夜桜咎之夜伽


 戦の匂い。正しくは前夜の匂いであろう。忙しなく震える人草の心が空気も震わす。地にも伝わる。蟲どものそぞめきにあてられて、眠っていた怨霊までも目を覚ました。死んだ主を想えば報いたい、恨みを思えば晴らしたい。湧いて出ては海原の波のごと、引きも切らぬ刃の群れ。押し返し、へし折り、叩き割り、剣戟の止んだのはようやく松明も潰える頃であった。
 刀にも神が宿る。ましてあれだけ動いてはものを話す人間どものことであれば魂を宿していよう。越し方も行く末も知らず、刹那を飛んで跳ねる様はまるで絡繰り人形、天から糸でも引いてあるのではとも思われる。身体は脆く、命は儚い。だが刃みな、その脆い肉の手より生まれ、鍛われ、用いられた者ばかりである。神代なれば零れし血より、また蛇の尾よりも生まれこようが、時を渡る旅にあっても生憎お目にかからない。故に、ヒトとは。
 深更の闇である。だが、それでもまだ都の至るところにざわめきがある。具足の鳴る音がする。目を瞑ればその口、その手も見えるようである。人草の念がここまで漂ってくる。応仁の乱。京の都を焼き尽くした十年にわたる戦いである。その始まりの夜である。澱みは濃い。石切丸、病を断ち、穢れを祓い、清むる刀である。人の心の蠢く様、蟲が騒ぎ地に染みた怨念の這いずる様をありあり感じた。眠りなど、訪れようもない。
 目蓋を開く。闇は衝立の影に一層濃い。この影は己の手で祓った、謂わば結界の内側である。それなのに首筋を冷たい汗が伝うた。まるで人の身体、と掌で拭う。
 止まぬ剣戟の向こう、怪しい稲光を見た。都の上に青白く落ちたきざはしの、周囲に踊った緑青の鬼火。新手が来るやと構えたが、見えたのはそれぎりである。怪しやな。そう思いつつ誰にも口を閉ざしたのは、雷光の軌跡に馴染みを見たからであった。太刀筋だ。大太刀の一閃。怪しやな、あれは私の太刀筋ではないか。
 椿寺、これが一度の戦ではない。鎮めては湧く、直しては破られる。怨念を抱いた刀剣どもの現れるたび、再びこの地、この時に廻らざるを得ない。幾度となく繰り返される戦いの中で、怪しの雷を見たのはこれが初めてであった。
 不吉、であろうか。
 石切丸は胸に問う。答えはない。だがぞめきもせずしんと穏やかであることが、妙に腑に落ちた。怨念纏いし刀剣を操るも人の勝手、だが己らを時を越えて送り出すのもはやり人の勝手である。だが人草どもがどう騒ごうとて、人草に過ぎぬ。神にとって世はあるばかりである。
 しかしあてられた。人の形をしているせいであろう。同田貫の熱が恋しい。あれは今宵の戦いでも手酷くやられた。もとより己が身を護ろうなど考えていないから、刃が向かってくれば向かってくるだけ同田貫も死地へ斬り込んでゆく。これはもう性分だろう。致し方ない。今は手入れにかかっているはずである。血塗れた横顔が松明の火に赤々と照らされるのを思い出せば、目元に熱が蘇った。どうも、いけない。
 衝立の影から出る。宵の色が変わっている。遅い月が出た。痩せゆく月が東の空に浮かんだ気配である。果たして障子の向こうには春の庭がさやさやと夜風に吹かれている。淡い花弁が目の前を掠めた。
 流水の脇に花が列なして植わっている。花と言えば桜である。奥に掛けられた丹塗りの橋を覆うのは見事な枝垂桜である。はらはらと、散った花弁が水面を浮遊する。が、目の前に花弁を運んだのはほど近い古木であった。大きな樹である。幹の周りは体躯のいい薙刀や槍が出ても抱いて手が届かない。花の咲き始めた頃、粟田口どもがこぞって取り囲み、三人、四人、五人でようやく手が届いた。それほど大きな樹であった。根本には隠れ鬼をするに便利な洞が口を開けている。その古木の脇に、影がある。
 宗三左文字が洞の前に佇んでいる。手を翳し、首を傾け天を仰いでいる。歴代の天下人が欲した刀である。刀身、拵、さることながら人の形を得て更に優美である。
「今宵は花の下臥して、かな」
 声をかけると静かに振り向く。
「…石切丸」
「月が出たね」
 宗三左文字はまた手を翳し、指の隙間から弓張のやや欠けたのを眺め目を細める。
 それ、その手だ、と石切丸は言った。
「舞いを舞うているのかと」
「僕が白髪の老人に見えましたか」
「おや、御存知か」
「西行桜でしょう」
「いかにも」
「あなたが懇意の、あのたぬきと一緒にされては困ります」
「いや、あれで学のある男だよ」
 不思議や朽ちたる花の空木より、白髪の老人現れて…。石切丸が謡うと、宗三左文字は翳した掌を舞わせた。撫でる手、返す手、そればかりであったが、花が誘われる。月下に降りしきる。
 西行桜は世阿弥の作なる能である。庵室の桜を眺める西行の夢に桜の精が現れ、舞う。精は白髪の老人である。だが老人になぞらえられた宗三左文字、思いの外機嫌を損ねるでなかった。寧ろ言葉を返す。戦の後で高ぶった気が鎮まらぬか。美しい刀である。美しいと言われ、愛でられてきた刀である。しかし当の宗三は戦場に出ることこそを望んでいる気配がないでない。
 宗三の纏う袈裟といい、花の下に手を翳す姿の舞いのように見えることといい、その姿は石切丸に古い記憶を呼び起こした。戦場に出るが常となったこの頃では一層遠くなったと思える光景であった。舞台に鼓の音の響くは、薄曇りの空一面朱に染まる春の夕であった。西行桜。老桜の精は目の前の若い男の姿と滲むように重なった。西行は花見客の帰った暮れ、一人桜を愛でて歌う。
「花見んと群れつつ人の来るのみぞ、あたら桜の咎にはありける」
 振り向く宗三の面に憂いの影が差した。
「さて桜の咎は何やらん」
 そばめられ睨めつける眸の色の、左右で違うとはその時気づいた。
 西行は人々を惹きつける美しさを桜の罪と詠む。桜の精は西行に桜の咎とは何ぞやと問うため、姿を現す。桜に咎はない。桜はただ咲くだけのもの。では刀は。人を斬るだけのもの。では人を斬らぬ刀は。
「花に浮世の咎はあらじ」
 石切丸、己が身を抜く。大太刀はすらりと月の光さえ切る。
 宗三左文字。構える。が、抜かない。
 白刃を上段から大きく振り下ろす。容赦はない。だが殺気ではない。無心である。
 伏せがちの目蓋が持ち上がり、それを見つめるのも具に見えた。鯉口が切られ、柄を握り締める手。腕が持ち上がる。袖に隠れた面が水面のごとく揺蕩い、微笑を得た。
 鞘から流れる一閃。
 剣戟。
 が、玻璃の音か。
 石切丸の太刀、ぴたりと止められた。刹那、風が巻き、敷き散らした花がいっせいに舞い上がる。降りしきるのと舞い上がるのと、入り乱れて舞を舞う。洞が鳴る。
「…本気ではありませんでしたね」
 風の止んだ中、桜も降るのを止めた樹下に、宗三の能面のごとき表情。花の微笑は薄く差す翳りに含まれるばかりである。石切丸は太刀を引いた。宗三もまた光を鞘へ納めた。
 花を背にし、庭の流水の月に漣立つのを観じながら寝所まで。歩はゆっくりと。弟が寝付かないのだと宗三は言った。真っ先に手当をされて、戻ってはきたが戦の火が燻っている。だが、廻り廊下を寝所の前まで来て、石切丸は足先の鈍る宗三の背にそっと手を触れさせた。
「心配はないようだ」
 耳を澄ませてごらんなさいと囁くと、澄ます前から聞こえてくるものに宗三の眉が寄る。
「あなた昵懇のたぬきは実に品がよろしいことです」
「いや、気持ちのいい男ですよ」
 鼾をかいてはいるが、戦の後の膚は鋭敏だ。騒げば起きる。そっと障子を開けると静かに差した月明かりに同田貫正国が鼾をかいて見事大の字だ。右手がしっかりと股間のものを掴んでる。その傍らに、痩せた身体を丸めた小夜左文字が鼾に負けず眠りを貪っている。その手も股間をぎゅっと握りしめていて、宗三は複雑な顔である。それもだが石切丸には、奥で丸太のごとく不動の眠りを得ている太郎太刀がおかしかった。
 地の下のそぞめきも、轟く鼾になりをひそめる。夜明けまでいかばかりか、うたた寝しようと、しかし寝所は鼾が犇めいて狭すぎる。廻り廊下の縁の上、身体を横たえ息をつけば首をそっと持ち上げられた。花の褥とまごうよな膝を枕にしばし安らぐ。
「あら名残惜の夜遊やな」
 石切丸が謡えば、春宵一刻値千金、と宗三が小声で後を続ける。
「花の影より明け初めて、別こそあれ、別こそあれ」
「待てしばし、待てしばし、夜はまだ深きぞ」
 目蓋を閉じると洗い清められた掌が頭を撫でる。一撫で一撫で心が澄む。目蓋の裏に流水、落花。古木の花が夜に開けば、枝垂桜は水面に落ちる。空には。
 一瞬閃いた青白い雷光を同田貫の鼾がかき消した。




2015.4.12 すにさんのリクエスト。