孤独に打ち克つための顔面パンチ以外の方法






 自分の下半身をそこまでだらしないと思ったことはないし、そもそもオレはオレの両腕とおさらばしたあの瞬間から――思春期まっただ中だったよ、コンチキショウ――意志の力っていうのを物凄く求められる生活を強いられてきて、おふくろやおばあちゃんはそれを神の試練と呼んで慰めてくれたけどそれを神の試練とは呼ばないにしろしょうがねえって自分に言い聞かせて納得するには時間がかかった。なんせコップ一杯の水を飲むのさえ、クラッカー一枚、ピーナッツ一粒口に放り込むのさえ誰かの手を借りなきゃいけないし、その上ありがてえありがてえって相手のことを拝まなきゃいけないんだ。人格形成の重要な時期に十字架を背負う腕をなくしたオレの精神は鋼、とまではいかなくてもそこいらのチンピラよか強いとは思う。あいつら片玉無くしたくらいでビービー泣きやがるんだ。勃起するしシコる手もあるんだろ! ふざけんなっつうの。こっちは猛々しく主張する男のオトコをハグすることさえできやしねえってのに生きてんだよ。しかも労働してる。免許だって持ってる。自動車だろ。クレーンだろ。整備士だろ。危険物取扱だろ…。労働して納税して健全なアメリカ市民の生活を送ってるんだ。両腕がないのに!
 って言ってもオレはそれを自慢する訳じゃなくて、むしろ自信はあんまりなくて、基本バカで両腕もないからこのままだと余計バカにされるし人生カモられて死ぬと思って怖かったから市役所行って行ける学校探してもらって資格とって就職して社会的地位をどうにかこうにか確保してギリギリつま先立ちのアメリカ市民を保っている。本当は結構怖い。人生の荒波っつうか、両腕を切断するような目に遭えば受験とか就職とか仕事場で怒られるのとかまあある程度耐えられるけど、それ全部両腕がないオレの現実から目を背けて一日やり過ごしただけなのかなって気もする。
 で精神がグラグラしながらひとりぼっちの家に帰るためのトラックを運転してると短い腕でも扱えるようにラッセルが作ってくれた改造ハンドルの形が現実を生々しく思い出させて、どうしてオレはひとりぼっちなんだろう、どうしておふくろもおばあちゃんもさっさと死んじゃったんだろう、どうして事故の時にオレは死ななかったんだろう、神様なんかいない、神様がいたとしても絶対にオレを愛したりなんかしない、って涙で視界がぼやける。死にそう。このままローンが残った鉄の棺桶でオレは死ぬのかしら。それを神様はお望みなのかしら。トラックは中央線を越して対向車から物凄いクラクションを鳴らされる。オレは反射的にハンドルを切り、トラックは新米ストリッパーみたいにケツをブンブン振りながら元の車線に戻る。今夜も生き延びた。この世はムジョーだ。こないだテレビのゼンの特集で言ってた。
 ゼンのマインドを会得したオレはしめやかな気分でトラックをガレージに駐め、真っ暗な家に向かう。どうしよっかな。おじいちゃんの親父の代から持ってる土地だからってリフォーム繰り返してこの家に住んでるけど一人で暮らすには広いしこれから結婚するアテもないしいっそ家も土地も売っ払ってその金でメキシコかどっかに移住しようかな。映画でもドラマでも第二の人生を歩み出す時は必ず太平洋岸の貧乏だけどスローライフが一番って土地だ。オレもそれでいい。っていうかそれがいい。もう疲れた。アメリカ社会疲れた。働くのも別に嫌いじゃねえし納税くらいするけど、福祉制度がどうとか社会制度がどうとか考えるのめんどい。オレは涙を拭いてドアを開ける。鍵がかかっていない。
 次の瞬間オレの鼻っ柱には熱い拳が打ち込まれて、これ比喩じゃなくてマジでショットガンか何かで撃たれたんじゃないかって思ったし、死んだ、と思った。
「ハンディさん、また泣いてましたね!」
 凄く凜々しくて格好いい声がしたけど開いたドアも家の中も真っ暗で人影さえ見ない。これで家の中が明るければセリフの主がシルエットになってドラマみたいでかっこよかったんだけど。
「てゆか…、え…、モールさん?」
「死して屍、使用後の箸」
 モールさんが両手を合わせてオジギをする。あ、多分同じテレビ観た。
「泣いてたでしょう、ハンディさん」
 玄関前の階段を下りてくるモールさんの姿が乏しい街灯の明かりでようやくあらわになった。細身の身体にぴっちりとしたパンツとやっぱりゆとりのない身体にフィットしたハイネックのセーター。この真っ暗な中、丸い黒めがねをかけている。そして手には白い杖。目が見えない人が持ってるあれをゆらゆら揺らして、時々、コツッコツッと敷石を叩く。
「ね」
 モールさんはオレの身体を跨いで仁王立ちになった。
「白状なさい」
「あ、はい、えっと泣いてたっていうか、ちょっと人生暗くなっちゃってじんわりきただけで、そんなオレも男だしそんなに泣いたりしな」
 言葉を遮るように白い杖が鼻先を掠めて振り下ろされる。
「正直に!」
「泣きました!」
 むしろ返事が涙声だ。
「馬鹿な人」
 モールさんは心底呆れてオレの上にしゃがみ込む。
「でもそういうところが可愛い人」
 彼はオレの汗臭い作業着の襟首を掴んでぐいっと引き寄せ涙の跡が残るオレのほっぺたをべろーっと舐める。その舌の感触にぞわぞわーっときて、オレはそこまで下半身だらしない方だとは思ってなかったんだけど意志とは関係なく元気になる。
「現金な人」
 モールさんはオレのほっぺたの上で微笑み、チュッと音を立ててキスをした。
「さあ、立って。ハンディさん」
「はい。あのぉ…」
「そっちが立ってるのも結構なんですけど、立ち上がって? 家の中に入りましょう。寒いし、私は目が見えないけど衆人環視の中で続きはしたくありませんよ?」
 はぁい、と返事をしてオレはやっと立ち上がる。その時鼻血がボタボタボタッと作業着の上に落ちた。モールさんすげえパンチ。絶対容赦しなかったな。
 モールさんは何ヶ月か前までただのご近所さんでお友達で、一緒に天体観測に行ったり――モールさんは目が見えないからオレが星座の説明をする――、企業対抗トラックレースとか見に来てくれる程度だったんだけど、今は恋人でセックスもして彼の職業がスパイだってのもオレは知っている。時々絵を描いて盲人画家として取り上げられたり、ホットドッグ屋台でバイトしてたりするけどそれは全部仮の姿なのだ。スパイってやっぱスタントなしで崖登ったトム・クルーズより凄いんだろ? その本気パンチだろ? オレよく死ななかったよなあって思ってたら鼻血がダバーッ。オレ気絶しそう。玄関を入ってふらふらっとなったところをモールさんの細腕が力強く抱きとめる。
「どうしたんですか。我慢できない?」
「っていうか、血が足んねえッス…」
「平気平気、このくらい」
 モールさんはオレの作業着をスルスル脱がせて洗濯機に放り込み、廊下の壁にパンイチのオレの身体を押しつける。
「ほら。ここの血は足りてます」
 本当だ。鼻血を見てフラッとしたのにそこはカチカチのまんま。でも死ぬ前の人間は勃起するっていうし…。そのことを言うとモールさんは笑って、じゃあ人生最後のセックスなので気合い入れてください、ってオレを廊下に押し倒す。家の中はどこもかしこも真っ暗だ。窓の外の乏しい街灯の光に、それでも慣れてきてオレはオレに跨がったままセーターを脱ぐモールさんの裸をしっかりと見ることができる。すごく細い。なのに何食ってんの?ってくらい全身にバネみたいな筋肉がついている。でもちっともマッチョに見えない。白くって、しなやかで、エロい。オレがムズムズして興奮してるそこにモールさんは自分のお尻を押しつけてパンツ越しに擦る。オレが呻いていると、モールさんが腰を浮かし自分のベルトに手をかける。親指で引っかけてゆっくりとパンツをずり下ろしながら、ほらほら、とオレに言う。
「ハンディさん、人生最後のおねだりをしなきゃ」
「え…?」
「死んじゃうんでしょう?」
「モールさん、オレ、死にたくないッス」
「じゃあどうして泣いたりしたの?」
「孤独で…」
「私がいるのに?」
 モールさんの指先がちらちらとオレの先端を撫でてそのたびにオレは瀕死の魚みたいにビクンビクン動く。ちなみに瀕死の魚ってのはラッセルが釣り上げた魚をその場で串に刺して焼いてくれた時に見たやつね。いや、今はそういう話どうでもいいんだけど!
「モールさん…!」
 オレは喘ぎながら訴える。
「もう入れてっていうか、入れさせて…」
「それだけですか?」
「モールさん、オレ、何でもするから」
「何ですか、それ」
 モールさんの内股に擦られてオレはまた喘ぐ。快楽が瞬間的すぎて苦しい。オレがじたばたと短い腕を動かすと、モールさんの顔から黒眼鏡がはじかれて廊下に落ちた。でもモールさんは気にしない。薄い目蓋が見えない目を覆っている。すごく真剣な顔でモールさんは言う。
「言って、ハンディさん」
「言います、言うから」
「早く言って」
 オレは口の中に溜まった唾液を飲み込み、やっと口にする。
「ねえ、モールさん、家売って、オレと新婚旅行しよう」
 モールさんの手はひんやりしてた。じんわりと汗をかいてるんだ。手は優しくオレを握った。
「ハンディさん、もう一言、忘れてます」
「愛してる」
 震えながらオレは言う。泣きながらオレは言う。現実から離れて世界に戻ってきた感じがする。だから、社会がどうとか、どうでもよくって、オレがオレ主人公で生きてる世界にようやく抱きしめられた気がする。ので、あまりにも呆気なくイく。もちろんモールさんは許してくれなくて。
「はい! 頑張って! まだまだ!」
 ってすっごく楽しそうにオレの上で腰を振る。
 翌朝、ギリギリ廊下じゃなかったけど、起きたのはソファの上で、あれ、何回ヤッたっけ? どこまでヤッたっけ? って思いだしながらだらーっとしてるとモールさんがコーヒーを持ってやってくる。
「お寝坊さん」
「グッドモーニングッス」
 あくび。
「モールさん、早いね。つうか超元気。オレより年上じゃん」
「馬鹿にするんじゃないぜ、ベイビー」
 モールさんはコーヒーにストローをさしてオレに差し出してくれる。オレはストローから熱いコーヒーを飲みながら、あのねモールさん、ともぐもぐ口にする。
「昨夜言ったことだけど」
「あっ、録音しましたから安心してください」
「ええっ!」
 モールさんは尻ポケットから取り出したレコーダーをスイッチを入れる。するとモールさんの喘ぎ声とオレが新婚旅行に行こうって言ったセリフが爆音で再生される。あんぐり口を開けて裸の胸の鼻血跡の上に更にコーヒーをこぼすオレを見下ろし、モールさんはにっこり笑う。
「忘れるつもりはありませんから」
「いや、あの」
 忘れてもらうつもりじゃなくて…。あー、やっぱオレはガキ扱いされてんだよなあ。いざとなったら逃げるくらいに思われてんのかな。でもオレの精神鋼の如しって訳じゃなくても、昨日はゼンのマインドも会得したし、大事なことを言ったの、オレだって忘れてないのだ。
「モールさん」
 オレは肩口で唇を拭って、モールさんの前に立った。
「手を出して」
「はい?」
「左手。オレの顔の前に出して」
 モールさんはオレに掌を向ける。左から数えたら四番目。右から数えたら二番目。オレは口を大きく開けてモールさんの左手薬指を飲み込み、根元に歯を立てる。丁寧に、でもしっかり力を入れて、歯形を残す。
「オレ、トラックの改造ローンも残ってるし、指輪もすぐには買ってあげられないけど」
「私、仕事の時に指輪外しますし」
「あ、そうなんスか…」
「でも続けて」
「愛してる」
 言った瞬間、オレは泣き出す。待てよ! クソ! トム・クルーズみたいにクールにキメようとしたのに!
「死ぬまで」
 涙声じゃん!
 するとモールさんの手が優しく涙の流れる上を撫でてオレの顔を引き寄せる。
「私も」
 すぐそばで、モールさんの薄い目蓋が震えた。
「死ぬまであなたのそばにいる。決めました」
 私も愛してます、と囁いてモールさんのあたたかいキスが触れる。
 それからオレたちは朝飯を食ってシャワーを浴びて身体を綺麗にした後、銃やチェーンソーを準備し不動産屋に電話をかける。スニフ・アンド・アンツ・カンパニーに安く買い叩かれないように、その準備だ。オレ、あんまり得意じゃないんだけど、とチェーンソーの調子を確かめていると「安心して、ハンディさん」とモールさんの爽やかな笑顔。
「何人たりとも、私の照準からは逃れられないのです」
 リボルバーを光らせてオレを狙う。
「知ってる」
 オレは笑い返し、でも銃口にキスはしない。そんなことをしたらうっかり撃っちゃうのがモールさんなのだ。