落ち込んでいる弟子とカレー
ぜんたい曇っていたが、西の果てまで覆い尽くすことはできなかったようである。地平の先は赤く燃えていた。世を喰い尽くすような夕景である。それそのものが美味そうにも見える。あんず飴の色だと思った。 ねっとりと赤い陽は遠く、隣の青年の顔を朱に染めるものではない。今日はいちだんと無口で書写に没頭することに没頭しているようであった。そも、忘れようとして忘れられることならば苦労はない。如何なることありしや、忖度するにもまだこの青年のことを多くは知らない。問い質すのもお節介であるから、夕飯を食べていきなさいとだけ言って縁側に追いやった。ちょうど西の果てが燃えていたのであった。 あんず飴を思い出したせいか、何か甘いものでもと探す。せいぜい見つかったのがニッケ玉で、しょうがなくそれを口に含んだ。 「陣基」 不明瞭な発音で呼べば、届かなかったか、縁側の背中は細い影のよう。動かない。 聞こえているのかもしれない、と山本は思う。それで振り向かなければ、それがそれなりあの清潔な若者の我が儘のありようなのだろう。野菜を切りながら考えた。大きめに切った。 一見雑なような、野菜のごろごろとしたカレーをどんと目の前に出されても田代はいつもどおりの慎ましさで手を合わせ、いただきます、と言う。一口食べて何と言うかが見物であった。じっと見ていた。ぱっと見開かれた目で、なるほどがさついた心と一緒に味覚まで麻痺させたのではないようだと分かり、自分もようやくスプーンを手に取った。 味見はしていたが、しかし辛かった。互いにふうふういいながら完食し、ようやく水が出されると田代が腹からの息を吐いた。 「ごちそうさまでした」 コップ一杯をぐいと一気に飲み干し、田代は言った。眼鏡を外し、袖で拭く。 「泣いたか」 「いいえ、汗が」 素直に泣いてはこなかったのだろう。まあ、いい。この程度で泣かそうとは思っていない。 田代を泣かせようという話だったかな、と山本は首を捻った。 洗い物に立つ田代の背から陰の気配は薄れ、水音も軽い。 「お茶を、先生」 「ぬるいのを頼む」 ぬるい茶を飲みながら顔を見合わせて笑った。何、と言葉に出すことはしなかったが田代が妙に照れていて、その照れを隠そうとするも山本が笑うのにつられてしまうから御せぬ己が悔しいようだった。 遅くなったが、帰ると言う。 「また明日来ます」 「明日は教室だろう」 「終わってから来ます」 勿論遅くなる。 「気をつけて来い」 「お土産を持って参りますので」 陰の気を払うにはまず酒精だろうが、せっかく二人で呑むのなら陰も払って気持ち良く酌み交わしたいものだ。 「楽しみだ」 翌、朝から曇りがちであり小雨は一日中降り続いた。傘を片手に、風呂敷に包んだ焼酎をもう片手に田代は坂を登ってきた。玄関口で出迎えると、屋の内も外もすっかり夕闇に呑まれていた。墨の匂いがする。 思い出したように明かりを点けた。電灯のわずかな瞬きの間、田代は雨か汗かで短い前髪を額にはりつかせ、ほっと息をついていた。
2014.3〜4月
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