初めてお会いする


 坂道を上る。古い轍の跡があるが、今は通う形跡もない。アスファルトはうっすらと苔むし、湿っていた。ざ、ざ、と頭上に風がなる。笹が揺れる。田代は足を止めて後ろを振り返った。昼間とは思えない薄暗さの中、ぽつぽつと木洩れ日が射して、ああまだ昼なのだなと思った。汗に濡れた膚を風が冷たく嬲る。ハンカチを取り出し首元を拭えば、膚の下はかっかと熱いのが分かった。それでも田代は襟のボタンを緩めず、ハンカチをポケットに収めると風呂敷包みを抱えなおして再び坂を上り始めた。
 向かうは目の前に聳える緑濃き山の麓。筆谷は岩がね伝い小笹を分けて通う道ですよ、と言った。常住死身の書の人が、そこに住まうと言う。
 正月、書き初めの会で筆谷が春の展覧会に出さないかと言った。田代は早速四段の試験に落ちたばかりで難色を示した。
「上手く書けと言っているのではないのです」
 と、筆谷は言う。
「見せてみませんか」
「見せる?」
「見せたくないですか」
「自分の書を?」
 まだまだだと思うのは大いに結構、と筆谷は生徒の書き初め作品を床に並べた。子らのいなくなった後は、隅で焚くストーブの熱も心なしか弱く、板間は冷える。
「一心に書いてみてはどうだろう」
「常にそのつもりではいます」
 田代は縁の柱にもたれかかり、ちらと額を見上げた。筆谷はその視線に気づいたか、ふと顔を上げ微笑した。
「先生も出品されますよ」
「……この方ですか」
「そう。その方。山本先生」
 古丸という署名を見つめていた田代の中に山本という名はすとんと落ちてきて、今更のように、ああこの書をしたためた人は生きているのだ、地続きの世界にいるのだと思った。わずかに鳥肌が立った。
 二月も末、まだ誰もいない教室に正座し、筆谷は一枚の色紙と向き合っていた。山本先生、が展覧会に出品する作品を持って来たというのだ。田代も並んで姿勢を正し、それを見た。西行の歌だった。
 何故か、じわりときた。
「読んでごらんなさい」
 唐突に言われて相手を振り向くと、筆谷は色紙を手に取り恭しく差し出した。
「声に出して読んでごらん、田代君」
 色紙を手に取る。文字が目に飛び込む。涙を引っ込め、田代の神経はぴんと張り詰める。
「はかくれに散り止まれる花のみぞ…」
 慌てるな。焦るな。この書に相応しい速度がある。それが呼吸する喉に馴染む。舌に馴染む。声が続ける。
「忍びし人にあう心地する」
 冷たく静謐な空気の中、田代は己の声と言葉の余韻をいつまでも味わった。木霊するのは自分の声ではなく、目の前の文字そのものである気がした。
 表の空気がわっと明るくなる。色紙から顔を上げると視界がぼやけていた。瞬きをすると目尻に浮かんだ涙が散って、眼鏡のレンズを汚した。
「こちらを…」
 田代は色紙を返し、ネクタイの裏で眼鏡を拭いた。
「君は」
 筆谷は色紙を日に翳し、目を細めた。
「山本先生に似ているような気もする」
「そうなのですか」
「分からない」
 割りに適当なことを言う男だから、そろそろ出会って一年経つ田代も慣れてきた。
「きっと似てはいないでしょう」
「何故?」
「何故って…」
 田代の視線はまた常住死身の書に向けられた。
 庭先では時間より早くやってきた子らが騒いでいる。もうすぐ玄関の戸を開けて入ってくるだろう。机を並べようと額から視線を逸らした田代の背中に
「会ってみませんか」
 と、声がかけられた。
 田代は目を丸くして振り返った。
「実際にお会いしてみませんか、山本先生に」
 風呂敷はその時託されたものだった。色紙を包んでいた風呂敷だ。菓子折を包んでみたが、果たしてこれでよいのかと今でも揺れる。突然のおとないである。こちらは常住死身の書を知るのと、後は筆谷からの話を聞くばかり。相手は自分のことなど知りもしないだろう。
「誰だって最初は初対面ですよ」
 筆谷は笑った。住所を教えるだけ教えて、取り次いではくれなかった。一人で行けと言う。
「君が会いたいのだから」
 会いたいと。
 思っていたのだろう。
 役所を追われ、北の叱責を食らい、あの教室であの書に出会ってから一年。教室を訪れるたびに書に向かって頭を下げた。あの言葉が語りかけてくるものの意味を探ろうとした。一年である。あの言葉に心は耕されていたのだ。あとは行くばかりだった。
 坂が終わる。平坦な道の脇の笹は刈られ、眼下に町の景色が見えた。陽は明るく長閑だった。風も優しい。三月の風だ。
 まだ芽の硬い柿の木の横を通り過ぎ、教えられた住所に向かう。とは言え、先ほど上ってきた道の先、家は一軒しか建っていない。
 古い家だった。古色蒼然という言葉が相応しい、緑を背にどっしりと腰を据えたような家だった。先ほど上ってきた坂同様、瓦屋根は一部苔むし、軒の端からはシノブが垂れている。だが庭は手入れが行き届いていて、落ち葉の一枚もなく掃かれていた。田代は木戸に手をかけたまま庭に入るのを躊躇い庭を眺めた。濡れ縁に一人の男が座っていた。白髪を短く刈り、首にかけたタオルで顔を拭っている。傍らにはホウキグサの箒が立てかけられている。今し方、掃き終えたばかりなのか。
 男が顔を上げ、こちらを見た。田代は木戸の手前で頭を下げ、こう尋ねた。
「山本常朝先生のお宅はこちらでしょうか」
 鋭い眼光がこちらを見据え、にやりと笑った。
「あやしい者が来たな」
 それが山本常朝の第一声であった。




白雲や…


 鼻先に触れる冷たさが常に感じるものではなかった。田代は瞼を開き、薄暗い畳の間をじっと見つめた。暗がりにぽつぽつと小さな光点が見える。何かと思う。黒の中に薄明かりと輪郭が浮き上がり、雨戸の節穴だと知った。
 しんと染みた寒さのせいか、布団のぬくもりのせいか身体は動こうとしなかった。億劫なのではなかった。心安い。昨日、初めて訪れたこの家は…。
 思い至ってがばりと身体を起こした。早朝の空気がぬくもりから抜け出た全身を刺す。だが寒ささえいっそ心地良く、心の隅々まで澄み渡るのを田代は感じた。先生、と口の中で呟き襖を見た。開けた向こうには誰もいなかった。
 布団を畳み、さほど広い家ではないのだが緊張しいしい覗いてみる。台所では炊飯器が細く湯気を立ち上らせる。誰もいない。便所の前を通り過ぎ、思い直して一応ノックをした。返事はなかったので用を足した。
 便所の小さな窓の向こうには朝の景色が広がっている。まだ日は昇っていないが、全体明るい。小さな窓から見ているのが惜しくなって、外へ出た。
 庭から見る、空はいよいよ明けの色をしている。山の際は白い。見つめるうち稜線は一瞬にして白熱し、眩しい光が天地を貫いた。日の出をゆっくり見ることなどなかった。田代は恭しい気分の中、瞼を伏せ、息を吸い込んだ。肺の奥まで清められる冷たい空気と緑の匂い。
 田代は背後を振り返った。家屋の背後はそのまま山の景色と一体になっていた。そこを照らす朝日と、木の芽の反射は、街より先にここに春が訪れている証拠だった。田代は木戸を開け、道に出た。細い道が緑の中に続いていた。若い葉を準備しているもの、また幹の薄く輝くようなものは桜の木で、枝の先に早い花を一、二と見つける。これが今年最初の桜である。田代は更に奥へ分け入った。
 昔は集落であったという話。住む人も絶えて久しいから道はここに上るまでの坂道以上に放置されており、頭上のすぐそばまで枝が張りだしている。手で払い、その瞬間不意に目の前の人影に気づいた。
 煙草の香が清涼な空気の中、道しるべのように漂う。細い煙が、昨夜のことを妙に懐かしく思い出させる。常住死身の人が、目の前にいる。
 山本が振り向き、こちらを見た。視線のみであった。物言わぬ唇は煙草を吸いつける。
 言葉には紫煙と言う。
 だが、白い煙の。
「おはようございます」
 田代は頭を下げた。
「おはよう」
 低い声は木陰の風景にしんと染みる。
「お早いですね」
「歳を取るとこうだ」
 とはいえ五十の坂を越えたばかりだ。書と言い、昨夜の語りと言い、口で言われるほど年寄りという印象はない。髪は確かに白いかもしれないが。
 ふっと煙が吐かれ、表情が和らいだ。
「煙草は」
「いいえ」
「酒はどうだ」
「嗜み程度には…」
「なんとも清潔な男だ」
 決して嫌味ではなく聞こえた。かすかな感嘆さえまじっていた。田代が黙っていると、安心しろ朝から飲むものか、と山本は唇の端を少し持ち上げた。
「戻るか。灰皿がなくてな」
 雨戸を開けると、縁側にさっと朝の陽が射す。白い陶磁の灰皿を引き寄せ、山本は短くなった煙草を揉み消した。
「いつも散歩をされるのですか」
「今朝は、考え事もあってな」
 座敷に向かって手を伸ばす。田代は先に縁に上がっていたから、昨日の様々を書き付けたノートを手にして、腰掛ける山本の傍らに控えた。
「一句、な」
「俳句ですか」
「浮世から…」
 その声をそのまま写し取るように、田代はペンを走らせる。
 浮世から何里あろうか山桜。
 ニュースが開花を告げるよりも早い花の影は、今や完全に姿を現した太陽の下で緑の中に輝くようだった。田代は先ほど二人で歩いた緑の方へ目を走らせた。
 山本が朝食を準備する間、田代は縁側で待っていた。耳に残る言葉を繰り返し、ノートの句を繰り返し、縁側からの景色を眺めて溜息をついた。朝食は白い飯に味噌汁に、と。漬物の大根は自分で漬けたものだという。ぱりぱりと音を立てて食べる。片付けは買って出た。では頼もう、と答える山本の目に満足そうなものを見た。
 濡れた手を拭いて戻ると、山本が短冊に筆を落とすところだった。少し離れた場所に控えてそれを見た。
「そうかしこまるな」
 書き終えた山本が言った。
「頼まれてくれるか。もう一作出品すると」
 手渡される。黒々とした墨の軌跡がそれまで考え悩んでいた田代の心に一本の道を示した。
 去り際は肝心である。ちょうどいいきりだったが、田代はもう一つだけ、と相手の目を見つめた。
「墨と筆を貸していただけませんか」
 ノートに書き付けようとすると、待ちなさい、と同じ短冊を渡された。
「一度きりだ」
 常住死身。
 なればこそ。
 一心に書いた。不乱であった。筆を離して黒々とした墨の軌跡を見た時も心が残っていた。田代は静かに静かに息を吐いた。
「白雲や只今花に尋ね合い」
 山本が詠じた。
「よい」
 ただ一言述べた。
 昨日菓子を包んで持参した風呂敷に短冊を二枚包む。
「お返しせねばなりません」
「おう。また来い」
 山道を下る。緑が屋根のように頭上を多う。顔を上げれば木洩れ日かと思われた、それは葉陰の桜である。古木の先に二つ、三つと蕾を開いている。田代は深呼吸して山の空気を胸に留め、昨日来た道を辿った。








2014.3〜4月