立ち合いを思い出す


 陽炎の気配だ。水を打つ音。
 何故、自分は横になっているのか。
 思い出せない。
 眼鏡を外した茫洋とした視界は、しかし見えないのではない。山のあるのも見えれば空の雲も見え、陽炎立つゆらめきも眸は確かに捉えている。ただ、ほんの少し曖昧な形。溶け合った境界の優しさは覚醒時には気持ちの悪いものでしかないが、今この微睡みの中ではちょうどよく心地良い。山本の姿も、見るのではなく水を打つ音や足音に感じる。
 一歩。
 道場の、磨き抜かれた床板に踏み出されるそれと同じく。曖昧なところがない。その音の確かさは、山本という存在の確かさである。
 どうしてあんなに簡単に負けてしまったのだろうか。
 そうか自分は武道館での立ち合いですっかりへばったのだ。アパートに帰ればいいものをしかし食らいついてこの家まで来た。坂を登る頃はすっかりふらふらしていたが、いやまだ右足も左足も動くぞ、ならば倒れてなるものかとここまで。
 ぱしゃりと水を打つ音。音が風を運ぶ。涼しさが頬を撫でる。頭上では、りん、と音が鳴る。負けて悔しいかと言われれば心はまだ痺れて呆然としたままで、したたかに打たれた身体は逆に心地良い。睫の簾を下ろし、瞼の裏にもう一度描く。膚の下、肉体の記憶を蘇らせる。
 一歩。
 油断したではなかった。様子見というほど曖昧な心持ちでもなかった。打てる、と思ったかもしれぬ。動いた。次の瞬間には打たれていた。離れる。もう一度、剣先のみの交わる距離まで。それから…?
 竹刀を振り、ここまで無我夢中になったことはもう長く、ない。いつも冷めていた。冷めてこそ一撃の道筋が見え、一本で勝つ。それが田代の剣だったが。
 こんなことは久しぶりだ。
 否。
「こんなのは初めてだ」
 呆然とした心の繰り返す言葉を田代はようやく口にした。