大学2年の時のレポートなので色々容赦していただきたい。
恥ずかしいのは私です。









近世文学に描かれた人々

――武士考 『葉隠』――


序にかえて、暮時の騒話

 さて、『葉隠』である。『葉隠』とは、江戸中期佐賀藩第二代目藩主鍋島光茂に仕えた侍、山本神右衛門常朝が語る所を、彼より二十年若の佐賀藩士、田代陣基が筆記し十一巻に編纂したものである。巻の構成は、一、二巻が常朝の説く教訓、三から五巻までが佐賀藩歴代藩主の言行録、六から九巻までが佐賀藩と佐賀藩士との言行について、さらに十巻が他国の武士の言行について、そして最終巻である十一巻は前十巻の補遺に当てている。
 語るは武士、語られるも武士。読みながら背中をつめたい汗が伝うた。
 また『葉隠』は、正式に『葉隠聞書』といい、また別に『鍋島論語』という名も冠されている。
 論語である。かの孔子の言行を弟子の記した、あの『論語』である。いやもうクドクド言うまい。即ちこれは、思想書なのだ。
 その瞬間、雨が降ってきたかと思った。冷や汗がどっとふき出したのである。
 否、気付いてはいたのだ。この『鍋島論語』という呼称も、語られる内容も知ってはいたのだ。但、愚かなり。私は、これを文学だと、何故か心の底から信じ込んでいたのである。
 初めて『葉隠』を手にしたのは、図書館の古典のコーナーであった。題名に惹かれ、文中に「武士道といふは、死ぬ事と見つけたり。」の文字を見つけ、ああこれが彼の有名な一文の原典であったかと読み始め。今となっては、早く気付かぬオノレが悪い、と肩を落とすばかりだ。
 『葉隠』は文学や否や。師に請おうとも、今更恥ずかしくて聞き出せぬ。初めは、そこに書かれた武士の有るべき有り様をとおして描かれる理想像を、レポートのテーマに当てはめて書こうと思っていた。こんな事は誰も考えつくまい、と奥底でほくそえんだのも事実である。しかし、それが今や対象変更の危機までもがせまりきているのだ。
 だがしかし。私は食い下がる。ならば誰が『葉隠』でレポートを書くというのだ。法学部で未来の検事を目指す学生だろうか。否。総合管理学部で情報システム学概論を学ぶ学生だろうか。否。やはり、文学部の学生ではなかろうか。
 いや、本当はそうでもないことくらい私も解っている。事実去年の冬、私は総合管理学部の学生と頭寄せ合ってデカルトの『方法序説』を学び、レポートを書いたのだから。
 しかし、しかしどうか大義名分を与えてやっていただきたい。この異端の存在を認めていただきたい。一週間後に〆切りを控え、新たに『女殺し油地獄』を読む気力が、もし、あるとお考えか。


一、武士と死と私と

 武士道とは非人間的なものである。例えば人に、生きたいか死にたいか、と問うたとしよう。すると大半の者が、生きたいと願うのではなかろうか。勿論、全ての場合においてそうとは言い難い。時と場合によっては反対の結論が出ることも有り得る。しかし、頭上から物が落ちてきたとき、咄嗟に手で頭を庇うように、生命の保持は本能としてあるものと考えられる。そこへ、死ぬ人間があるのだ。それこそが武士である。
 死ぬ武士が、ここにはいる。己が道を死ぬことと定め、日頃より死に、毎朝死に、死に死に死に、死狂い。喧嘩の仕返しに踏み込んで行っては切り殺され、敵を討ち取るよりも討死にする。犬死にでも構わぬ。
 「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり。」の言葉はあまりにも有名であるが、もうひとつ、「武士道は死狂ひなり。」(聞書一、二四、鍋島直茂の言葉)という印象的な一文がある。そこに描かれた武士は気を違えた死狂いだ。正気ではない、分別もない、忠孝も全く頭には入っていない。そのような男は、数十人かかっても殺し難いと。
 初め、この「死狂い」の意味がよく分からなかった。文中のニュアンスから察するに、今は差別語の扱いを受けているようだが、気違いと同じようなものかと考えていた。そこで、現代語訳されている、中央公論社刊、日本の名著シリーズの『葉隠』をひもといてみると「死に物狂い」と記されている。
 成程、死に物狂いだからこそ正気でいては足の竦む大仕事もできる、人に遅れもとらない。
 確かに納得するものがあったが、「死に物狂い」という言葉と対比することで、更に得るものがあった。それは、「死狂い」という言葉の美しさだ。「死に物狂い」よりも一途で純粋で、武士の血の色に彩られた艶やかさが、「死狂い」からは匂い立ってくる。あまりにも血腥くあるが、それでもどこか爽やかでさえあるのは、それが私を捨て、主君のため、ひた走った末に流された奉公人の血だからであろう。
 「死狂い」について述べた段では、武士道には忠も孝も論外のことであって、ただ死に狂う中に忠孝は自然に備わると書かれている。これは、我が身を主君に差し出し、ただお役に立つことだけを考え奉公せよ、と『葉隠』において繰り返し何度も説かれる主題の一つと等号で結ばれはしないだろうか。
 武士とは独立した個人ではない。武士とは武士という名の大きな生物の細胞の一つにすぎず、そしてその武士とは主君と藩のための歯車にすぎない。
 生物の体の中では、アポトーシスという細胞の自殺が行われる。胎内で胎児の手が平たいへらのような形から指を持った形になるまで、その指と指の間にあたる細胞は自ずから死んでゆく。これがアポトーシスである。また、体内に有害な細胞があった場合、周囲の細胞がその細胞を取り囲んだまま死に、その有害な細胞を死滅させるということがあり、これもアポトーシスに当てはまる。
 これらはどこか、『葉隠』に描かれた武士の姿と似ている。常朝は、武士の行く先は、奉公の後、浪人切腹と決まっている、と説く。それはあたかも、あらかじめ死をプログラムされた細胞のようではないか。
 武士道とは非人間的なものであるが、武士の、己を捨て、主君につくし、死んでゆく姿は、どこか生き物の根源的な営みと美しさを感じさせる。


二、恋しつかまつり候

 『葉隠』とは情熱あふるる文学である。岩波文庫版『葉隠』の校訂をされた古川哲史氏は、そのはしがきに「どこを切つても鮮色のほとばしるやうな本」と書いている。私自身も熱い血潮のその流れを薄皮の上からなぞるような思いで、これを読んだ。そして、その流れの一段と激しさを増したような、しかしひどく抑えつけられたような一文がある。「恋の至極は忍恋と見立て候」(聞書二、二)。「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり。」(聞書一、二)に次いで有名な言葉であろうこれは、その情熱を内に内にと秘め、思い死にすることこそ最上の恋である、と説く。
 前段において、武士道とは非人間的なものである、と書いたが、これもまた、それに当てはまると言えば当てはまろう。現代の、恋人同士手をつないで街を闊歩する若者にこれを言ったらば、時代錯誤という言葉よりも、馬鹿らしいと笑われるかもしれない。
 しかし、ここに描かれた忍恋は確かに美しい。ここにおいて、恋と結婚は全く別のものとして書かれているようだ。
 聞書一の三一に、武士は主君を思う他は何も考えずともよい、とあるが、その後ろに、女は第一に夫を主君のように思って仕えるがよい、ともある。つまり、夫と妻との関係は、端的に言ってしまうと主従関係なのだ。
 「お仕えする」という行為の中に私はない。私を捨てて主のお役に立つのが従である。そして、その働きを受けて、何にも煩わされぬよう大いに働くのが主だ。その間にある思いは禁欲的と言うよりも無欲である。主と従とは一つであり、思う者にとっての喜びとは、思い人の喜びに他ならない。これらは同一の中に存在するものとして、その思いを分かち合うことができる。
 対して忍恋をするものは、その思い人と完璧に切り離されている。思いは内に秘められ、決して表に現れることはない。常朝は、こう述べる。「逢ひてからは恋のたけが低し」と。
 さて、そうすれば恋をしてしまった理想の武士は、どうやってその恋を終えるのだろうか。
 見初めたその女性に思いを寄せ、思い、思い焦がれ、焦がれるあまりにその命を燃やしつくすか。しかしそれでは、主君への思いがないがしろにされて、いささか武士らしからぬ気がする。
 例えば、秋の入口に吹く涼風が頬を撫でるのに、かの女性を見初めた季節を思い出し、例えば、妻の箸を持つその指先に、斜陽のまぶしさに思わず目を覆っていた白魚の指を思い出し、例えば、夜半の書きものの最中に、女の名と同じ文字を見出しては幽かに頬を緩め、白刃を己が腹に突き立てたその瞬間、最後の最後に、何処へ向けられたものかは分からぬが、静かに綻ぶその微笑を全てと、その脳裡に刻み込む。日頃日常において、その思いとは全てではない。しかし、水面に時折、光の加減で映し出される空の色のように、いつもは沈みこんでいて見えないが、ふとした瞬間、強烈に浮かび上がってくる思い。
 そのような恋を近世の武士はしていたのだろうか。それとも理想の武士にしかなせぬ恋だろうか。女としては、それ程の思いなら今すぐにでも告げてもらいたいが、しかし。
 美しい姿のまま、たとえ自分が知ることができなくとも、一人の殿方の中に、その命のついえるまで生き続けることができるなら。そんな添い遂げ方をしてみたい。そのように愛されてみたい、とも思うのだ。


三、すいてすかぬ者

 聞書一も終わりの方で、衆道について述べた段が三つある。特に常朝がその大意を申し述べる段は興味を持って読んだが、どうやら武士の男色とは、同性愛とも、前段の恋とも、結婚とも違った性質を持つようだ。
 常朝は、その道にあっても交情の相手は一生に一人でなければ武士の恥となる、男色の道にあっても武道に励めば、それは武士道にかなう、などと書いている。たとえ懸想していても武士たる自覚は忘れるな、という事だ。これは納得できる。ただ心に引っかかるのは、そこにカップルの成立を認めていることである。恋とは忍恋が無上の恋。ならばこれは、恋ではないのか。
 「貞女両夫にまみえず」を例に出すところから、これは結婚に近いものか、と考えた。しかし、夫婦というものは主従のようなものである。それに対し衆道のカップルは、現代の恋人同士にも似た対等さを持っているように思われる。
 聞書き一の一八三に、中島山三と百武次郎兵衛の二人に関するエピソードが載っている。ある夜、山三は突然に次郎兵衛の辻の堂屋敷へとやって来る。山三は、やむをえぬ行きがかりで三人の者を斬り捨てた、と告白し、身の始末のつくまでの束の間の命を次郎兵衛にまかせたい、とすがる。次郎兵衛は、自分を頼りになる男と信じて、こうして頼んでくれたことはこれ以上なく嬉しいことだと応え、そのままの姿で手に手をとり逃げるのである。夜明けに、ようやく山中に身を隠したところで、山三は、今までの事が、次郎兵衛の本心を知るための嘘であった事を明かす。
 そこで二人はめでたく結ばれるのだが、その事実よりも私は、二人が道中、手を引いたり、背中に負うたり、としていた事に驚いた。情愛を持つ者同士の間にそのような行為が、まして武士と武士の間であるとは想像し難かったのである。
 確かに忍恋はその至極であるが、実際の武士の全てがそれを全うしていた訳ではなかろうし、山三も次郎兵衛も実在の人物である。理想に忠実でなければならない謂れはない。しかし、理想の武士であってもそれは容認されたのではなかろうか、というニュアンスが私には何となく感じられる。
 そのことがある二年前から、次郎兵衛も山三に心をかけていた、とその段には書かれている。曰く、次郎兵衛は山三が登城する道筋の橋に通りあわせ、また下城の際も、必ず通り筋にあらわれては見送るということを続けていたそうな。
 何故か。何故忍ばずとも許されるのであろう。
 やはりその原因は、性の違いにあるように考えられる。例えば異性間では、婚姻という状態が成り立つ。同じ姓を持ち、一つ屋根の下で暮らす事ができる。しかし、いくら日本が、西欧化の波が訪れるまで衆道に寛容だったといっても、公的に関係の認証はなかった。これが男女であれば、公式の紙面がその関係を保証してくれる。たとえ二人の間が冷め切っていたとしてもだ。衆道のカップルは、そこが不確かである。いくら思い合っていても、法で定めるところの夫婦になることはかなわない。ならば行為で示すより他、なかったという事だろうか。
 常朝もその不安定さを懸念していたのだろう。様々な言葉、また西鶴の言を持ち出して、その心得を述べている。
 佐賀藩衆道の元祖、星野了哲が弟子、枝吉三郎左衛門は、師に「若衆好きの得心いかが。」と問われて「すいてすかぬ者。」と答えている。その意は、命を捨てるのが衆道の極意で、そうでなければ恥になるのだが、しかしそのために命を捨ててしまうと、主君のために捨てる命がなくなってしまう、よって、好きであるのに好かぬものと理解した、という事である。
 命、奉公と同価の重みを持つ衆道。私(わたくし)有る命が重なり合う、その思いの深さに何処か嫉妬を感じずにはいられない。


四、『葉隠』に描かれた人々

 『葉隠』はそもそも、武士とは……、と説いた書で、「死狂い」や「気違ひ」といった、決して穏やかではない文字が所々に躍っている。しかしその中に、不意にコミカルなものが現れることがある。
 聞書一の一七。欠伸とくしゃみについて述べている。人のなかで欠伸やくしゃみをすることは、慎みを欠く行為だと言っているのである。成程と思った次に書かれていたのは、その止め方であった。思わず欠伸をしてしまったら、額を撫で上げれば止まるものだ。また、駄目ならば、口を開けずに舌で唇を舐めるとよい。袖で隠したり、手を当てて、人に分からぬよう。くしゃみも気をつけないと阿呆のように見えてしまう。
 現代にも通じるものがあるな、と思うとともに、思わず口元が綻んだ。
 『葉隠』の一番初めに陣基は、これはただ自分の後学のための覚書であり、また常朝が他人の遺恨を受けないためにも、追って火中すべし、と記している。しかしそれはいつしか佐賀藩士の間で筆写され、「鍋島論語」と呼ばれ、今でも二十種近い写本が残されている。
 一体、何人の人がこれを読んできたのであろう。中には、その教訓を実践した者も多くいたはずである。『葉隠』に描かれているのは、山本常朝像、理想の武士像ばかりではない。それを読んだ者の姿が、この『葉隠』を鏡に映し出されているのだ。
 額を撫で上げたり、舌で唇を舐めたりすれば欠伸が止まる、と述べたのだから、常朝自身それを実践していたに違いない。陣基も人のいる中で思わず欠伸が出そうになると、それを思い出し、額をつるりと撫で上げただろう。そして、それを読んだ佐賀藩士も、近代、現代と時代を下った人々も、そして、今このレポートを書く私も、皆、一様におでこをつるりと撫で上げたのだ。それを思って、私は口元を綻ばせた。
 さて、『葉隠』に誰より深く関りながら、真夏の陽炎のように影の薄い人物がいる。筆記者、田代又左衛門陣基その人だ。
 陣基は藩の祐筆という文書事務を掌る職についていたが、常朝を訪ねる一年前、主君である第三代藩主、鍋島綱茂の逝去後、お役御免となったらしい。彼には公の職を外され、常朝の元を訪れるまで一年の余白がある。その間、彼が何をしていたかは分からない。しかし陣基は、常朝と出会ってから七年かけて、この『葉隠』を完成させている。つまりそれだけ、学ぶことに熱意を持っていたという事である。そんな陣基が、一年もの間、何もせずにぼにゃりしていたとは考え難い。おそらくは常朝のような人生の師を探して歩いていたに違いない。
 『葉隠』を読んでいると、時折、陣基の熱心で真摯な眸を、自分の眼球と『葉隠』との間に感じることがある。
 聞書二の四四に、常朝が道すがら言った言葉が記されている。人間とはなんとよくできた人形ではないか云々、と。
 きっと陽気が良く、どちらかの提案で、ふらりと外へ出かけたのだろう。陣基は矢立を持って出ただろうか。なかったかもしれない。そこへ常朝が、ふと真面目な目をして言うのだ。陣基はその一言一言を胸に刻みつけ、常朝の庵に戻るまでに何度もそれを反芻したに違いない。
 違いない、と書きつつ、これは全て私の想像である。しかし、このような想像をさせるほどの熱意をも、この『葉隠』は書き封じている。さらにそれを辿って想像をめぐらせれば、くしゃみをこらえる阿呆面を実演してみせる常朝と、筆を安め思わず吹き出す陣基の姿をも、この瞼の裏にははっきりと映るのだ。
 『葉隠』に描かれたのは武士であった。武士であり、更に武士としてありたかった二人の男と、彼らを培い、育んできた者たちの描く、理想の武士であった。この力強い生き物は、とうとう紙の上で描かれるには飽き足らなくなったらしい。今、私の中を一滴の熱い血が、心臓へ向かって流れ込んだ。


跋にかえて、暁星の静囁

 さて、『葉隠』である。書き始めたころからは考えもつかないレポートになった。それは、テーマからどれ程逸脱するとかとか、論旨の問題でもあったが、何より自分が書きたいことを楽しみながら書けた事である。現在、提出日の午前四時である。最小音量でかけているCDの他は蛙の鳴く声がするだけで、いつもうるさい斜向の家の犬もぐっすりのようである。多少の疲れはあるものの、気分は悪くない。
 実のところ、序を除く原稿の全てが、この半日間で書かれた。一ヵ月半の猶予のあったはずがこうなったのは、偏に、ゴールデンウィーク中のアルバイトとその後、八代からの通いの学生には過酷な程の演劇の練習が入ったから、という言い訳を蓑にした私の怠慢のせいである。
 しかし人生とは何がどう転ぶか分からぬもので、その怠慢が、この一晩、私を「死狂い」に仕立て上げたのである。勿論、最中にはそのことになど気付かなかった。跋文を書くに当たり、ようやく、ああアレは…、と思ったのである。
 さて、いよいよ明けも近づいてきた。澄んだ藍の中で、私の瞼は閉じる事を覚えず、次こそは『女殺し油地獄』でも読んでみようかと涼風に吹かれながら考えている。



参考文献
『葉隠』 和辻哲郎・古川哲史校訂(岩波文庫)
『葉隠』 奈良本辰也責任編集 日本の名著17(中央公論社)
『葉隠』 黒鉄ヒロシ マンガ日本の古典26(中央公論社)