最大の問題と

周辺で起こった諸々の出来事 1




 俺がその街に住んでた頃、タンジェと呼ぶよりはタンジールの方が通りがよかった。何を海を渡ってアフリカ大陸くんだり、ピザの配達もしてくれなきゃお気に入りのチーズだって満足に食えそうもない所へ行かなきゃならんのだと抵抗したが、当時の俺の雇い主は俺をピカピカに清潔な部屋へ丸…どれくらいだ、俺にゃあ分からねえが丸十年も二十年もいさせたような気にさせて、こんな場所でなきゃどこへだって北アフリカのどこだろうが行ってやるという気になり緑色のお星様を目指して飛行機に乗った訳だ。まずこれが間違いだわな。俺のような稼業で何かに屈するっちゃあ、そりゃ徹底的な敗北よ。これから先も安く使われるに決まってる。だが刑事辞めた時点でこんな運命も決まってたんだろう。乗っちまったもんはしょうがねえ。あとは飛行機が墜落することを祈るしかなかった。ここで俺の後生の良さだ。無事に着きやがったぜ。
 パリを経由してイブン・バットゥータ空港に下りた。空は薄曇りだった。夜だった。俺は夜が好きだ。夜が向いてる。夜の方も俺を好いてくれてる。トレンチを着た場違いな男の姿も夜の闇は優しく隠してくれる。タクシーがメディナの一角に俺を下ろした時、俺はそこに存在しないも同然だった。札と白銅貨がチャリンと音を立てれば、そこに俺の影はない。大したもんだろう。その夜から俺はタンジールの住人になる。
 カスバは壁の所々に青の鮮やかな、メディナでは小綺麗な街で、俺としてはもう少し埃くさいところでもよかったんだが、最初の夜に歩いた、腰から下が海にでも浸かってるみたいなあの感覚が忘れられなかった。猫が多いのが玉に瑕だが、まあ悪くねえ。俺がザ・ラット――ネズミと呼ばれているから嫌いなのはキャットだろうと思う奴は多いが、嫌いは嫌いでっも死ぬほどじゃあねえよ。汚い野良猫もドアの外に蹴り飛ばして、まあ仲良くやったもんさ。部屋の真横、薄い壁のすぐ横を下水管が走ってて、それが始終ごろごろと音を立てる。それは俺にゃ心地良かった。下水の、あの流れの悪い唸りや、何かの拍子に勢いよく流れる水音、俺はホッとするんだ。な、ネズミらしいだろ。
 で、仕事は何してたかと言いきや、雇い主がFAXで送ってくる旅行客のリストから臭い奴を俺独自でピックアップ、尾行してはスキャンダルの種やら何やら、土産物のリストに至るまで報告する。こういう仕事はニューヨークでやらせてくれと再三頼んだが聞き入れられなかった。褐色の肌の娼婦を買う、ミントティーでほどほど酔って、絵葉書やらバブーシュを買う。これがいずれABCワールドニュースを騒がせる事件になろう筈がない。が、可能性もゼロじゃねえか。来るまでが最低だったが、いざ住み着けばそれなりに悪い街じゃあなかった。猫を蹴飛ばして狭いベッドに横になりゃあ、隣の窓からキフの煙、女が泣きながら歌う歌、そして俺は昔抱いた若い身体を思い出しながらマスかいて寝る。生きてる気もしねえが、死んだにしちゃ悪くねえ。
 てな訳で夜ごと日ごと、昼間はカーテンを閉め切っちゃ暑苦しい闇の中で夢見、夕方にゃあ街角でリストの客と娼婦がドアの向こうに消えるのを見ながら思い出し、夜は夜で男の喘ぐ声を聞きながら思い出したあの身体が、白くしなやかな身体が、憎らしくて食っちまいたいっちゅうかベッドに縛り付けて足から四つ裂きにしてまだ生きてるそいつの目の前でピンク色の腸を囓るところを見せてやりてえと思うくらいには愛も憎も詰め込んで年甲斐もなく執着しているそいつが、まあ有り体の言葉で言えば愛してるって言った方が早いんだが愛してねえしな、とにかくモグラ――モールが目の前に現れた時、死んだ魂も蘇った。タンジールは世界の中心となり、俺は勃起し、モールはサングラスの向こうから俺を嘲笑った。見えねえ目を細めてヤツは笑いやがった。糞ッ、てめえを殺したらてめえのその腹に突っ込んでやる!