたが、どうだろう。雨戸を立てて真っ暗なあの屋根の下、先生は何を思っているだろうと思うと及ばぬ空想ばかり、空転し、田代はぼんやりしてしまうのだった。以前は台風ともなれば停電することもままあった。そうだ風呂場に水を汲み置いておけばよかったと、後になってばかり思い出す。否、そうではなくて。
 今からでもあの家に行きたいと田代は考えているのだった。退屈など感じる生き方はヤワだ。しかし善悪共に打ち任せ身を擲つ人と言えばもう山本常朝という男を思うよりなく、このように薄暗く仄明るい雨の下ではすみやかに死んで幽霊になってお側へ参ろうかと、決して戯れではなく、真剣に目の前のこととして思えてくるのだった。
 雷光が閃きさっと屋内を照らし出す。無人の台所まで光は射して、そして数秒の後ずどんと腹の底まで響く轟音が響いた。落ちたかもしれないな、と田代は振り向かず思った。近い。壁がざわついた。隣の部屋から声がする。停電だ。田代は台所まで行って蛇口を捻ってみた。水はたらりと流れた後、いつまで待っても出ては来なかった。冷蔵庫の扉を開くと中は暗く、仕方なしにとビールを取り上げたが、いつ何時、何があるか分からぬし…、という思いがして元へ戻す。氷を二かけ三かけコップに放って座敷に戻り、一つ口に入れた。冷たい水が喉を流れ落ちる。
 沈黙を思う。遠く黒土原とこのアパートの間に横たわる沈黙をだ。それに耳を傾け、田代は瞼の裏に幻のように浮かぶあの道を辿った。




道すがらスタバ


「クリーミーバニララテwithレモニースワール、ショート。あ、豆乳でな」
 田代はぽかんとして隣の男を見つめていたが、不意に山本と店員の二つの視線に促され、これ、と隣に書かれたものを指さした。
「クリーミーバニラフラペチーノレモニースワールですね。サイズはいかがなさいますか?」
 店員の笑顔が眩しい。同じで、と遠慮がちに呟く。
「ショートで」
 四人がけの席につき、ようやくホッと息をついた。
「意外だな」
「意外ですよ」
 同じ物と言えばよかった、とぼやくと、向上心のないやつだ、と山本が眉を持ち上げる。
「先生が呪文をすらすらおっしゃるのも向上心の成せる技ですか」
「書かれたのを読むだけだわな」
「僕なんか読むだけで舌を噛みそうだ」
「フラペチーノ」
 腹が冷えんか、と山本はあたたかいのをすする。注文をする間に雨は強くなり、些か寒い。頭上の空調が音を立てる。
「歩いてあたたまりました」
「汗で冷やすなよ」
 視線が、珍しく外れた襟のボタンをちらりと見た。








2014.2月