春・弟子に入る
食っていくか、と山本は立ち上がり、腰を上げようとした田代を手で制した。 「まあ、たまにはもてなされて行け」 男子厨房に入るべからずと言うが、彼はもうこの片田舎に一人十年である。妻に死に別れられてからの時間を数えればそれより長い。 「なに、大したものは出ん。出せん」 座って見上げると体躯の良さが分かった。齢なりに痩せておられるが、と台所からちらちら覗く背を眺める。髪はほぼ白い。刈り上げているし、これに作務衣など羽織られたら坊さんにも見えるだろう、と思った。だが迫力が違う。今はこうしてもやしをたっぷりのせたラーメンを作ってくれているが、ひとたび話し始めれば、一言一句、そのどこを切っても血のほとばしるような、そのような物言いをする人だ。 「先生」 自然と舌に上った呼び名であった。 「そう呼ばれるのは久しぶりだ」 弟子入りするか、と背で尋ねられる。 「初めてここに来た日からそのつもりです」 田代は答え今一度正座をした。 「先生」 「できた」 山盛りのもやしで麺が見えないほどのラーメンだった。
梅雨・男たちの話
「おれは両親が年をとってからの子だったから」 そう口調を和らげると男は片膝を立て、頬杖をついた。 「水分が少ないと思われていた。医者なんぞ二十歳までの命でしょうなんぞ言うもんだから、ならば生きてみせようと七年の間禁欲してみた」 「…それは」 おいくつの時のご決心で、と田代が軽く俯きながら尋ねると、十二か、否十三かな、と山本は指を折った。 「お陰で病にも罹らず薬も飲んだことがない」 田代が神妙な顔と困り顔の間で見つめる。かかっ、と山本は笑った。 「今でもそれが一番だと思うておるな。食欲、性欲を断ち、暇さえあれば灸をすえる。そも病に罹ってから治そうというのが間違いだ。まず病以前に病を断たねば、それ因果応報と同じことだ。医者もそのあたりを分かっとらん」 「はあ…」 「得心いかぬという顔だな」 「いえ、子供が、ですね。我慢できるものかなと。先生は意志のお強い方だから、それは。ええ…」 「まあ、童貞ではあったからな。アレをなあ」 「我慢なさったと」 「したな」 はあ、と田代は感嘆の息を吐いた。 「アレの俗称を知っとるかね」 「マスをかくとか、そういう…」 「海外の俗称も多々ある。若者の罪とも言うらしい。もっともだ。ぜんたい今時の若いもんは虚弱な上に過淫だから若死にする」 「世に快楽は溢れている」 「受動的快楽の多いこと。自分で生み出すということをせんから感性も貧困だ」 この家にもテレビはあるが、山本がそれをつけることはほとんどない。田代の訪れている間はつけたことがない。いかにも受動的であり、目に飛び込んでくるのは浅く浮薄な笑いばかりだ。田代もアパートで合わせるチャンネルはNHKがほとんどだ。受信料は真面目に払っている。 ふと山本がこちらを見た。 「掌情、という言葉を知っているか」 「それは…」 田代は相手の目を見つめ返し、不意に赤くなって目を逸らした。山本は笑う。 「うぶなねんねではあるまいし、陣基」 「いいえ、自分でも照れるとは。意外だな…」 耳まで熱を持っているのが分かる。田代は顔を拭い、参りました、と呟く。 「言い訳をさせてください」 「言ってみろ」 「あまりに情緒的な名前だったから…」 たなごころの情とは若さ故の罪であるという。この照れ恥ずかしさにも罪が宿りしやと田代は首を振る。雨上がりの庭に陽が射した。もうすぐ夏だ。
夏・立ち合い
青眼の構え。ずんと冷たい岩壁と対峙したかのようだった。殺気は感じられぬ。だが攻めようがない。どう攻めても、こちらが切っ先をぴくりとでも動かしただけで命取りになるような緊張感がある。退いてはならぬが、無闇に足を動かすのも、それが心の弱さで隙だ。次の瞬間には斬られる。だが恐れたところで。 田代は静かに息を吐いた。肩から力を抜き、いつもするように目の前の男を見る。見える。凛々しいな、と思った。山本と自分の間に横たわる空気、りんと冷たく静かだ。春の、あの櫻の頃、まだ肌寒い夜陰が田代の目の前に広がった。恐れは恭しさに変わった。ゆこう、と思った時には剣先が動き足が踏み込んでいた。 勝つ、ではない。届けよと剣先は伸びる。流され、躱され、踏み込んでは弾かれる。だが、まだだ。考える己が消え、肉体は即ち心であり、心はまさしく動くこの肉体そのものである。まだ届かぬか。身体が燃える。視界が白熱に塗りつぶされる。その中に、すっくと佇む影、一つ。 今、と振り下ろす。 斬ったと思った。 刹那、竹刀が下りて無防備になった田代の喉元を山本の剣先が激しく突く。息どころか心臓さえ止まったような衝撃に足が浮く。次の瞬間には背中から倒れた。壁も天井も震わす音が響く。手からこぼれた竹刀がやかましく床に打ちつけた。田代はその忘我にも近い空白のその一瞬を抜けだし肘をついて身体を起こした。目の前に、す、と竹刀の先が突きつけられようやく我を取り戻した。痛みと息苦しさが蘇った。田代は喘ぎ、咳き込んだ。 「なかなかによかった。が」 面の向こうで険しい表情の山本が、口元だけ笑って見せた。 「最後に油断したな」 田代は息を整えるとようやく竹刀を拾い上げ、山本の前に立った。二歩。三歩。互いに距離をおく。礼をし、ありがとうございました、と掠れる声を張り上げた。 防具を脱ぐと自分の肉体の重みが逆にずっしりと感じられ、田代は大きく息を吐いた。ともあれ、この瞬間の涼しさ、爽やかさにかなうものはない。山本がちらりと見るので喉元に触れた。突き垂に守られてはいるが、今も鈍く痛い。赤くなっているのには小笹に囲まれた一軒家の、古い浴室で湯を使わせてもらった時だ。 金物屋の名前の入った、半分ほど曇ってしまった鏡を覗き込むと、そこに懐かしい痣を認めた。 「すみません、先生。先に…」 「おお」 声は縁の外から聞こえた。山本は大きな金盥を出して道着を洗っている。 「先生、ぼくがやります」 「行水のついでだ」 見れば山本は上を脱ぎ、頭から濡れていた。ホースは勢いよく水を流す。金盥の中で紺と白がゆらゆらと揺れる。 「申し訳ないです」 田代は沓脱石の上に揃えられた草履を突っかけて庭に下りる。 「田代」 「はい」 顔に冷たい水がかかった。山本が手に握ったホースの先を潰して笑う。 「また油断したな」 「先生…」 「これでも申し訳ないか」 田代は濡れた眼鏡を外しシャツの裾で拭う。出たのは溜息ではなくて笑いだった。 「ではお手伝いさせていただきます」
2014.2月
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