anywhere, but here






 雨がフロントガラスを叩く。ワックスが効いてないから雨の形はぶつかった瞬間には不明瞭で不定形の輪郭に変化する。美しい同心円状の波紋、あるいは真円の広がりなどは見られない。それが一秒間に何粒何十粒とガラスには叩きつけられる。古いニッサン車は水の膜に包まれているようなものだった。古びた青いプラスティックの塊が魚屋の捨てられた水槽の底に沈んでいるようでもあった。確かに凄い雨だった。地下鉄のホームに雨水が流れ込んだニュースが車の天井と雨を越した頭の上からぼんやり聞こえてきた。下水も逆流していた。街は惨憺たる有様だった。ニッサン車の停まったアパート前の景色は、しかし大して変わらない。ここは街の中でも昔から酷い一角なので雨くらいではへこたれない。下水の匂いが立ち上ってくるのはいつものことだった。フレイキーはそのシンクにおんぼろ鍋を置いてすっかり鼻が慣れてるんだからこの程度の匂いは平気なんだと言い聞かせ鍋に水を溜め、毎日のパスタを茹でている。それを食べて一昨日まで生きてきた。パスタを入れていたボール箱の中身が空っぽになり、電源の入らない真っ暗な冷蔵庫の中が気分の悪くなるようなチーズの匂いで一杯になったところで諦めて部屋を出た。行くべき所は分かっていた。この車に積んだガソリンも多くはない。多分片道で精一杯だろう。部屋に戻っても生きていける気がしない。ならば、決まっている。今すぐキーを回し、走り出せ。街の中心か、郊外か。とりあえず一ブロック先の交差点をどちらかに曲がるかだけは決めなければならなかった。
 ――左には行きたくない。
 フレイキーは煙草に火を付けて、勿体なさそうに吸う。箱の中にはあと二本残っている。一本を吸いきるのにどれだけの時間がかかるだろう。フレイキーは煙草を吸わない。自分の煙草ではない。助手席の足元に落ちていたのを見つけたのだ。怯えながら火をつけた。一口吸えば、心は少し落ち着いた。
 煙がもくもくと出る。煙草ってこんなに煙が出るんだろうか。脇のハンドルを回して少しだけ窓に隙間を空ける。白くて、暗い車内では薄い紫色の染みた煙はナイアガラのように流れ落ちる雨を前に躊躇いながら外へ出て行く。フレイキーはフロントガラスにぼんやり映る幽霊のような顔を見つめ返した。自分の顔だった。顔色が悪くそばかすが目立つ。赤毛が伸び放題になっている。もっといいTシャツを着てくれば良かったと思った。洗濯しすぎて古びたTシャツは赤がもはやピンク色にまで褪せていた。しかしそれ以外の服がクローゼットにあっただろうか。フレイキーには金がないのだ。
 金がない。仕事をしていないから。簡単なアルバイトがフレイキーにはできない。皿洗いさえできない。人見知りだから人と一緒にする仕事でなければ大丈夫かと思っていた。しかし一人で裏に回り酸の匂いのするプールにゴム手袋をした手を突っ込んで皿を洗っていると些細な物音さえ恐ろしく、初日で五枚以上の皿を割った。三日目の昼には帰っていいと言われた。このままでは家賃が払えない。もう何ヶ月滞納しているのだろう。払った側から次の月がやってくる。この前寒い冬が始まったと思ったのにクリスマスもニューイヤーも過ぎてしまった。この雨が上がったら暑くなるだろう。季節は夏を目の前にしている。
 金を手に入れる必要があった。食べるものと眠る場所を確保するためだ。この車を売ってもいい。そもそも給料としてプロデューサーから払い下げられた車だ。愛車じゃない。どうでもいい。ハンドルがベタベタした車でも売れるんだろうか。それとも、これでもちょっとの金になるなら、自分は交差点を左に曲がらずにすむんじゃないか。もうビデオに出なくてもいいんじゃないか。
 ――そんなの一回きりじゃないか。
 車を売ってはした金を得ても生き延びられるのはちょっとだけ。ビデオに出て金をもらっても生き延びられるのはちょっとだけ。ただしビデオに出るのは怖い。もうカメラの前でセックスはしたくない。ううん、カメラの前じゃなくたって、だ。縛られるのも嫌。薬を打たれるのも嫌。男優のアレを舐めながら後ろから突っ込まれるのも全部嫌。嫌だ。
 ――車、売ろう。
 それからどうしよう。このアパートに戻ってきて、一ヶ月分の家賃を払って、ボール箱一杯にパスタを買い込んで。もう生きていなくてもいいのかもしれない。フレイキーは自分が交差点を右に曲がる可能性についてほとんど論じなかった。答えは最初から出ているようなものだった。デッド・オア・ダイ。どちらにせよ。
 交差点を右に曲がり郊外へ向かって車を走らせると閑静な住宅街に行き着く。中でも頑丈で大きな家に退役軍人のフリッピーは住んでいる。彼は戦場で心を病んでしまった。今は年金をもらって静かに暮らしている。彼には静養が必要だ。フリッピーは一緒に暮らさないかと誘ってくれているが、自分がいると彼の心は乱れるばかりだ。彼は戦場を思い出す。否、戦場にいた自分そのものになってしまう。ナイフの閃き、ミキサーの回る音、電子レンジのチン、些細なきっかけで彼の凶暴さは剥き出しになる。恐ろしいもう一人の彼。フレイキーの赤毛も彼を触発する要素の一つだった。豹変したフリッピーは暴力をふるう。しかしフレイキーは暴力をふるわれるから怖いわけじゃない。あれは彼の生き延びようとする狂おしさだ。彼は生きてこの街に帰ってきた。彼は英雄だ。あの戦争を生き延びた。だからフレイキーは彼にも仕えたいと思う。彼もまた愛したいと思う。たとえ犯されてもフレイキーは彼を嫌悪しない。軽蔑しない。拒否しない。だがその全てが普段の優しいフリッピーを傷つける。
 交差点の角を右に曲がる。彼の家の前でガソリンは尽きる。フレイキーは金がなくなったことをしどろもどろに話す。フリッピーは笑って自分を家に入れてくれるだろう。大きくて頑丈な家。壁には勲章や賞状が飾られている。暖かな部屋で――雨が上がっても森に囲まれたここらは涼しいままだ――二人でパスタを食べる。フリッピーは汚れた服を洗濯してくれる。シャワーを貸してくれる。フレイキーは彼のシャツを借りるだろう。清潔なシャツ。フレイキーには大きすぎる。それからセックスをする。多分、きっと。フレイキーが唯一それをしたい人がフリッピーだから。彼になら何でもしてあげたいから。彼に抱きしめられたら死んでもいいくらい世界中で一番の安心と幸福の頂点に至るから。
 フレイキーは短くなった煙草をアッシュトレイで丁寧に押し潰し二本目に火をつけた。その後の悲劇も簡単に想像ができた。人格の豹変したフリッピーはフレイキーの首を絞める。彼の趣味だ。フレイキーはそれを心で受け入れながらも抵抗するのだ。生への狂おしいほどの執着を持っているのはフリッピーだけではなかった。フレイキーもまた、自分のために、痛みを回避するため、生きるために何人の人間を傷つけてきた。状況が極端になればフレイキーの反動もまた大きくなる。フリッピーがベッドのどこに拳銃を隠しているかをフレイキーは知っている。だから今度こそ、次に首を絞められたら今度こそフリッピーを殺してしまうだろうと想像できる。自分が生き延びるために、今日食べて、今日眠って、明日恐怖とともに震えながら目を覚ますために自分はフリッピーを撃つだろう。撃たなければ翌朝自分のしでかしたことにフリッピーが自殺をする。その後はどうすればいいか分からない。今夜死ぬか明日死ぬかだけの違いだ。
 車を売るか。ビデオに出るか。交差点を左に曲がらなければならない。交差点を右に曲がるのはちゃんと風呂に入ってマシなTシャツを着てタマネギとチーズの料理を持ってからだ。フレイキーは目を擦った。タマネギとチーズの料理。部屋に戻らなければと思った。冷蔵庫を捨てなくちゃ。それから車を売ってディスコ・ベアーの事務所に行ってスタジオでビデオ撮って今日の分をもらったらTシャツを買って雨が上がる前に気温が上がる前にタマネギを買ってフリッピーにごめんなさいを言ってもうビデオには出ませんもう人を殺しませんって神様の前でお祈りしなきゃ僕たちは赦してもらえない墓穴に百合の花を投げ入れてもらえない明日のお葬式はキレイにしていないと天国にはいけないのだ。
「冷蔵庫…」
 呟いたフレイキーの口から煙草がぽろりと転げてジーンズの膝を焦がしたがフレイキーは気づかなかった。車の中にもくもくと立ちこめる煙が普通の煙草と違う匂いだということにも気づいていなかった。フレイキーは煙草を吸わない。間違えてバックに発進し、消火栓にぶつかる。がくんと揺れた車は流石の日本製でこの程度ではへこたれない。フレイキーはべとつくハンドルにしがみつき車を発進させる。一ブロック先の交差点はなんとか左に曲がったがそのまま対向車線に突っ込んだ。二、三台の車がクラクションを鳴らしながら大きくよけた。青いニッサン車は車道を斜めに突っ切り街灯に正面から衝突してようやく止まった。近づいてくるサイレンの音はフレイキーには聞こえなかった。その前に、夢を見るように意識は飛んでいた。
 白いベッドの上で目覚めた時、フレイキーはこれから撮影が始まるのだと思っていた。ナースや医師が登場してもそうだった。フリッピーがやって来た時は、これがディスコ・ベアーの嫌がらせだと思った。何度も辛抱強く説明を繰り返され、交通事故を起こしたのだと分かった。
「マリファナ…?」
「どうしてマリファナなんか…」
 フリッピーは溜息をつき、まだ動けないフレイキーの頭を撫でた。心底心配をしているので、車の中で拾ったものだと言い出せなかった。「もうやめる」とだけ答えると、フリッピーは目の上にキスをした。
 身体から様々なチューブが外れると、カドルスやギグルスも見舞いに訪れた。疎遠だったはずのトゥーシーも顔を見せて、一気にたくさんの人に会うのも、心配されるのも、優しい言葉をかけられるのにも慣れていないからフレイキーは相当しどろもどろになったが皆、気にしない。ただ口をそろえて一言「マリファナはやめろよ!」。分かった、とフレイキーは苦笑いする。
 結局、入院している間の金を払ったのも退院したフレイキーを引き取ったのもフリッピーだった。郊外の静かな森に囲まれた頑丈な家に到着しフレイキーの足は竦んだ。フリッピーの大きな掌が肩を抱いた。
「おいで」
 何度もくぐったドアを抜ける。懐かしい匂い。外は森の緑の匂いが濃くて少し恐ろしい。ここは人の匂いがしてホッとする。フリッピーの匂いだ。夕食を、それとも…、とフリッピーが言いかけて軽く唇を噛む。お腹すいた、とフレイキーは情けなく笑ってみせた。フリッピーもそれにごこちなく笑い返す。
「俺もだ」
 料理は出来合いを買ってきたものばかりだが、温めて皿に盛り付ければそれなりに見える。病院にいる間は宇宙食とベビーフードの中間みたいな、彩りの少ないペースト状のものばかりだったから、久しぶりのチキンはフレイキーが素直に、無邪気に喜ぶほど美味しかった。割と偏食するタイプなのに、いろんな野菜の混ざったサラダも美味しく食べた。食後に用意されていたゼリーは二人で食べるには多すぎたがそれでも全部食べた。調子に乗って食べ過ぎたフレイキーはすぐにトイレで吐き、またフリッピーを慌てさせた。
「ごめん……、本当にすまない」
 フリッピーの顔は真っ青でそれを宥める方が大変だ。ようやく落ち着いたフリッピーをリビングに待たせてフレイキーはバスルームを使う。今フリッピーが見ている番組はただのクイズ番組だから大丈夫だと思うけど…。いや、彼が現れてもいい、とフレイキーは風呂の中に沈み込む。はしゃぎすぎて吐いたのが恥ずかしくてたまらない。この後、絶対セックスするのに…。泡の立つバスタブの中で包帯の巻かれていた部分を念入りに洗う。特にくさい気がするのだ。髪は手術の時に切られ、中途半端な長さになっていた。フレイキーは念入りに三回もシャンプーをした。ただでさえフケ症の髪は入院生活でベトベトだった。フレイキーは青いニッサンのハンドルを思い出した。あの車はどうなったんだろう。金は…。
 あの雨の午後のことを思い出し、フレイキーはもう一度、ひそかに吐いた。吐瀉物をシャワーで排水孔に洗い流し、歯を磨き、ミントの匂いのする緑色の液体でしつこいほどうがいをする。セックスはする。この未来は変わらない。しなければいけない。たとえフリッピーが駄目だと言ってもだ。彼が自分を思いやれば思いやるほどに、それは絶対必要だった。
 バスルームを出るとリビングの音楽が廊下にまでかすかに流れていた。アンチェインド・メロディ。ロマンティックな音楽をフリッピーは用意していた。フレイキーが顔を出すと用意した笑顔を浮かべた。頑張って用意したんだな、とフレイキーは思った。彼も緊張している。初めてのことではないのに。二人とも望んでいるのに、これが怖くてしかたないのだ。煙草を消した後でミントガムをまとめて噛んだ残骸。テレビは消えて最新オーディオから流れる優しい音楽。アンチェインド・メロディ。古い音楽。ロマンティックで、これから起こる全てを全て許すような雰囲気を作り上げる。恋人同士なのだから。
 フレイキーはソファに鷹揚さを装って座るフリッピーの前に立ち、膝に手を置く。ありがとうを言う。ありがとう。入院費も。今夜の食事も。助けてくれて。バスルームで練習した言葉は途切れ途切れに口をつくばかりだ。なめらかに喋ることができない。フリッピーも用意していたのだろう、気にしなくていいんだ、元気になってよかった、という返事をようやく口から押し出したが、それきり何も言えなくなった。二人とも見つめ合ったままぎこちない微笑を浮かべて動けなかった。
「その…ボク…」
 感謝の言葉はぎこちなかったが心からの真実だった。本当に嬉しかった。フリッピーは自分を助けてくれた。迎えにきてくれた。心から感謝しているのだと、しかしどうしたらそれを心あるように伝えられるのだろう。誠意ある言葉、誠意ある態度、果たしてどういうやり方がお手本なのかフレイキーは知らなかった。知っていても、震える身体が、震える声がそれを可能にさせなかった。
 出し抜けにフレイキーは震える唇をフリッピーに押しつけ、抱きついた。音楽はいつの間にかスタンド・バイ・ミーに変わっていた。二人はあまり気にしなかった。
「心配したよ」
 耳元でフリッピーが押し殺した声を囁いた。まだ片足を引き摺るフレイキーを抱えてフリッピーは階段を上った。ベッドに横たえると彼はまたつらそうな顔をした。フレイキーは、来て、とベッドを叩いた。彼がそこに腰を下ろすとフレイキーから頬を寄せてキスを繰り返した。ミントの匂いがする。大丈夫だ。少なくともキスはくさくない。
 ベッドランプが以前来た時と変わっていた。柔らかな光を放つ、傘の形はフレイキーにはよく分からないがアーティスティックできっと高いのだろうと思った。分かっている、フリッピーはこの時のために買い換えたのだ。階下からぼんやり聞こえてくるロマンティックな音楽も、ベッドランプも、料理も、デザートのゼリーも全部自分のためだった。それなのに彼は自分を抱くことを怯えている。本当は逆だ。フレイキーが、自分はフリッピーに抱かれる資格があるのかと怯えて逃げ出さなければならないのに。
 フレイキーはキスで誘惑し、フリッピーの息が上がるのを待った。シャツの胸を強く掴むと、彼は自分のシャツを引きちぎるように脱いだ。フレイキーの来ていたTシャツはすっぽりと脱がされた。裸の胸を合わせてキスをされると、ああボクはやっぱりフリッピーとセックスがしたかったんだ、という思いが腹の奥底から指先を痺れさせるまで熱の奔流となって身体の内側にくまなく満ちた。耳まで熱かった。フレイキーは裸の背中を抱く手に力を込めた。フリッピーが好きだ。フリッピーを好きでいたい。彼以外の誰ともしたくない。これだけを一番望みたい。生きることよりも、死ぬのを怖がることよりも、一番に彼のことだけを考えたい。だからフリッピーが触れ、痩せてあばらの浮いた胸を舐め、開いた脚の内側を夕食のチキンに齧り付くように噛んだ時、嬉しくて仕方なかった。ボクはこれ以外の全てを捨てられる。これ以外の全てを忘れられる。今、ボクは完全に彼だけを愛している!
 それは至上の幸福だった。自分の生よりも目の前の快楽を追うことで相手を愛することができる今はこの世ではない。たった今太陽が爆発してもこのセックスと歓びは永遠で完璧なのだ。決して壊れない。フリッピーが自分の中にゆっくり侵入するのにフレイキーはいつまでも長い悲鳴を上げた。嬌声は涙になり頬をこぼれ落ちた。そこにフリッピーがまたキスをする。心は完璧に通じ合っていた。見つめ合ったまま交わすキスの恍惚にフレイキーの意識は遠くなる。フリッピーが何度も自分の名を呼んだ。ゴムをつけていないのに気づいたのはその時だったが、それこそが望みだった。身体の中で全部が混ざる。フリッピーもフレイキーも、血も肉も、愛も命も。愛しているのだ、とフレイキーは思い、囁いた。
 朝が来る前に目覚めた。ベッドランプは消えていた。半身を起こしたフリッピーの姿はシルエットになっていた。
「よう、おチビちゃん」
 懐かしい名で呼ばれると同時に力強い腕が首を締め付ける。フレイキーの首は枕に深く沈み込んだ。フリッピー…、と切れ切れに呼ぶと、退院おめでとう、と目の下に隈のある男は言った。
「知って…たの…」
「こいつが知ることをオレが知らないってことがないさ。昨夜は随分お楽しみだったじゃないか」
 ずるいぜ、オレばかり仲間外れにしやがって、と冷たい舌が唇の上を撫でる。舌はふざけてフレイキーの鼻を塞いだ。苦しくて流れる鼻水さえ舐めた。舐めておいて、きたねえ、と床に吐き捨てた。
「そんで、どうすんだ、おチビちゃん。この家に住むのか? こいつの言うとおりに?」
 返事ができない。首を絞められているからではない。歓びの瞬間が去ったから。現実の中でフレイキーはその返事をすることができなかった。
 腕はぱっと離れた。未練無く。急に興味をなくして離れた。
「てめえは早晩、こいつを殺すだろうぜ、おチビちゃん」
「…ボクがあなたに殺される」
「本気でそう思ってるのか?」
 目の下に隈のある男は笑う。歯を剥き出しにしてこれほど笑止なことはないと笑う。フレイキーも思った。歓びに、自分は耐えられない。幸福に、自分は耐えられない。金が無くて痛いことが嫌でも自分は身体を売ることはできる。不幸ならよく知っているからだ。でも幸福は知らない。どう生きたらいいか分からない。自分は逃げ出すのでなければフリッピーを失うのが怖くてフリッピーに裏切られるのが怖くて、こうしてまた豹変した彼に殺されるのが怖くて、彼の言うとおり早晩、キッチンのナイフを持ってこの大好きな身体に突進するだろう。震えながらもきっと迷いはない。同級生を怪我させたり失明させた時よりも躊躇はない。
「ま、その足じゃまだ無理だな」
 しばらくいろよ、オレが面倒見てやるからよ、と笑顔を闇の中に塗り潰したフリッピーは言う。
「それにオレはまだ楽しませてもらってないんでね」
 短くなった赤毛を腕が乱暴に掴む。
「イヤじゃねえだろ?」
 ねっとりとしたキスにフレイキーは口を開ける。彼の舌を受け入れる。唾液も。何もかも。抱かれながら、足が治った日のことを考える。アルバイトをしなきゃ。そうじゃなきゃ職業訓練センターに入らなきゃ。何でもいい。お金を稼いで新しい赤いTシャツを買わなきゃ。それからクッキーを焼いてこの家に遊びにこなきゃ。生き延びたんだから、きっと多分、善い方向に進められることだってあるはずなんだ。今より酷くなるかもしれないけど、不幸なら慣れてる。
「何考えてんだよ、おチビちゃん」
 男はフレイキーの身体を抱え上げ、首に縋ろうとしないフレイキーを乱暴に責め立てながら笑った。
「今より幸せなことなんかあるはずはねえだろ」
 きっとこのフリッピーの言うとおりなのだろう。だとしても。
「好きだよ、フリッピー」
 突然の囁きに凶悪に笑う男は少し面食らったようだった。しかしすぐいつもの調子で、顎を強く掴み、命じた。
「そうじゃねえだろ。こいつに言ったみたいに言ってくれよ。なあ、おチビちゃん」
「愛してるよ、フリッピー」
 フリッピーは哄笑した。オレもだと言った。夜が明けるまで続いたので、フレイキーは再び深い眠りに落ちた。夢の中でどこかに向かっていた。新しいバイト先だ。道の脇にクロ・マーモットのアイスクリーム販売カーが停まっていた。バニラを二つ持っているのはフリッピーだ。フレイキーは笑いながらそれに近づき、アイスを食べながら二人で歩く。これからどこかへ行くのだ。どこかへ。
 目が覚めたのは昼過ぎで、フリッピーがまた抱えて階段を下ろしてくれた。昼食にはお粥を出された。レトルトのそれを食べながらフレイキーは喋った。
「夢を見たよ」
「どんな」
 目の下に寝不足の隈を作ったフリッピーが尋ねる。
「よく覚えてないんだ。どこかに行く夢だよ。どこかに」
 テーブルの向かい側に座ったフリッピーは、どこかに、と繰り返した。
「どこかにか」
 そして悲しそうに眉を寄せ、呟いた。
「行こうか、フレイキー」
「どこに」
「どこか、遠くだ」
 彼は頭を抱え、俯いた。フレイキーは手を伸ばしてその手に触れた。
「そうだね」
 泣きそうになりながら、心から同意の言葉を吐いた。
「行きたいね」