LOST CHILD part.1



 ラジオが小さな音でかかっている。誰がつけたのか分からない。さっきまで部屋にいた
のはピカリだけど、本当にピカリだろうか。どうしてピカリがラジオをつけて出て行くん
だろう。もしかしたら、ピカリが部屋に来る前から、ついていたのかもしれない。自分が
つけて忘れてしまったのかもしれなかった。
 北欧の痩せっぽちの女の子が歌う細い歌に耳を傾けていると、その後ろで聞き覚えのあ
る弦楽が流れているのに気づく。モジャはぱちりと瞼を開いた。
 ラジオなど鳴ってはいなかった。枕に顔を押し付けたままで、息が苦しかった。寝返り
を打つと「起こした?」とピカリが小さな声で聞いた。シャツを着て、身支度を整えてい
る途中だった。
 朝だ。北欧の痩せっぽちの女の子の歌う歌が流れ出すのは、もっと陽が高く昇ってから
だ。街の端からようやく光に照らされ始めた朝には流れない。
 ピカリはネクタイを締め、パソコンや書類の入った鞄を持つと、モジャの枕元に寄った。
それから、ちょっと笑って
「もう少し寝てればいいのに」
 と言った。
 モジャは目を瞑った。ピカリの気持ちが分かった。ピカリが逡巡しても、静かに瞼を閉
じて待った。やがて、閉じた瞼の上に軽いキスが降って、行ってくるよ、とピカリは言っ
た。モジャはようやく瞼を開けて、行ってらっしゃい、とちょっと照れたピカリに向かっ
て言った。
 玄関の扉が閉まる。扉の向こうで足音が遠ざかる。モジャは重い身体を起こし、窓辺に
寄った。少ししてアパルトマンから出てゆくピカリの姿が見えた。後姿はどんどん坂を下
り、バス停へと急ぐ。
 モジャは小さな溜息をついた。窓から見下ろす朝のピカリの後姿はいつもいつも、こん
なのは違う、こんなことをしたい訳じゃないと、怒ったり、悔やんだり、もがいたりして
いるようだった。いつも、そうだった。一歩ごとに甘い時間を毒に変え、優しさが悲しみ
に変わるようだった。
 掌でそっと瞼を覆う。この優しさも、このあたたかさも偽りのないものと知っている。
ピカリ本人よりも、疑いなくそれは真実であるとモジャは知っていたし、信じ得る。ピカ
リは懐疑を捨てきれない。自分がモジャを不幸にすることを、彼は心底恐れているのだ。
それ以上に愛しているのだと夜は信じられる。信じて抱く。が、朝の光の中ではその思い
も項垂れてしまう。
 間違いなんかじゃないよ。
 モジャは心の中で言った。しかし口に出して言うことは出来なかった。
 間違いなんかじゃないんだ、ピカリ。
 ピカリの悲しみがひたひたと伝染して、モジャも掌で瞼を覆ったまま泣いた。




LOST CHILD part.2



 人生が二度あれば。
 ラジオは歌った。カフェに客は少なかった。街明かりも消える刻限だった。
 人生が二度あれば。
 二度あれば何をしよう。しかしこれをやりたいという欲望は頭をもたげなかった。これ
といった希望も、使命もなかった。結局今の自分のまま生まれるほかない、と思う。
 ピカリは両手で顔を覆っていた。ズーがいなくなって何ヶ月も経つことを知らなかった、
ということをモジャに知られてしまったのだ。それは同時に、自分が三年前モジャの不
在にどれだけ気づいたか、ということを相手に知らしめることにもなるのだった。
 あの朝の異変は家族中が知っていた。そして誰も探そうとしなかった。ピカリさえ、そ
の家族の枠から手をはみ出させ、モジャの袖を掴まえることを諦めていた。けれども、家
族の中で知るのは一番遅かったけれども、こんなに何ヶ月も気づかなかった訳じゃない、
とピカリは心の中で思った。
「ズーは研修だから」
 そう悲しそうに微笑んだモジャに、彼は弁解をしなかった。ただ同時に、今どれだけモ
ジャを愛しているかを伝える術も持っておらず、明日早いから、と逃げ出してしまったの
だが。
 もちろん明日は早くなどない。俺はモジャに嘘をついた。ピカリは考える。
 無力だ。かつて無力だった。今も大して変わらない、実のところ。モジャを抱き締め、
モジャにキスをし、モジャと夜を過ごす。息のかかるほど側にいて、固く瞼を閉じた寝顔
を見下ろし、腕の中に包み込む。それだけでは足りない。足りないのか、最初からどれも
これも欠けているのか。モジャを幸福にする術を考えたとき、ピカリは初めてモジャの幸
福について考え、そしてそれが霧の彼方のような、己の目に映らないものだと知ったとき、
身体ばかり大人になった自分を芯から憎く思った。
 ピカリはゆっくりとテーブルの上に身を伏せた。これを見たらズーなら鼻で笑ったろう。
そんなあいつは今、アフリカでサバンナの風に吹かれているのだ。時差は…。
「莫迦ね」
 頭から言葉が降ってきた。呆れ顔のリブが見下ろしていた。




LOST CHILD part.3



 モジャは絨毯の上に裸足で立ち尽くしていた。
 しかし震えてはいなかった。
 テーブルの上にしんと石のように置かれているのは、パパの残していったパパ宛の手紙
と、チケットだった。手紙はぱりりと音のしそうなほど美しく、差出人と、受取人である
パパ以外の誰も触れていないのだろうことが解った。勿論ママは、パパの手紙をくしゃく
しゃになんかしないけれども、でもこの手紙を読んだらどうだろう。
 パパはママに言っていないのだろうか。
 まさか。
 ママは手をひんやりさせてこの手紙に触れたのだろうし、きっと指紋一つ残さないよう
な美しさで手紙を元のまま封筒に仕舞い、パパに返したのだろう。でも、兄弟の中でこの
手紙を読んだのは、きっと自分一人だろうという確信がある。自惚れでなく、恐れのよう
に。かつて、モジャにだけは門限がなかったように。
 そして、かつてモジャだけがパパの部屋に呼ばれた。パパの部屋の扉を開けて出てくる
のは、パパだけではない。誰も見ない、誰もいない屋根の下で、モジャは、何度もパパの
部屋の扉を開け、油彩の匂いに満ちた自分の部屋に帰ったのだった。
 しかしそのモジャもパパに誘われなければ、その扉を開けてパパの部屋に入ることはで
きなかった。
 今、チケットは裸でテーブルの上に乗せられている。今度はパパが手を引いて飛行機に
乗せてくれる訳ではない。だから、そのチケットを手に取るのも、空港に行き、飛行機に
乗り込み、パパの隣の席に座るのも自分の意志なのだろう。
 恐怖は常に他人が与えるものだったし、それとてもう避けようとは思っていなかった。
モジャは怖くなかった訳ではない。厭ではなかった訳ではない。けれども、それは仕方の
ないことだったから。
 しかし、自らの心が与えるこの恐怖はどうだろう。
 ヴェトナム。
 水牛。水田。編みの帽子。
 戦争の記憶。枯葉剤。ベトコン。
 ホーチミン。
 アオザイ。
 パパはそこでビルを建てる。そしてモジャは? パパはビルを建てたら家に帰るだろう。
モジャはどうしよう。パパは…僕を捨てに行くのだろうか。
 それは違うと。やはり自惚れではなく、恐ろしさのように確信した。