最大の問題と

周辺で起こった諸々の出来事 3




 俺がこの町に引っ越してきたのはほんの子供の頃だったから、今の友達でも下手すると俺の生まれがここじゃないことは知らない。それにこの町で育つと、行動や言葉遣いや些細な仕草の端々にこの町の匂いが染みつく。小さな差異に気づくってことは俺もまだ根っからこの町の住人じゃないのかな、と心密かに安堵したりもしたけど、外から来た人間と比べるとどうしても鼻につく。それは俺の中に自然に染み込んでしまったもので、多分もう拭い去れない。どこか他所の町で暮らせばまたその町に染まり直すだろうか。俺はどうしてこの町を出ないんだろう。
 いい思い出が、ない。
 引っ越してくる前の記憶が記憶の底に微かに残っている。俺は意図するしないに関わらずその光景を思い出す。暗くて広い部屋。絨緞は剥がされ、古い壁紙も湿気で浮いたり破れている箇所があった。カーテンも古くて埃色に汚れていた。縁のレースは千切れて垂れ下がっていた。窓の外は雨なのか、曇りなのか、とにかく暗い。陰鬱で重たい光景の中、俺の心は逆に重量がないようだった。これからの引っ越しに胸を躍らせていたのか。違う。虚しかった。多分、何も考えていなかった。中身のない心が写真のようにその光景を記憶した。だからこれは消えない。いくらこの陰鬱な光景から目を逸らそうとしても、俺の心に刻まれたこの光景は消えることはない。
 この町は都会ってほどでもないけど明るくてそこそこ活気もあって、友達もいい奴ばかりだ。けどいい思い出はない。高校卒業まで暮らしたトレーラーハウス。就職してからも俺は自分の家がなかった。友達の家に泊まるかモーテルで暮らした。だいたいカドルスの家。カドルスん家には大きなクローゼットがあるから、買った服はほとんど全部預かってもらった。アパートを借りるより服が欲しかった。理由は大してない。お蔭で清潔な服には事欠かないし、時々はカドルスとコスプレもできる。
 不満がある訳じゃない。それでも過去を振り返った俺は憂鬱そうな顔をしてこう言う。いい思い出なんかない。
 今すぐにでもこの町を出れば人生は変わるはずだ。良くあれ、悪くあれ。
 まず今日、たった今この家を飛び出せば生活は変わるはずなんだ。これはきっと良くなるだろう。百人に尋ねれば百人がそう言うと思う。
 そんなろくでなしの家なんかさっさと出ちゃえよ!
 ハンディ先輩はそうは言わなかった。
 俺が羨ましいと言って泣いた。恋人と二十四時間一緒にいられる俺が羨ましいと言った。俺は今の自分が幸せなのかどうか分からない。
 ランピーは町の精神科医で俺の上司。目下俺の恋人だと言われているが、俺の恋人は確かにこの男しかいないのかもしれないけど、ランピーの側からすれば恋人は俺に限ったものじゃない。そもそも俺はランピーのことを恋人と呼ぶのがしっくりいかない。セックスもして一緒に住んでる上司。
「それほとんど恋人だろ」
 カドルスは言う。
「雇用主って言った方がしっくりくる」
「なんだよ倦怠期か」
 ランピーの試しに寝てみないかというとんでもない提案から始まり一緒に住み始めて数ヶ月。寝る場所を探さなくなっただけで生活はあまり変わっていない。セックスに飢えることはなくなった。受け身だけど。ランピーはこれが好きだ。俺以外の奴ともやる。例えば廃棄物処理で世話になっているラッセル。病院を開業する前から釣り仲間でそういう間柄も長いこの現代版フック船長とランピーは未だに切れていない。最初一ヶ月くらいは俺を優先してくれたが、それは優しさじゃなくて単に俺と付き合い始めたばかり新鮮だったからだろう。
 って言ってもランピーはゲイじゃない。多分バイセクなんだろうが、確固たる信念は全くないし、性癖がどうのというより多分だらしないだけだ。最近は、カウンセリングのご新規さんがお気に入りだ。
「すごくいいおっぱいだよね」
 帰り道、おんぼろキャデラックのハンドルを握りランピーはすっかり脂下がっていた。
「僕ああいうの大好き」
 今更嫉妬はしない。俺だっていい胸だと思った。セーターを押し上げる丸い二つのふくらみ。プラチナブロンドに白いニットのワンピースを着た彼女がドアを開けて入ってきた時、待合室には光が射したみたいだった。天使が降臨したみたいだった。正直俺は目を奪われた。彼女の歩き方はまるで月の重力で歩いているかのようにふわふわしていて足音がなかった。彼女は白い手をそっとカウンターに置いて俺に尋ねた。
「四時に予約をしたラミーです。早く来すぎてしまったけど大丈夫ですか?」
 ラミーにこの病院を紹介したのはペチュニアだ。俺の初恋。彼女の初恋も俺だった。まだ中学生だった。彼女は潔癖症で俺と手を握るのも震えた。俺は彼女の怖がることが何一つできなくてよく隠れて吐いた。キスさえせずに別れた。あのペチュニア。
 雨の日だった。電話が鳴った。
「私よ」
「ちゃんと名前をおっしゃってください」
「ふざけないで。ペチュニアよ。聞こえてるんでしょう」
「聞こえてるよ。どうしたんだよ、もうこの病院には来ないって決めたんだろう」
「ええ金輪際お断りよ。頼まれたって行くもんですか。今日はあなたにお願いがあって電話したの」
 一緒に夕食を食べないかとペチュニアは言った。
「…どうして病院の電話にかけてきたんだ」
「だってあなたの携帯番号知らないもの」
 夕飯は外で食べると言ってもランピーは気にしなかった。それどころか一人で家に帰った。俺はバスに乗ってペチュニアと待ち合わせた店に向かった。
 健康志向のレストランで有機栽培の野菜をメインにした食事。
「一切肉を使っていないのよ」
 ペチュニアは相変わらず殺菌グッズが手放せないみたいだが、頬はピンク色で肌つやもよく一時期に比べてずっと健康そうだった。
「まだランピーの所で働いてるのね」
「今日電話してきただろ」
「経営はどう?」
「潰れてない」
「評判は?」
「個人情報に抵触することは教えられない」
「個人情報なの?」
 ペチュニアは笑う。こんなに明るく笑う子だったろうか。ハイスクールでクラスが別れてからほとんど笑顔を見たことがなかった。
 ああ、可愛い。
 それなのに俺の心は平らで冷たい。
 ペチュニアはグラスの透明な液体を揺らす。
「私ランピーのことは大嫌いだけど、カウンセラーとして客観的に評価をしなくもないのよ」
「最低?」
「トゥーシー、ランピーと話をしたことがある?」
「毎日話してる」
「仕事抜きで」
 黙っていると、馬鹿って感染するのよね、とペチュニアは嫌々ながら笑った。
「色々どうでもよくなるの。いつもって訳にはいかないけど、たまには頭を真っ白にすることも必要だわ」
「カウンセリング…?」
「私の共同経営者。私たち、今度オーガニックショップをオープンするのよ。でも彼女がすっかりまいっちゃって。予約、入れてくれない?」
「本人の意志なのか?」
「彼女、もう何軒もクリニックを替わってるのよ。治したいっていう気持ちが強すぎて余計にプレッシャーになってる。次のクリニックでも駄目だったらどうしようって考え始めて、行く前から悪循環に陥ってるのよ。一度リセットさせたいの。一回でいいから」
「一回のカウンセリングで治らないことくらい…」
「治るはずないわよ。とにかくリセットしたいの。そしたらもっといい所に通わせるから」
 ペチュニアの言葉から想像した俺は、青ざめた顔の地味なビジネスウーマンでも来るものだと思っていた。だから美人でスタイルもいい天使がラミーと名乗ってもすぐに反応できなかった。
「あの…」
「ああ」
 俺は思わず立ち上がった。
「好きに腰掛けてお待ちください、時間になったら呼びます」
 無駄な単語に二三個くっつく。精神病院の、更に受付ともなれば患者に思い入れや深入りは厳禁なのに。
 初回のカウンセリングは三十分だ。信頼関係の端緒が掴めず、それより早く出てくる患者もいる。ラミーは一時間以上ランピーと話していたようだった。待合室のフリッピーが煙草を吸っていいかと言ったが、もう少し我慢してもらった。
「喫煙室作ろうぜ」
 フリッピーは煙草の代わりに色とりどりのジェリービーンズを齧りながら言う。
 あの日、フリッピーが消えて別のドアから現れたラミーはまたカウンターに手を置き、俺に向かって微笑んだ。
「次回の予約をしたいのですが」
 内心の喜びは抑えられなかった。名前と電話番号を書き込む彼女の手。カレンダーを指差す手つき。
「先に浮気してるのお前だろ」
 カドルスがにやにやと笑う。
「してない」
 言下に答えた。
 あっ、とカドルスは手を叩いた。
「片思いのところを横取りされたのか」
「違う」
 発想が完全にメロドラマだ。そんなの観るのかよ、と言ったら、観るよ、とあっさり答える。
「ギグルスが観るからしょーがないだろ」
 カドルスにバイバイを言って分かれ、家に戻るとランピーが抱きしめる。あんまり言葉はなかった。なし崩しにセックスをした。俺は終わって鼾をかいてるランピーの横を抜け出し、キッチンで小腹を満たす。ビールを一口。でもそれ以上何も欲しくなかった。
 満腹になんかならなくていい。
 幸せじゃないけど、これ以上何も欲しくない。今の生活と、今の俺が持っているもの全てが総てだ。他に、俺は何も欲しくない。心底そう思った。残ったビールを流しに捨てた。
 何も要らない。そして砂粒ほどの何かが欠けることさえ俺は恐怖した。

 ランピーとセックスするのは嫌いじゃない。ペチュニアの言った馬鹿の効能だろうか。俺はよく泣く。そしてよく眠る。時々夢の中で記憶の底の陰鬱な景色を歩くが、恐怖に震えることはない。
 その朝ランピーは上機嫌だった。今日は病院を早く閉めてパーティーに向かう予定だった。ペチュニアとラミーが合同経営するオーガニックショップの開店パーティー。ランピーは招待状をもらっていた。何故か俺も。俺の招待状には二人が連名だったけど、ランピーの分からはペチュニアの名前が消えていた。
「ペチュニアはまだ僕のことが気になるんだね。可愛い」
 招待状を眺めてニヤニヤ笑うので、キモイ、と足を蹴る。
「邪魔。どいて。朝飯食うの? 食わないの?」
「食べる」
 おなかペコペコ、とランピーはキッチンテーブルにつく。
「昨夜も君が頑張らせたから」
 無視。
「ねえ、良かった?」
 ランピーはこれを聞く。
「そういうこと言うと嫌われますよ」
「あれあれ、その発言は僕の一夫多妻制の肯定?」
「多夫多妻制の間違いじゃないんですか」
「やだなあ、今は君だけだよ」
 俺はこんなに誠実さのない科白を聞いたことがない。
「今は、っていうのいらないんじゃないですかね」
 でもランピーは言い直さなかった。
 パーティーに着て行く服は決まっていた。事前にカドルスの家に行って服を取ってきていた。ランピーが入口に飾られた花を一輪とって俺のジャケットのボタン通しに射す。意味不明な行動はそれきりで、俺とランピーは離れて飲んでいた。参加者にはギグルスもカドルスも勿論いて、軽い同窓会状態だった。
 皆が喋っている。俺は大して喋ることはないし、今の自分のことを積極的に喋りたいとは思わない。
 ペチュニアとラミーはそれぞれ挨拶にまわっている。遠目に見るラミーの様子はさしておかしくはない。そもそも受付で見る限り、彼女は患者と思えないほど落ち着いている。
 天使が通ったみたいな、まさにその瞬間だった。周囲のおしゃべりは急に途切れ、顔を上げた俺の周りには誰もいない。目の前にはラミーが立っている。
「来てくれてありがとうございます」
「こちらこそ招待状をありがとう。開店おめでとうございます。素敵なお店ですね」
 当たり障りのない挨拶。ラミーもそれに当たり障りのない返事をして俺の前を去るのだと思っていた。
 違った。ラミーは俺の目の前に佇み続けた。周囲におしゃべりが蘇る。心地良いざわめきの中で俺とラミーの間だけ無音だ。次第にラミーの表情から笑みが消えた。日が翳るような静かな変化だった。
「トゥーシー」
 彼女は俺のファーストネームを呼んだ。
「あなたはランピーの家を出るべきだと思います」
「突然何を言い出すんだ」
 俺は不思議なことに大して動揺するでなく、思ってもみない返事をした。
 ラミーはランピーをドクターと呼ばなかった。名前で呼び捨てた。
 それから当たり前のことを言った。
 何が起きたんだ?
「ランピーと暮らしているとあなたは駄目になる。今も無理をしているんじゃありませんか」
「なあ、何の話だ?」
「あの家を出てください」
 ランピー! 俺はあの腐れ上司を恨むべきなのか、それとも目の前の女に怒りをぶつけるべきなのか? つまりランピーは大好きなおっぱいに埋もれたってことなのか。女はそれを甘んじたのか、それともカドルスがメロドラマ的邪推をしたみたいにラミーからランピーとの距離を縮めたのか。
 もう何も欲しくないと言ったのに。
 これ以上何も望まないと毎晩繰り返したのに。
 砂粒一つ程度のものさえ欠けることに泣くほど恐怖しているのに、俺は。
「ランピーは俺の雇用主。俺は雇われの事務員だ」
「あなたがたの同性愛関係を責めているのではないの」
「うるっせえな」
 足音も立てずに歩く美しい女。光に包まれた美しい女。
「お前に何が分かるんだよ」
 出てってやる、と俺はグラスの中身を干した。
「言われなくても出て行く。永遠にあの場所にいたりしない。俺はいつだって自分の意志で出て行くんだ。後は好きにやってくれ」
「そういうことじゃないんです、トゥーシー」
 縋ろうとする彼女の手を払った、つもりだった。
 俺の手は空をはたいただけだった。喉が詰まった。息が出来ないことに気づくまで時間がかかった。首を絞められたことなんかないからどうしていいのか分からない。ラミーの泣いている顔がよく見えた。時間が引き延ばされる。俺はラミーの手を掴むけど力が入らない。
 ラミーは綺麗な涙を流している。
「お願いやめて、ミスター・ピクルス」
 絵画のように静止した世界にラミーの声は悲痛な響きで落ちた。
 少し時間が飛ぶ。俺は床に倒れているけど半身を支えられている。ランピーの無駄に長い腕が俺を抱えている。
「大丈夫か?」
 そんな普通の科白を吐くなんて。
 皆が輪になって床に倒れた女を見ている。誰もラミーに近づこうとしない。彼女の顔にはテーザーの電極が刺さったままだった。




2014.7.14