最大の問題と

周辺で起こった諸々の出来事 4




 二日寝て、すぐに退院した。首には絞められた痕がくっきり残っていて痛々しく見えるのかもしれないけど、食事だってできる。自分の足で歩ける。じゃあ高い医療費を払ってまでここにいる必要はない。ランピーはうちに入院すればいいのにと言った。実はカドルスも「お前んとこの病院ならタダなんじゃねえの?」とこっそり言った。でも皆分かってるはずだ。俺も分かってる。ランピーに看護されたら治るものも治らなくなる。それ以上に悪化するだろう。誰よりランピー自身がよく分かっていた。だからパーティー会場からすぐに俺を連れ出して自分の足で総合病院に連れて行ったのだ。
 退院と聞かされてランピーは眉をひそめた。
「大丈夫なの?」
「酷いのは見た目だけですよ」
「じゃなくて心の問題」
「ベッドで寝てたってしょうがない。それこそあんたが専門でしょ」
 おんぼろキャデラックでランピーの家に帰る。でも翌日から俺はその家の中に引き籠もる。ラミーの話は聞かなかった。あの後どうなったのか。ペチュニアはちゃんと店をオープンさせたとギグルスからメールが入った。
「大丈夫? あなたは何も心配しないで」
 何も心配していない。ラミーのことも。俺自身のことさえ。
 ランピーの家で何をしていたかと言えば二人でテレビを観たりゲームをしたり。俺はろくでもない主人公を操って車を盗んだり商店に火を点けたり売女をシバいたり挙げ句平気で人を殺したりする。
「これリハビリの一環とか言わねえよな」
「ううん。ラッセルの趣味」
 俺は悪事をやるより死ぬ数が多い。逆にランピーはひやひやさせながらも何だかんだで生き延びている。
 夜の八時にはゲームを切る。セックスはしたりしなかったり。首の痣はなかなか消えない。紫色と茶色が交じった汚い色をしている。手の、指の形。あの女の手はあんなに白くてキレイだったのに。ランピーの鼾を聞きながら俺は浅い眠りの中で夢を彷徨い、首を絞めようと伸びてくる手や女の泣き声で目を覚ます。俺が起きるたびにランピーも目を覚ましてもぞもぞと身体を擦り寄せる。胸にもたれて、これはオッサンの匂いだろうなというランピーの匂いをかぎながら俺はどうしようもない下らないことを考える。病院は散らかってるだろうなとか。受付の帳簿もめちゃくちゃだろう。待合室にも埃が溜まっているに違いない。フリッピーやフレイキー、常連の患者は元気だろうか。もうどれだけ顔を見てないっけ。俺は何日この家に引き籠もっているんだろう。美人の女が怖い。巨乳で天使のような微笑みを浮かべた女が俺に微笑みかけるのが怖い。
 ランピーが更にもぞもぞと動いて身体を密着させた。硬くなったものが当たる。ランピーの手は俺の髪を撫でたり抓んだりする。
「いいよ」
 小さな声で返事をした。
 何もかも忘れるほど良かった訳じゃない。それでも嫌いじゃないと思えた。
 仕事に復帰しても意外と何も変わらないというのが感想だ。結局ランピーとは二十四時間一緒で、予約リストには見知った名前。朝から掃除をし、コーヒーを飲み、仕事してふと窓の外を見るとクロ・マーモットのアイスクリーム販売カーが停まっている。二人並んで仲良くバニラアイスを食べているのはフレイキーとフリッピー。俺は本当に何かを怖がっているんだろうか。今更怖いものが俺にあるんだろうか。全ての現実は陽炎のようなものなのに。手にしたと思ったものは砂の楼閣のように崩れ去ると知っているのに。
 ドアが開き、待合室に光が射す。曇り空の隙間から落ちてくる神聖な光と同じ。天使の羽根が舞い、女は足音もなくカウンターに近づく。
「トゥーシー」
 ラミーは俺の名前を呼んだ。微笑まず、悲しそうな顔だった。しかもその顔も半分白い包帯が巻かれていた。目から頬までを覆われて、それでも尚女は美人だった。俺は目の前の女が俺の首を絞めた瞬間を思い出した。でも怖いのかよく分からなかった。女は古ぼけたぬいぐるみを握りしめていた。ぬいぐるみ? 靴下に綿を詰めたみたいなボロボロの人形。
「今日は…ご挨拶に伺ったんです。ご迷惑をおかけしたこと…その…あなたには…」
 ラミーは手の中の人形を強く握りしめ、震えながら一言一言を押し出した。
「私の病気が見せた幻覚は…私だけの問題で…私があなたの首を絞めてしまったことは…そのことだけが事実なんです…。トゥーシー、私は親切なあなたを…本当は…助けたかったんだけど……ごめんなさい」
「取り次ぎます」
 インターコムを押そうとするとラミーの手がカウンターを掴んだ。
「私、あなたと出会わなければよかった!」
 目に一杯の涙を溜めてラミーは激しく掠れた囁き声を吐き出した。
「私は世界が幸福なものだと信じていた…私もその一員だと信じていたの…嘘よ…そんなの全部嘘…完璧に幸福な世界なんてない……!」
 ああこの女は病気なのだ。
「先生。次の患者です」
 誰、とスピーカーから眠そうな声。
「ラミー」
 女は人形を抱きしめ、罪人のように項垂れてドアの向こうに消えた。俺は椅子に腰を落とした。無意識のうちに立ち上がっていたのか。溜息と一緒に知ってるという言葉が口をついた。知っている。ラミーの言った言葉は全部知っていたはずのことだ。幸せを壊したくない。全ての破壊と悪事から守りたい。どうやって。俺達は壊されるだけだ。何度でも壊されて、人生を彷徨うだけ。
 その夜、自分から求めるとランピーはいつも煌々と点けている家中の電気を消して俺を抱いた。終わっても俺の上からどかず息を切らせながら「良かった?」と尋ねた。
「良かった」
 俺は答えてランピーの首を抱いた。それは今までの全ての気持ちだった。
「俺、あんたのこと嫌いじゃない」
「もっと素直になりなよ」
 降ってくるキスを押しとどめて俺はランピーを見上げた。家中の電気を消しているのにランピーの顔はちゃんと見えた。にやついてて、顎には髭の剃り残しがあって。
「俺、明日出て行く」
 目が真ん丸に見開かれて、んん?と変な声が漏れる。黙ってじっと見つめていると表情が一変した。
「この流れでおかしくない?」
「いや、この流れでこれしかねえだろ」
「いやいやいや君今僕のこと愛してるって言ったよね」
「言ってねえよ」
「言いなよ!」
 髭の剃り残しとか。シェービングクリームがついてるのとか。コーヒーカップを洗わないのとか。たるんだ腹とか。
「愛してるなんて誰に言うつもりもない」
 髭。掌にちくちくと刺さる。
「この先あんたにも、あんた以外の誰に出会っても俺は絶対に言うつもりはない」
 今言わないんだ。もう一生言うことはない。
 あんたのこと好きだ、と呟くと両腕で抱きしめられた。そのまま朝まで眠り、翌朝はシャワーも浴びずに病院を開けた。
 数日モーテル暮らしをしたり、車の中で寝たり。カドルスのところに言ったら根掘り葉掘り訊かれそうで避けてたけど結局バレた。仕事は馘なら辞めると言ったがランピーは俺を馘にしなかった。
 ラミーからは弁護士を通した話が来て、俺は訴えないつもりだからそれで終わりかと思ったけど見舞金だとか何だとか、どの権利を放棄してどの権利を守るためにどうこうとか思ったより手続きは手間取った。とにかく全部サインした。あの場で起きたことは一切口外しないこと、という項目もあった。パーティーの様子を映した動画が上がって一時騒然としたけど、それも削除された。
 書類の一番上に置かれた名刺。弁護士のと、もう一枚。俺はモーテルの受付からラミーに電話をかける。彼女が所有しているアパートに空室はないかと尋ねる。その後狭い車に荷物を押し込み五回にわたって荷物を運んだ。
 俺は初めて自分で部屋を借りた。




2014.7.17