古戦場神御合


 石垣に松の蔭が落ちる。月夜である。波音だけが響く。後は静かだ。風もない。
 石垣は防塁である。松の植わるこの浜、半里をも超えて築かれた防塁である。砂の上には無数の足跡、蹄の跡が残っていた。鉄の燃える匂いもあった。人の肉の燃え尽きる匂いも日暮れまでは漂っていた。満ちた潮が全て洗い流し、今は静かな博多湾であった。
 人の背丈よりも高い、積まれ、粘土で補強された頑丈な石垣の上に男の影がある。暗闇に踞るようにして座り、波の向こうに視線を据えている。双眸は炯々たる金だ。この世ならざる者である。彼の息は深く、低い。戦場の匂いを胸の奥まで吸い、留めようとしている。剣戟を、肉切り裂く音を、骨断つ音を。断末魔も、それ踏み越えて駆け抜ける返り血に濡れた熱も何もかも。己が生まれたよりも遠い昔の地にあって、吸い込もうとしている。
 月影が揺れた。波がいっそう穏やかになった。海さえ声を鎮めたかに思えた。男の耳は浜を踏む足音を聞いていた。とうに気づいてはいたが敢えて無視をしていた。ようやく視線を下ろすと、烏帽子を被った長身の男である。新参者である。同田貫は息を吐いた。
「今宵は息が通るね。不浄の気もようやく祓われたようだ」
 烏帽子の男は言った。石切丸、である。そう名乗った。知らぬ名ではない。石を斬ったという逸話は遠く昔話のように聞いていた。その刀が目の前にいる。
 何も不思議なことではない、と分かってはいる。審神者の能力により現出させられた己が同田貫正国という刀の付喪神なのである。刀としての記憶もある。神というほどの存在であったつもりもないが、人間どもを見下ろすようにして長い時を過ごした記憶もある。今はそれがこの肉体という形を持って結晶している。部隊には己より若い時代の刀もいる。伝説や噂のような刀剣とも顔をあわせている。そして、時を越えて戦っている。怨霊じみた刀剣ども。あれらもお仲間である。ここで、石を斬ったと逸話を残す刀とばかり出会わぬという道理はない。
 返事をせず、そっぽを向いた。しかし目に入るものはない。松の蔭に防塁の内側は暗い。
「同田貫正国、傷の具合は如何かな」
 名を呼ばれたので一応振り向いた。神官然とした男は微笑でもない、穏やかでもない、静かな表情を湛えている。
「こんなん唾つけときゃ治る」
「唾、ねえ」
 石切丸は同田貫の足元で立ち止まり、海を見た。唇に指を当てる。
「ふぅん。唾だ」
 確かに唾だ、と吸った指を離した。
「治癒の祈祷をして進ぜようと思ったが、必要ないかい」
「いらねぇよ、んなもん」
「結構なことだ。質実剛健。噂通りの御仁だな」
「あんた、俺を知ってんのか」
「おや、そうきたかい。天覧兜割りはそれはそれは評判だった。同田貫の名はそれで日ノ本全国津々浦々まで広まったのじゃあないか」
「俺もあんたを知ってるぜ」
「腫れ物治しの石切さんかい?」
「石を斬った大太刀だ」
「ふむ」
 視線はやんわりと、しかし確かに同田貫を捉えた。
「そうかい」
「昔話みたいなもんだけどな」
 昔話か、と石切丸は軽い笑いを漏らし視線は再び海を向いた。
「傷に唾をつけて海風に晒していたのかい?」
「因幡の白兎じゃあるめえし」
「おや、古事記を知っているのか」
「舐めんな」
「いやいや悪い。私と違って戦の経験が多いようだから。こう、イメェジと言うのかな、印象がね」
「頭悪そうってか」
「そうではない。文と武、君の主であった加藤清正公や細川殿の噂を思い出したばかりだ」
 主の名に同田貫は口を開きかけたが、言葉は漏れなかった。人の手に取られ勝ち抜いてきた戦場の記憶であるのに、ひどく古く、遠いものに感じられた。いつから自分は仕舞われ、愛でられ、見世物にされるようになったのか。
 また波音。会話が途切れれば、浜はすぐにも悠久の寂寞の内に落ちる。繰り返し打ち寄せる波と、傾く月影と、真に暗い松の蔭と、動かぬ石垣。そればかりである。
「君は若いのだったね。いや、怒らせるつもりがない。こちらが歳を取っているばかりのことだ」
 石切丸は先んじて断り、目蓋を軽く伏せた。
「私は海と言っても瀬戸内の海の話を聞くばかりだから。君の故郷はここから随分近いのだったな」
「肥後の海もこんなんじゃねぇよ」
「そうだね。この海の向こうには異国がある。知ってはいたが不思議なものだ」
 次の沈黙は波音を聞くためのものだった。瀬戸内の明るく暖かな海を、同田貫も見たことがあるような気がする。だが慣れ親しむは肥後の、有明の海である。銀色に輝く干潟の広がる海である。波音は、異質であった。己の知るどの海より激しく冷たく感じられた。戦場となった海。源平の戦いの華やかさ、美しさとは違う、鉄と火の匂いが漂う。それさえ冷たい波が浚う。
 また石切丸から口を開いた。
「この海を見るのは初めてだが、この戦を知らないでもない。君はどうですか。己が生まれるより昔の空気を吸うというのは」
「変わりゃしねぇさ。戦場の匂いってのは」
 ざあん、と音を立てて波が打ち寄せた。冷たい音だ。荒々しい。戦の最中、何度か雨が降った。あの時、腹の底に響いた音が蘇る。海が唸る。波が身もだえる。断末魔が渦を巻き、それを一太刀の下に斬り捨てる。
 乾いた傷が引き攣れた。本当に唾をつけたばかりだった。同田貫が指を舐めながら、見上げる視線を感じた。
「海塩を浴みて風に当たり伏してよと教えのりては清正公や」
「馬鹿言うんじゃねぇ」
「来なさい」
 手を差し出すなどの仕草はない。ただ、石切丸は言った。
「あんたが来ねぇのか」
「登れないのだよ」
「そんな訳あるか」
「神社にいる時はなあ、一蹴りでふわりとね、浮いたものだが」
 この身体は重い、と言う顔は自嘲もせず照れもせず、やはり静かである。結局、同田貫正国は石垣の上から手を伸ばした。
「ほらよ」
 冷たい手がそれを掴んだ。清らかとかこういうことか、と同田貫は腹の底で思った。
 松の蔭である。土は雨と露の匂いを含み、緑と樹皮の香りが同田貫を包み込んだ。石切丸は衣装が汚れるとも思っていないらしい、落ちた松葉の上に膝をつき同田貫に両手を伸ばす。
「大己貴神教えのりしく、今疾くこの水門に往きて水以て汝が身を洗い、即ちその水門の蒲の花を取りて敷き散らして、その上にこい転べば汝が身本の膚のごと必ずいえなむ、とね」
 傷は頬にある。腕にもある。先までの科白が古事記の一節、因幡の白兎であるとは同田貫も分かったが、その後はむにゃむにゃと聞いても聞こえぬような言葉ばかりでなるほど神主の祓い給え清め給えである。
「こんな呪文で効くのかよ」
「呪も言祝ぎも、本の力は同じこと。我々はその力を持ってこの世にいるんじゃあないか」
「へぇ…」
「呆れた溜息をつくでないよ。ここで私の業を馬鹿にするのは己の存在を蔑ろにするのと同じ事」
 君には見えないかい、と石切丸は言う。同田貫の目には傷は傷のままである。ひんやりとした手が喉に触れた。
「随分深くまで吸い込んだ」
 がらがらと鉄の焼ける匂いの残る喉を手はしっとりと這う。
「戦場が恋しいか。故郷が恋しいか。己の生まれた時代がそんなに恋しいかい、同田貫正国殿」
 喉の奥まで刺されたようで言葉を返すことができなかった。
「どこにいても同じことだ。君の生まれた時代の砂はこの時代の砂に積もり、君を濡らした血も雨も、この時代の海の水であったろうし松の露であったろうし小野小町の小水でもあったろうからね」
 最後の言葉があまりにも意外で吹き出すと、お祓いの最中だ真面目な話だと怒り出すかと思いきや、石切丸の表情は静かである。
 否、見えない。
 松の蔭、闇に溶けたか。姿が見えない。目の光を失ったかと同田貫の腹に冷たいものが流れ込んだ。いいや…、積まれた石が見える。浜が見える。月影を反射させる波が見える。
 見えるかね。見えないかね。
 と。
 囁きばかりが耳を掠めた。次に唇が首筋を掠めたと思った。ひやりとした吐息を感じた。傷の上を水のように濡れた指がなぞった。だが、見えない。指を吸う音。唾液に濡れる音がする。だが、見えない。頬の傷を濡れた指がなぞる。それから唇が。おい…、と掠れた声を発し同田貫は目を泳がせた。
「人に使われた刀。人を斬った刀。だからこそだろう。まるで人のようだ、君は」
「あんた、いるのか。俺の目の前に」
 石切丸の返事はない。
「本来であれば君もこの松をぐるりと回って私を見つけ、あなにやしえをとこを、と言うべきだが神産みではないのでね。欠けた部分だけ蘇ってくれればよいから…」
「何の話だ…?」
「古事記は読んだのだろう?」
「俺は伊邪那美じゃねぇ…」
「ははは。よく分かっている」
 その時、笑った顔が目の前に見えたような気がした。同田貫は手を伸ばして幻ともつかぬその首を引き寄せ唇に噛みついた。乱暴な、という囁きが唇を濡らした。
 触れるひんやりとした身体。甲冑がほどけ松葉の間に沈む。裸の胸の奥から焼けて焦がす戦場の熱が冷たい身体に抱き留められる。
「偉そうに…。この時代から知ってるからって偉そうによ…」
 ひんやりとした身体を抱いたようでもある。ひんやりとした身体に背中から抱きしめられたようでもある。両手に掴んだはずの首も笑みも見えず、時々傷の上を、熱の冷めぬ膚の上を白い掌や唾液に濡れた唇が這った。
「変なことすんじゃねぇ」
 変なことではないさ、と唇は肩甲骨に触れる。
「顔を見せやがれ」
「人のように、かい?」
 同田貫は息をつく。白い裸体を抱いている。剥がれた着物が松の枝に揺れている。転がり落ちただろう烏帽子は落葉の暗闇に交じって見えない。腕の下にあるのは重みのある、ひんやりとした身体である。胸が息づく。広げた脚の間に自分を迎えている。同田貫は何も考えぬまま猛ったものをその場所に押し込む。石切丸は、痛苦が一切ないというわけではないようだ、重たいと言った己の身体に感想を漏らした。
「成り成りて成り余れる処一所ありとは思っていたが、そうかこの身体にも成り成りて成り合わざる処一所ありや」
 口があるのだものな。出口もあるよね、と呟いて乱暴に揺さぶりにかかる同田貫の背を両手で宥める。
「恐ろしいのかい」
「何がだ」
「戦がだよ」
「戦わなきゃ、意味ねえだろ。斬って、なんぼだろ」
 刀なんだからよ…、と呟き同田貫の目がようやく石切丸を見た。炯々たる双眸がようやく抱いた身体を見た。荒い息が落ちる。波音に合わせるようにひんやりとした掌が腰を撫でる。同田貫はもう一度深く己の身体を沈めた。重なり合った身体の、膚を越えて気が行き交うのを感じた。
「このままでは国が産まれてしまうかもしれないな」
 濡れた唇が耳元に囁く。
「冗談か?」
「産まれて、この石垣を守り、君の世まで、先の御代まで、日ノ本を守るに違いない」
 遠慮はするな、受けとめよう、と足が絡みつく。同田貫は強く石切丸を揺すぶる。だが責めではない。交わりである。石切丸の声が波に溶け、地に、浜に染みた。命の滴をあまさず受けとめ、もしや産まれたものの声のようでもあった。
 しばらく清らかな身体を抱き締めたまま同田貫はじっとしていた。腕の中の身体は確かに鼓動し、汗さえ滲ませている。滲んだ汗が触れ合った膚の間でひやりと溶ける。石切丸の指が何度も頬を撫でた。上手くいったようだ、と満足げな囁きが耳を撫でた。同田貫は顔を押し付け、少し黙れ、と呟いた。手は戦場の風に乱されるままの髪を撫でた。溜め息が重なり合うように落ち、同田貫はようやく石切丸の中から退いた。
 月が随分傾き、松の向こうに隠れる。濃紺の空を冴え冴えと照らすのは星明りである。水面は闇を呑んで微睡みの体であった。同田貫は防塁を飛び降りて浜に下り海の中にざぶざぶと身体を沈めた。傷はもう痕もない。しみもしない。石垣の上に佇んでそれを見るのは石切丸である。
「あんたも来ねぇか」
 当然のようにかける声が些かに気安い。それを聞き取って是とせぬか、それともぶっきら棒な同田貫の声音を聞き分けもしなかったか、素っ気ない返事。
「大己貴神の兄神のようなことを言うね。本丸へ戻って真水を浴びるとするよ」
 成り合わざる所ではあったが成り余れる一処を収めるための所ではなかったはずである。互いに神であるが、交わったは結晶した肉体である。傷をつけたか。同田貫はちっとも気にしていなかった。もしも裂けていたならば、海塩は余程染みるだろう。酷である。
 故の素っ気なさか。踵を返そうとするのに「待て…!」と大声を投げかけた。石切丸は足を止めた。切れ長の瞳が同田貫を見た。清らかとは、己を、今までその肉体を抱いた己さえもまるで突き放して見る。身体を浸す海の冷たさでなく、冷たい真水が流れ込んで喉まで圧したようだ。そもそも刀だ。人を斬るための刀だ。言葉など必要としない。殺してなんぼ、血濡れてなんぼ。恨まれ、へし折られこそすれ、感謝されたことはない。したこともない。だから、何と言えばよいかなど、知らぬ。
 同田貫はざばざばと波を立てて浜に戻り、両手、両膝をつき、頭を下げた。どすんと掌が、額が砂にめり込む音を心地よく思った。波が足元を浚った。砂の崩れる儚い音がした。松の蔭は静まり返っている。
 星明りは白い面をぼうと照らした。静かな表情が、唇が綻ぶのに合わせて微かに笑む。
「…あなにやし、えをとこを」
 一言残し、松蔭に長身の影は消える。だが同田貫は顔を上げない。松葉を踏む足音が遠ざかる。それをじっと聞いている。足音が消えて、ようやく仰向けに寝転んだ。眼前には深い夜空が広がる。星の小さな瞬きは疲れ切った肉体には心地よかった。同田貫は炯炯たる眸を細めた。背を抱く砂は冷たいが底に熱が残る。戦火か、地の熱だろうか。ここで何本もの刀が折られ、砕かれ、消えていった。断末魔の叫びは呼吸の音と同じこと。消えることはあるまいが、今は浜を撫でる波音に穏やかに鎮められ、全て低い唸りである。地の唸り、海の唸り、ゆっくりと巡る天の唸り。そして結晶したこの肉体に流れる血の唸りが一つの重たい振動になる。いびきのようだ。いびきをかいて寝たい。
 同田貫は先まで猛っていたものを自分で掴んだ。ちょっとだけ笑い、夜明けの少し前まで、そのまま眠った。




2015.2.20 すにさんのリクエスト。