前年・いまだ春は来ず


 鉄製の扉に両掌をつけると、冷たさがひやりと身体の中に流れ込む。冬の冷たさだ。或いは夜の冷たさだ。極夜。永遠の夜の中にそれは眠っている。そっと身体を倒し耳を押しつける。静けさの中にそれの呼吸を聞く。静かな静かな寝息だ。
 舞台袖のピアノ庫で何度そうしてきただろう。田代はここに来てからの四年間を思った。望む以上に長い時間だった。だがこれが最後だ。
 扉の向こうで眠り続けるスタインウェイの音色を聞くことはもうない。田代はここに戻れるとは思っていない。戻ろうという望みも、恐らく捨てている。サインをしたのは己である。瞼を開けても暗い。舞台裏は永遠の夜だ。扉から離れ、館を出たのは定時だった。花束はなかった。欲しかった訳ではない。遅番勤務の職員が頭を下げ、黙って会釈を返す。顔を上げると外はまだ少し明るい。
 田代は自分が文化課に配属された時、二年ほどいてまた別の課に飛ばされるのだろうと思っていた。市民ホール勤務の時点で本庁を離れていたから次は郡部かも、とも。実際には想像した倍の時間をこの音楽ホールで過ごし、まさかと思うほど仕事にのめりこみ、新天地に移るではなく退職という形で職場を去ろうとは。予想があまりにことごとく外れるので、自分の予想するのと逆の馬券を買えば当たるのじゃないかしらんと戯れに考えたが、実行したところでそれも外れていたに違いない。
 アパートに戻ると早速浴槽に湯を張り、その間にベランダに出していた洗濯物を取り入れた。畳の上に放り出したそれを眺めている内に湯がタイルに流れ落ちる音がざあざあと聞こえてきた。小さく息をついて湯を止めに行った。湯気が眼鏡を曇らす。靴下を履いたままの足が濡れた。じんわりと熱い。蛇口を捻り急に静かになった狭い浴室に佇んで、しばらく呼吸をした。眼鏡を外してネクタイで拭う。それでも視界がぼやけているからもしかして自分は泣いているのかと思った。目元に触れようとした、ふ、という一息の間に眼鏡は手を滑り落ち湯の中に沈んでいた。急激に湧き上がったものが腕を振り上げさせたが、結局それをゆるゆると下ろした。靴下を脱いで浴室を出、いつものように服を脱いで湯に入った。濡れた眼鏡をかけると視界に雫が浮いたが、最早泣いているようではなかった。田代は眼鏡をかけたままぶくぶくと浴槽に沈んだ。
 ベランダのガラス戸を開け放したままだったので、涼しいというより寒いほど。空はもうだいぶ暮れがかっており、残照の下、畳に放られたままのシャツがやけに白い。明日からは何を着ようと構わない。ネクタイもつけなくて構わない。思う存分寝坊してよい。贅沢である、無職というものは。
 正しくは有給消化中だが、と田代は畳の上に胡座をかき、ベランダから吹いてくる三月の涼しい風に吹かれた。




前年・春


「田代」
 北は厳しい視線を投げつけた。恐い目だ。昔からそういう男だ。誰に対しても容赦をしない。
「生きるに不足はないようだが、死ぬには不足だな。飯を食らって糞を垂れてが人生か」
「飯を食らって糞を垂れてが人生だろう」
「自分の面を鏡に映してみろ。死人めが」
 確かに食は細くなった。と言うか食らうだけの執着がない。だが便所には行っている。そんなことを言い返すと、お前、と北は懐に手を突っ込み、適当なものがないと分かると今度は田代のポケットから手帳を引っこ抜いて、そこに六桁の数字を書き付けた。
「書道の参段は取っていたな」
「どうだったかな」
 田代は本当に思い出せなかったので、軽く目を瞑って首を傾げた。
「履歴書を書いたのももう十年も昔だし」
「免状は持っていたか」
「さあ」
「取っていなければ取れ。免状を申請しろ。番号を書いた。俺の知人が教室をやっている。一人で難儀しているからそこに行け」
 人に構う男ではなかったから、田代は驚いてまじまじと北の顔を見た。
「いいか、俺とて知人が野垂れ死ねば憤る。俺を怒らせるな」
 生きてみろ、と叩きつけるように手帳を返された。
 紹介された筆谷という男の開く書道教室は街から少し外れた堤防沿いの家で、主は小学校の教師のような雰囲気の穏やかな男だった。
「ああ、当たりです。何年か前まで学校の先生をしていたんですがね。妻が死んで、この教室一本に」
 以前は二人で教えていたそうだ。
「なかなか子供の世話は大変だけれども。どうですか、田代さん。見ていきますか」
 土曜の午後だった。子供達がわらわらと集まり、賑やかだ。見学と座っているのも居心地が悪く、結局片隅に座って書くことになった。
 大人が習いに来るのは夜だということで、昼に紛れ込んだ大人の姿に子供達は興味津々である。ずっと手元を覗き込まれた。
 教室には額に飾られた作品が幾つかあった。内、目に留まったものを一つ、田代はじっと見上げた。
 美しい、か。整った字ではある。だがその文字が目から飛び込んできた時田代は自分の指先を切ったかのような痛みを覚えた。
「ひたむきな、と言うか」
 子供たちが手を洗いに外へ出ていくのに逆らって筆谷が近づき、隣に立った。
「一本気な書です」
 田代はもうしばらくこの文字を一人で見ていたかった気がして、はあ、と小さく相槌を打った。
「何と読まれますか」
「じょうじゅうししん、ですか」
「常住死身」
 田代はもう一度一字一字を読み、言葉になおした。
「いついかなる時にも死に身であると」
「北はこの書と正反対の男が来ると言っていました」
 迎えが来たり群れて帰ったりと三々五々に子供らの姿は消え、筆谷は机を隅に片付け床拭きを始めた。田代も雑巾を手にそれを手伝う。縁からはすっかり夕の陽が射した。田代は裸足に、拭き上げたばかりの床の心地良さを感じながら佇み、また常住死身の書を見上げた。
「痛いですか」
 バケツの水を庭に向かって捨てた筆谷が振り返り、伸ばした腰をとんとんと拳で叩く。田代はその横顔に笑い皺をみとめる。問いには答えない。掌で、もう片方の手の指先を握りしめる。血が噴き出した幻覚が消えなかった。本当に血の流れていないのが不思議なほどだ。
「生徒さんの作品ですか」
「いいえ。恩師が書いたものを頼んで、いただきました」
「書道の」
「いえ、学校のです」
 遅くなりましたが、お茶でも、と筆谷が母屋に向かい田代は教室に一人残された。
 常住死身。死身とは死に物狂いとか決死の覚悟とかそういう意味合いだろうから、北が自分に向けて発した死人という言葉とは確かに真逆だろう。しかし、常住死身のこの言葉にはひたと静かな底流も感じられた。そうだ、静けさが聞こえてくる。皮膚一枚を隔てて死を目の前に置いた静寂が満たし、皮膚一枚を隔てて滾った血潮が駆け巡る。
「田代さん」
 呼ばれるまで背後にいることに気づかなかった。筆谷が気配を隠していたのではない。田代が没入していたのだ。茶菓子を出された。縁に座ってそれを食べた。
「私は高校で教師をやっていました。最後に赴任したが黄城」
「小城の」
「そうです。あっという間に妻の容態が悪くなって一年しかいませんでしたが、そこで恩師とも呼べる人に会いました。その人が書いてくれたのがあの書です」
「書道の先生ではない、と」
「現代社会を教えている人でした。ご専門は倫理や哲学だったということだけど」
 私は国語教師で、と筆谷はぱくりと菓子を口に入れ咀嚼する。急ぐことなく、ゆっくり話す男だった。
「古文が専門だったので、図書館で資料を探すうちに、重なりましてね。親しくなって。厳しい方なんだけど、こちらの話もきちんと聞いて相談にのってくださる。あの頃私は私生活と仕事のバランスが上手くとれなくて生徒の指導方法なんか随分叱られましたが、妻のことで弱っているのを助けてくれたのもこの方だから。昔気質の先生というか」
 人というか、と筆谷は書を振り返った。
「男、でしたねえ」
 田代も振り返り、陽の弱まり始めた教室の物寂しさの向こうから射るような言葉を見つめた。
「昔からただならぬ人だとは思っていたけれども、田代さん、いかがです」
「何がですか」
「私はこの教室を悪くないと思っていますが」
 田代は少し考えたが、既に胸の裡は決まっていたからあとはどう返事をするか、その文言だけだった。
「来週、またお邪魔させていただきたい」
「どうぞ」
 筆谷は笑い、茶のおかわりを注いだ。
「ああ、履歴書をお忘れなく」
 更に二週ほど通い、夜間の教室にも顔を出した。参段が教えられるのは子供までだから、月、木、土の昼を手伝うことになった。土曜はそのまま夜間の教室で筆谷に習い、一般部師範の免状取得を目指す。
 教室に入る前、田代は入口で一礼する。顔を上げると常住死身の書がある。子供が真似るようになった。
「いいですよ。田代さん」
 筆谷は莞爾として笑う。




2014.2.12, 2.26