まだ見ぬ憧れ


 子供は苦手で。
 ぽつりと呟くと、まあそんな風に見えます、と筆谷もあっさり頷いた。
「どうしたら言うことを聞いてくれるのか分からない」
「どうして君が先生の時の方が子供達は静かじゃないですか」
「でも言うことは聞いてくれません」
「大人の言うことを聞くのは当たり前」
 大人の理論、と筆谷は指を一本立てる。こちらは床に正座して筆谷は先生の席についているから余計に授業のような。あるいは優しい先生に叱られている最中のような。
「また、子供であることを諦めた子供の理論。君はそういう子供だったんじゃないですか?」
「さあ」
「いかにも優等生タイプでしたとその顔に書いてある」
「出来損ないです」
「君は己のこととなると評価を誤るねえ」
 平易な言葉で分かりやすく。子供が分からないと言っても辛抱強く。少しでも先生らしくあろうと努めてはいるが、上手くいかない。やはり自分では駄目なのか。
「ぼくの生まれた町はね」
 筆谷は煙草に火を点けた。
「古くて、狭くて、旧態然とした田舎の町だった。小学校に上がってから中学校を卒業するまで顔を合わせるのはいつも同じ面子。その中でも馴染めない子供はいたよ。学級委員長だった。大人がよく言う、イイ子。その子供は町で唯一ピアノを習っていたんだよ」
 溜息と一緒に筆谷は煙を吐き出した。
「ぼくらと共有するものがなかったんだ。同じ町に住んでいるのにお客さんみたいだった」
「僕もお客さん、ですか」
「初日からあんなに子供達がなついたのに?」
 筆谷は笑い、手をはたいて煙を外へ流す。
「今のはたとえ話じゃなくてぼくの思い出話。君の孤独、案外子供達はかぎとっているんだと思いますよ。君が弱っていると子供達も元気がない。君が元気だからこそ、子供達も手加減せず君を困らせる訳です」
「…………」
「仲間に入りたそうに寂しそうにしている子を放っておけないんです、この教室の子達は。あ、ぼくもね」
 夕飯の支度をすると筆谷は言ったが、田代は辞した。去り際、もう一度常住死身の書を見上げた。
「このように生きられたら」
「険しい道ですよ」
 不意に筆谷の声が低くなった。
「恐ろしい程の自己研鑽の道です」
「そうありたい。生きているのだから」
 頭を下げて教室を出ると、表まで出てきた筆谷が戸口にもたれかかり腕を組んだ。
「ぼく、君のそういうところ気に入ってます」