一人遊びの夕景
掌の中に夕景がある。包み込んでしまえるほどの落陽は百円ぽっちで買った安いライターであり、煙草はそれしか匂いを覚えない銘柄の。 煙草を吸う男たちはこれまで周囲に何人もいたけれど、田代は自分も吸ってみようと思わなかったし、煙に感情など抱かなかった。煙は呑むもの。 夕陽と同じ色の炎は掌の中でゆらゆらと細かく震えながらある。田代はくわえた煙草の先をそれに近づけることもできないまま、じっと手の中のものを見つめた。かぎろいだ…、と胸の中にぽっと浮かんだ言葉を追う。東の野にかぎろいの立つ見えて、だ。万葉集だったか。部屋に帰ればあったろうか。最後に開いたのは学生の頃だ。あれから一度越しているからもうなくしたかもしれない。先生の家にはあるかもしれない、と思う。また考えが山本という男に戻った。 押し続けていた小さな黒いボタンから手を離すと炎はすっと消え、不意に手の甲が冷たくなる。掌にはまだ熱が残っている。唇にくわえたままの煙草は、田代も傍らで慣れた匂いを微かに発している。 休みのたびに通っている、が、明日もまた行こうと思う。バスに乗り郊外まで、そしてひたすらに坂道を上って、苔むした道の先のあの家まで。最近はすっかり温かくなってしまった。もう上着はいらない。 「田代君」 呼ばれて顔を上げ、ここがお堀の内であるとか、美術館の脇であるとか、喫煙所には些か遠いことに気づいた。バンの運転席から下り筆谷は、行き場をなくした田代の煙草に微笑して、心境の変化ですか、と尋ねた。 「まあ…、はい」 筆谷は自然な仕草で田代の手から煙草を取り上げ、手を差し出した。 「火を貸してください」 田代がつけようとすると、筆谷はいよいよにこにこして火を吸いつけた。 「初々しいですねえ」 「僕には、合わないようです」 「健康によくないのは事実だから」 筆谷はくわえ煙草のまま、撤収した書を詰めたダンボールをバンに積み込む。軸物に仕立てた子供たちの作品は今度の教室で返す。皆、それを楽しみにしている。展示の間中、子供たちは田代や筆谷の手を引き、自分の作品は見てくれたかと尋ね五月蠅いほどだった。 「そうそう、田代君。ノートは見ましたか」 「いいえ、まだ」 展示場に設置していた芳名帳とノートだ。 「山本先生、いらっしゃったようですよ」 「本当ですか」 思わず大きな声が出て、田代はばつが悪くなる。 「ねえ、教えてくださればよかったのだけど、一人でゆっくりご覧になられたらしい」 ダンボールを積み終えると、ドアを閉める仕草さえ丁寧に筆谷はあまり音を立てないでドアを閉め、運転席に回った。田代は反対側から助手席に乗り込み、ふと強く香った煙草の匂いに目を伏せた。 「明日、君は」 車が動き出す。三分の一ほど開いた窓から吹き込む風がすっかり熱せられた車内の空気を掻き回す。筆谷は左手で抓んだ煙草を、そちらには目を遣りもせずアッシュトレイに押しつけた。 「時間があればお使いを頼まれてほしいんだけど」 「構いませんが」 「山本先生に作品をお返ししなければ。先生はなかなか下りて来られませんから、君が山登りを苦でないと言ってくれると非常に助かる」 「苦ではありません」 筆谷の望むように返事をしながら田代は、ふと煙草の吸い殻に目を落とす。しばらくは煙を呑む試しもしないだろうと思った。自分で吸わずとも、坂を上ればそこに白くたなびく煙はある訳で。 教室についてまたバンの荷物を丁寧に下ろし、お疲れ様と夕食に呼ばれた。 「この蕗の煮物は北からもらったもの」 「彼が」 「やつはやらない。細君ですよ。北の禿髪の細君」 筆谷はぱくりと頬張り、一汁三菜って言うけどねえ、ご飯とこれさえあれば充分だね、と頬を緩めた。 「おかわりは、田代君」 「いえ…」 「遠慮しないで。私は食べるから」 実際、白飯を新たによそって幸せそうに食べる。じゃあ、と茶碗に半分だけもらった。
2014.3〜4月
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