血汐いざなう闇夜之藤 人魂を攫う桜の季節は過ぎて、藤の頃、川の流れ滔々と、今やそれを騒がす具足の音も絶えて、戦の終わりの虚しさが本丸を覆っていた。 刀である。刃である。斬らぬということがない。既にあった戦である。人の死なぬということがない。主恋いしと亡霊どもが肩入れしたとて、戦えば、どちらかが負ける。どちらかが死ぬ。血の匂いに酔うのが右手から左手へ変わっただけのこと。今宵もまた、墨俣川の広き水面に流るるが敗戦の旗を白から緋へと望む亡霊の湧き出ること、泥から次々頭を出す葦のようだ。尽きせぬ。今宵また、斬って刺し貫き増やした屍の数は多かれど、明日また陽が昇れば、第二陣の出番であろう。それまでに癒えるだろうか、と蜻蛉切は僅かに首を垂れた。 濡れ縁に腰を据え、じっと、もう一刻も動かない。手当を待つではなかった。深更であるにも関わらず、本丸に残る皆もよく働いてくれた。真っ先に手当を受けた身であった。忙しさが失せ、静けさに身を浸す一刻であった。 傷を負わぬが自慢の身体である。それが血を見た。成る程、そういう身体なのだと知る。刃のみにあらず、柄のみにあらず。血の通う肉体でもって己が身を操っているのだ。故、昂揚する。血の熱の欲するままに戦場を駆けるのは快である。皆、それを知る。同田貫正国を見ろ。折れず、曲がらず、たとえ折れようともその顎で敵を食い破るだろう。流血の痛みとて、快。 快であるか、と包帯の巻かれた胸を見た。帰参早々、破れた着物は粟田口どもが持って行ってしまった。深い傷ではない。しかし熱がある。脈打つ。刃の己に鼓動する臓があるのだ、と蜻蛉切は傷に手を当てた。感じるのは熱。そして滲み出でる血。息を吐く。見下ろすと袴の裾が裂けている。繕いを頼めるだろうか。 いつまでもあの熱に身を任せていたいような、五体揃って帰ることができたのにほっと喜ぶような。相反する思いではあるが、確かに存在した。息をつけば心からの安堵。しかし虚しさが熱を求める。篝火の照らすのが藤では物足りぬと腕は疼く。武功を立ててこそ本懐。しかしこのように好戦的な己であったろうか。 風が吹く。夜風もまた妖しい。華やかな香りを纏う風である。蜻蛉切は顔を上げた。闇の天から差し招く白い手がある。 「藤か」 目の前に、白い手がだらりとぶら下がった 「俺だ」 掌はひらひらと顔の前を舞う。 「どうした蜻蛉切。呆けて。身体を冷やすぞ。寝ないか」 張り手で打ち据えるような歯切れのいい言葉である。 「薬研殿」 「何だその声は。まるで弱気な」 上から逆さまに覗き込んだ面の白いこと。薬研藤四郎である。黒髪が流れ、さらさらと音を立てる。胸に包帯を巻いたのは、この短刀であった。名の薬研は薬研通のこと。石さえ貫く切れ味を言う。しかし主の腹を切ることはないとの伝説もあってか、この薬研藤四郎は戦に通じ、同時に医にも通じる。白い手は背後からトントンと包帯の上を叩いた。 「傷一つで弱気になったか。あんたの前の主人でもあるまい。切り傷一つで末期の予兆なら、俺なんか何度死んだか分からねぇよ」 「分かっておる」 「じゃあ寝ることだ」 「それが一向に…。目が冴えてな」 「気が鎮まらねぇのか」 「藤の…せいだろう」 真昼の藤であれば薫風と呼んだだろう。今宵の藤が呼ぶのは妖風である。吹かれる身体のの息一つ、脈の一つが妖しい。 「俺のせいか」 薬研は笑った。 「……かもしれん」 蜻蛉切も苦笑した。 「雅は分からん。花が咲いているから綺麗だ。俺はそう思うだけだ。あんたは何を見ている」 「貴殿の手のような」 「俺の手」 「闇から誘うのだ」 「その闇とやらはぬくいだろう」 白衣を脱いだ薬研は、裸の肩にそれをかけた。肩幅は倍も違おうかという二人だが、付喪神の召し物に人の縮尺は通じない。白衣はふわりと蜻蛉切の肩を覆った。薬研は隣に腰かけ、夜が明けたらまた出陣だとよ、と暗い空を見上げた。 「今夜と布陣はあまり変わらねぇが、小夜は休みだ。こっぴどくやられたからな」 「小夜殿が。代わりは」 「俺っちと言いたいところだが、広い戦場じゃあ不足する。新入りの初陣だと」 「石切丸殿か。無茶な。大太刀ではあるが、まだ目が覚めたばかりだろう。まして…」 「戦慣れしてる御仁でもなさそうなんだがなあ。…と思って慢心してるとお株を奪われるぜ。試しに同田貫の旦那が手合せしたが、なかなかやる」 しっかし、とそこで薬研は笑った。 「足が遅いのが玉に瑕だ」 あまりに楽しそうにからからと笑うものだから思わずつられた。しかし膚の下ではもう血がそぞめいている。夜が明ければまた戦だ。 「さあ、寝床まで連れてってやろうか。いや待てよ。あんた、何だ、その袴は。前田も乱も気づかなかったのか。おい、蜻蛉切、脱ぎな」 「…どうした」 「袴だ。さっさと脱がねぇか」 「いや、しかし」 「そんな草臥れた袴じゃ武功も立てられねぇよ。討ち死にした日にゃ物笑いの種だぜ。俺だって繕いの一つもできる」 脱ぎな、と有無を言わせぬ薬研の言葉だった。 元より繕いは頼むつもりだったが、ここで脱がされるのは慮外であった。男所帯であれば恥ずかしがることはない。まして夜も更け藤さえ眠る。それであるのに妙な気恥しさだった。 しかし潔いのが蜻蛉切である。脱いだ。だが今度は薬研がすぐには受け取らない。サスペンダーの金具をパチリパチリと外し、自らもズボンを脱ぐ。 「貴殿まで脱ぐことはなかろう…」 「身体が冷えると言っただろ。腹を守りな。しっかり力入れる場所だぜ」 「貴殿の腹は?」 「前線に出るようだったら貸しゃしない」 付喪神の召し物とて、流石に窮屈であった。腹は守ったが、太腿は丸々と剥き出しである。だが薬研の言う通りである。先まで薬研の履いていたものであるから、ぬくもってもおる。 「これだけ足が剥き出しでは…、不安にならぬか」 さっそく針と糸でもって袴を繕う薬研に話しかける。薬研は手元を篝火に翳し、答える。 「怪我をするのも仕事のうちさ。それに身軽でいいぜ。お蔭で走るのも速い」 更けるごとに地の底の冷気が滲み出す。縁の下にひやりとした風。白衣もまた袖を通せば窮屈かと見えたが、思いの外そうではなかった。着物よりは腕周りが詰まって感ずるものの、全体優しく覆う衣の白は清浄で心地よい。 繕いも神の御業である。立ち上がり、どうだい、と掲げれば夜風に揺れる袴のしゃんとしたこと。 「俺っちが試しに穿いてやろう」 薬研は嬉しそうに袴に足を通した。しかし蜻蛉切には合わせて見せた付喪神の召し物が、薬研を相手に縮まることをしない。踏んづけちまうぞ、と言うので腰板のところで少し折ってやり丈を合わせた。 「そうだ。藤だ」 思い出したように言う。草摺を付け藤色の紐でしっかり結わえば、上は洋装ながら様にならぬこともない。これは薬研の堂々たる様によるものだと蜻蛉切は感心した。体躯の大小の前に、まず負けぬ器を持っている。 「やるか」 薬研、にやりと笑った。 「これでか」 「気が鎮まらんのだろう」 「いや、すっかり…」 「遠慮をするな」 カラカラ笑ったが、冗談でおさめた。丑三つ時なれば。夜明けとともに戦なれば。 だが、しんと言い放つ。 「俺とて出たい」 この頃は畑ばかりだ。それとて楽しくない訳ではない。面白味はある。だが。 刀であれば。刃であればこそ。 袴の足捌きが随分久しぶりで心地よいと言う。薬研は先に立って歩き出した。歩きながら言った。英気を養え。腹に力を溜めろよ蜻蛉切。明けたら着物も届けさせる。これで万が一に討たれても、この具足、この身なり、立派な武者だったと敵も褒めるぜ。だがその前に討取ってこい。 「無論」 「誓えよ。でなけりゃ袴は返さねぇぜ」 「誓うとも」 首級を上げ、武功を立てよう。そして今宵のように、必ず五体を揃えて城へ戻ろう。 着物を裂かれようとて。 血を流そうとて。 戸板に、襖に遮られ、華やかな香りは消え、闇に浮かぶのは白い手である。 眠れと誘う。 「藤か」 「俺だよ」 薬研が笑った。 2015.5.12 アサイさんのリクエスト。 |