兄の葬式、心穏やかな追悼


 夢を見た。時々、数年に一度見る夢だ。兄の葬式の風景だった。醒めた時に思い出すことはあっても、夢の中にそれを見ることは稀である。
 雨である。午後であるらしい。風景は全体水色がかって見える。ラムネ壜を越して見る風景のようである。棺に蓋がされ、運び出されていく瞬間の喪失感。それまで右手に自分、左手に千歳の手を握りしめていた藤子の手が急に力をなくす。わなわなと震え出す。千歳が藤子のスカートを掴む。田代は膝から崩れ落ちそうになるのを耐える。
 耐えることができた。
 これは夢だと分かっているから。
 棺を運ぶのは水色の影のような人々である。田代は雨の中運び出されてゆく兄にそっと付き添う。黒い車が待っている。棺は止まる。雨は明るく光ながら降っている。天気雨だ。
「兄さん」
 田代は棺の蓋に手を触れて、思いの丈を静かに口にした。
「寂しいんだ。僕は寂しかった」
 子供の頃はそれが言えなかった。皆、寂しかった。涙を流したいのは自分だけではなかった。妹の千歳、姉の藤子も、気丈な母でさえ。もの言わぬ父もその背中で。
 今も兄のいた記憶、兄の去った記憶は胸の中にひやりと冷たく沈んでいる。
「今も少し寂しさが残っているんだけど、兄さん、時々こうして再会できるのは…」
 嬉しい、でなく。幸福でもなく。
 目が醒める。寒い。静かな雨音が聞こえる。七月の朝なのに鳥肌が立つ。田代は布団を畳み、狭い台所でコーヒーを淹れた。今日は教室の日であった。天気が良ければ、仕事が上がってから山本の所へ行こうと思っていた。テレビをつける。一日、降るそうだが。
 ノートを開いてコーヒー片手に考える。山本の言葉をなぞりながら澄む己の心の奥が見える。
「心安い…」
 田代は振り返り、窓の外を見た。早い朝の、天水降り注ぐ薄暗い景色に声をかけた。
「心安く感じるのです」
 話を聞いて欲しいと思った。夢の話。思い出話。
 行こう、と決めた。