百人一首、七輪の煙、月


 古書の上に白木の箱が載っている。見かけたことのない箱だ。何気なく蓋を開けた。目に飛び込んで来たひらがなと絵札の彩りが懐かしい記憶を蘇らせた。記憶の中の風景は風の吹くように田代を包み、吹きすぎる。
「来たか」
 奥から山本が顔を覗かせた。
「すみません、勝手にお邪魔を」
 田代は縁側から一歩離れる。
「虫干しですか」
「久しぶりにな。懐かしかろう」
 山本が箱の中から一枚を取り上げる。
「わが庵は都の辰巳しかぞすむ」
「世をうぢ山と人はいうなり」
 考えるよりも早く言葉は口をついた。縁側と庭先から互いにきょとんと顔を見合わす。
「…よし」
 山本は腰を下ろし、読み上げた札をぱちりとまずは一枚、置いた。
「いくぞ?」
「さて、覚えていますかどうか」
「だから面白かろう」
 田代は沓脱石に腰掛けた。陽のぬくみがある。寒くはない。
 背後で、ひゅ、と息を吸う音。
「世の中よ道こそなけれ思い入る」
「山の奥にも鹿ぞ鳴くなる」
「誰をかも知る人にせむ高砂の」
「松も昔の友ならなくに」
 札はぱちりぱちりと音を立てて縁に並べられてゆく。田代は自分の中からするすると引き出される言葉に驚きながらも、心地良くそれを口にした。
「瀬をはやみ岩にせかるる滝川の」
「われても末にあわんとぞ思う」
「激しいな」
「勁烈な恋ですね」
「勁烈ときたか」
 それまで上から順に読んでいたものを、山本は札を捲って一枚、探し出した。
「玉の緒よ絶えなば絶えねながらえば」
「忍ぶることの弱りもぞする」
「絶唱という」
「忍んで忍んで恋に死ぬ。つらい道ですね」
「易くては至極にはならん」
「恋の至極、ですか」
「忍ぶ恋だ」
 ぱちり。
「君がため惜しからざりし命さえ」
「長くもがなと思いけるかな。これはいけませんか」
「気持ちは分からんでもない」
「奥様とのことですか」
「さて」
 縁側には札が二十ばかりも並んでいた。正月でもあるまいに、と山本は頭を掻いた。
「ちいと早いかもしれんがな。飯を食おう」
 よいせ、と立ち上がる膝から札が一枚落ちる。田代は振り返ってそれを拾った。
「…かくとだにえやはいぶきのさしも草」
「さしも知らじなもゆる思いを」
「僕の家は妹が好きだったんです。暗記が得意なのは姉でしたが、札を取るのは家では妹が一番強かった」
「俺も娘には稽古をつけた」
 夕を作るなら、と上がろうとしたが、そこにいろと言われた。
「今、持ってくるんでな」
「何ですか」
 七輪に、炭に、秋刀魚に。心が弾んだのを、目から読まれたのだろう。山本がニッと笑う。団扇に、それにマッチだ。マッチの箱は白象の絵である。温和な目だが、昔はこの象の絵が怖ろしかったのを、ふと田代は思い出した。


 七輪の煙はしつこく田代を追う。
「好かれとるな」
 田代は眼鏡を外し、手の下で煙にしみる目をしばたたかせた。山本が手招く。隣にしゃがむ。すると煙もついてくる。二人、真正面から被ることになった。
「本当に好かれとるな」
「すみません…」
 山本は火ではなく煙に向けて団扇をはたいた。頬が涼しくなる。風が秋山の匂いを呼び、鼻から吸い込むと思わず大きな息が吐かれた。
 秋刀魚は美味かった。いつもこんなものを食べられるのですかと尋ねると、お前が来ると聞いたから七輪を出しておいたのだと言われた。
「美味いもんが食いたいだろう」
「食わねば惜しい…ですね」
「存分食えば後が不愉快か。腹八分といこう」
 早々に酒に切り替わる。洗い物は後でいい、まず飲めと縁側に腰掛ける隣を叩かれた。
「一人で見ても月は月。俺一人の秋ではなし、一人住まいも慣れたもんだ。俺はなあ、自分はもう死んだものと決めてここにおった。生きながらに死ぬ。お前が見たとおりだ」
「常住死身ですか」
「ところが肉体が生きている。心も、生きておるわな。月見ればちぢにものこそ悲しけれ…」
「今宵の…」
 月は美しいと思います、田代はそう言いかけて口を噤んだ。今こうして話す人と、酌み交わす酒の味はじんと染みた。頭に浮遊する言葉を口に出した。
「心にもあらでうき世にながらえば…」
「恋しかるべき」
 夜半の月かな、と注ぎ足される酒。田代も山本の杯を満たし、遅い乾杯をした。ぐいと飲み干す。山本は田代の顔を見て笑った。
「酔ったか」
「そうですね」
 田代は濡れた杯の底にかすかに映る月を見た。
「旨い酒です」
「月も綺麗だもの」
 思わず出たしゃっくりに肩が跳ねた。
「酔うわな」
 杯の底の月を飲み干した山本が満足げな息を吐いた。


 朝一番のバスは違う匂いがした。うつらうつらする内に街に入った。目覚めの瞬間は少し慌て、足の浮くような心地でバスを下りた。
 昼前には教室に向かわなければならない。二、三時間眠ろうか。しかし朝陽がもう街に射す。田代は習慣的に鞄から取り出したノートを捲った。墨の香がした。最後のページに、見覚えのない書き付けがあった。
 ながらへばまたこのごろやそのばれむ。
 田代はぱたりと畳の上に倒れた。少し眠ろうと思った。ページの上に掌を載せる。耳の奥には声が聞こえる。それに応える。
「うしとみしよぞいまはこひしき」
 目蓋を伏せ、カーテンの影に少しだけ眠った。