あなたのいない世界で part.7



 鼻歌のような、ささやかな音楽が流れていた。モジャはその名前を知っている。ブルー・
ストリング。この単語が脳の表面を掠めると、それは視覚的に、音声的に、そして自覚的
に言葉として精製され、青弦、という日本語になる。行ったことのない国。ユーラシア大
陸の隅、海の上にちょっと頭を出した岩山のような、そんな国らしい。でも時々、本当は
そんな国はないんじゃないかと思う。海と空の狭間に、幻のように揺れていて、そこから
様々な青い色が流れてくる。ウタマロ、ホクサイ、ヒロシゲブルー。青に満ち溢れた夢の
国。
 目に見えない、暗闇のどこかからブルー・ストリングが流れてくる。モジャは飲みすぎ
て起きれない。つっぷした顔の下で、テーブルクロスがくしゃりと歪む。チェロの音は青
い色の洪水になり、モジャを包んで渦となる。そろそろマスターが片を叩いて起こしてく
れるだろう。そうしたら、自分の足で立って帰らなければ。彼は、チェロケースを抱えて
いて、手が塞がっているから。
「モジャ」
 ほら、起きなきゃあ。
「モジャ」
 強く肩を揺すられる。モジャは痺れてしまったかのように思い瞼を持ち上げた。くしゃ
くしゃのシーツが目に映る。肩を掴む気配が、逆光の中覗き込む。
「モジャ、大丈夫か」
 モジャは返事をしようとして、すんでのところで飲み込んだ。
 ピカリだった。
「うなされてた」
 旅装を解いたばかりなのだろう。空港や、タクシーの排気ガスの匂いがする。
「無理に飲んだんじゃないか、あんな酒…」
 ページをぱらぱらと捲るように、モジャの頭に記憶が蘇る。リブだ。夕方から、リブと
飲んでいた。ピザを頼んで。それから別れたばかりの彼氏のことで真っ赤に怒ったリブと、
さっきまで飲んでいたんだ。十時くらいだったはず。
 壁の時計は短針が天頂より少し右側に倒れていた。
 モジャはピカリの顔を見た。逆光で暗いのか、それとも明かりが眩しすぎるのだろうか。
よく見えないので起き上がり、それからまじまじとピカリを見た。
「え…?」
「…おかえり」
「え…ああ」
 ピカリだった。そうか、インドから帰ってきたんだなあ。機内を循環する清潔な空気の
匂い。高い天井に木霊する空港のアナウンス。深夜の国道を切り裂くヘッドライトの気配。
そしてコートとスーツに包まれた下で、ピカリは戸惑ったように、ただいま、と言った。
 ピカリは動けなかった。モジャから抱きつくとは夢にこそ思えど、現実にはそんなこと
をしはしないだろうと思っていたし、自分の腰に手を回したまま、モジャはじっと動かな
かったのだ。
 やがて、細い細い息が長く吐き出され、ピカリは、モジャが眠ってしまったことに気づ
いた。




あなたのいない世界で part.8



 煩雑な、夢を見ていた気がする。音のない世界を色彩ばかりが暴れまわる。それは暴力
というより冒涜的に乱雑な色彩の群れだった。秩序もなく、美意識もなく、原初たる原初、
混沌たる混沌、その極み。夢の中でモジャは目が見えなかった。しかし盲目の彼は色彩の
乱舞を感じ取り、だがそれを表す音も持たず、光も持たず、ただ煩雑たる印象のそれに嬲
られるまま弄ばれ、その中でひたすら、昏々と眠った。
 地球四分の一周の旅路の果てにピカリが帰ってきた。そのほんの七日間の出来事と、酩
酊の向こうに覗いた過去の安らぎ、現実の中でピカリを見つけた混乱と、現実的な安堵、
そして過去への寂しさ。それが盲目の夢の中で見た色彩の全てだった。
 が、目覚めは近かった。煩雑な色彩が一枚、一枚と掌で拭われ、闇が澄んでゆく。掌は
実際にモジャの頬を撫でる手であり、モジャの名を呼ぶ声だった。音楽ではない。音楽な
どでない人間の声。どうしようもなく、それは人間の声だった。
 モジャは薄く瞼を開いた。薄い闇の中に覆いかぶさる気配があった。夜は明けたのか、
間もないのか、カーテンの向こうも暗く沈んでいる。
「モジャ」
 切羽詰った声だった。人の声だとモジャは思った。楽器の音でもない、色彩の与えるイ
デアのような声でもない。地上の、人間の声が、地を這い自分の名を呼ぶ。そして口づけ
にも、モジャは抗わなかった。歯も磨いていないのに、とは思ったけれど。
 肌に触れる手は性急で、シャツのボタンが千切れそうだった。モジャは自分でボタンを
外した。息を飲む音が聞こえた。
「…ピカリ?」
 呼ぶとその手は、強くモジャの頭を抱き締め、そして潰れた声が許しを乞うように「モ
ジャ」と再び繰り返した。それはモジャを目覚めさせるための、あの優しい囁きではなか
った。地に落ち、地の底へ落ちるように、繰り返し繰り返し「モジャ」と名は呼ばれるの
だった。
 モジャは瞼を開いた。薄闇の中にも、ピカリの顔は見えた。泣き顔のように歪んだ顔だ
った。モジャはそれをしっかりと見詰め、手を伸ばした。もう何も思い出さないように、
ピカリにだけ、触れた。ピカリの腕は、強くモジャを抱き締めた。モジャは音楽を忘れて、
ピカリとキスをした。音楽を奏でる人の手の記憶に蓋をし、ピカリの清潔な肌の触りや、
堕落したような呼び声に集中し、それだけを飲み込んだ。そうしなければ、ピカリは何で
自分なんかを欲しがるんだろう、とか、そんな泣きたくなることを考えてしまうし。
 恣意の忘却のつもりが、いつの間にか本当に目の前のピカリ以外見えなくなって、熱を
高まらせようとするピカリの手に委ねるままにされていれば、やがて身体を握り潰される
ような瞬間がやってくる。汗の匂いに包まれた虚ろ。生も死も関係ないような、そんな怠
惰な虚ろに身を任せ、モジャは何も考えずホッとする。
 ピカリが荒い息の合間に名前を呼ぶ。身体をうつ伏せにされ、手が、まだ触れていなか
った場所を撫で回す。背中にキスが降る。モジャは枕に顔を押し付けるようにして窓を見
る。夜が明け始めたのが、カーテンの色が淡い光を孕むので分かった。
 モジャは構わなかった。ピカリの求めるだけ、彼は全てを提供するだけだった。モジャ
は、応えることができなかった。44回のキス。4回のセックス。たった1回のアイラブ
ユーにも。
 昇った日の光をカーテンは優しく塞き止める。裸のままベッドの上に丸くなり、モジャ
は眠る。こんどこそ昏黒の夢の世界に落ちる。深い眠りの底で、何も求めず眠る。




あなたのいない世界で part.9



 たとえば神がいてピカリの懺悔を聞いたならば、お前の悩みは大袈裟なだけ、と言って
突き放すだろう。神にも見放されそうな愚かさを、ピカリは実感していた。モジャはベッ
ドの上、窓に背を向けるようにして身体を丸め、眠っている。部屋の中はいやに蒸し暑か
った。毛布を肩にかけようとして、ピカリはモジャの肩が浅く息をしているのに気づき、
やめた。
 ひどく喉が渇いていた。涙を一滴しぼりだすのにも、爪先から頭まで水分を搾り取らな
ければならないほどだった。モジャの喉は渇いていないのだろうか。そうだ、モジャは目
覚めてすぐピカリの欲望につきあい、そのまま再び眠ってしまったのだ。歯だって磨いて
いなかったんだ、とピカリは今更ながらに気づいた。
 バスルームは一度でも使ったことがあるのかと思うほど、ひどく乾いていた。ピカリは
バスタブに湯をはり、それからモジャが目覚めるのを待った。しかしモジャは目覚めず、
喉の渇きはつのる一方だった。しかたなく、床の上に脱ぎ捨てた服を羽織り、外へ出る。
「おはよう」
 ドアの横にズーが座っていた。
「…おは」
 ピカリは挨拶を返そうとしたが、声は途中で掠れ、消えた。
 ズーは傍らに紙袋を置いていた。サンドイッチとペリエのビンが覗いていた。
「起きた?」
「え…あ…」
 モジャのことだと気づく。
「まだ寝てる」
「そう」
 ズーは立ち上がり、紙袋を抱えて部屋に入ろうとする。ピカリは手を伸ばす。
「…何?」
「ペリエ、1本くれ」
 するとズーは心底呆れたように言った。
「自分で買ってこいよ」

 ピカリが山ほどのペリエを紙袋につめて部屋に戻ると、カーテンが風に揺れ、昼前の明
るい光がゆらゆらと部屋の中に差し込んでいた。ベッド脇にはペリエの空き瓶が転がって
いて、モジャは裸のままベッドの上に横になっていたが、目は開いていた。
「おはよう」
 モジャが言った。
 ピカリも「おはよう」と返した。
「おかえり」
 モジャが言った。
 ピカリはゆっくりと一度うなずいた。泣きそうになったのを悟られないためだった。




あなたのいない世界で part.10



 雪の降る音がモジャには聞こえる。自分の上にのしかかったピカリの荒く乱れた息や、
密着して感じる心臓の鼓動よりも、はっきりと頭の中に色彩を伴って雪の降る音が聞こえ
る。見える、と言った方が正しい表現かもしれない。外は暗いはずなのに、カーテンが僅
かに光に透けているように見える。雪の日は奇妙に明るく、奇妙に暗い。特に夕間暮れや、
夜明け前は。
 これから夜はどんどん更けてゆく。ピカリは泊まっていくのだろうか。夕食を食べたば
かりだが、心持ち小腹のすいた気持ち。あるいはとても喉の渇いた気持ち。熱いコーヒー
より、冷えたアイスと水が欲しい。ストーヴをつけて、そのそばで水を飲む。外には雪が
降る。夜の中をしんしんと白いものが降り続き、モジャは水を身体の中に取り込みながら、
この世の全てから耳を塞ぐようにこの世の全ての音を聞き取るような、そんな瞬間の中に
腰を下ろす。
「…モジャ?」
 訝しげな声でピカリが呼んだ。
「…なに」
 モジャが目を瞑ったまま応えると、ピカリの手が胸や頬やとにかく撫でてまわる。熱い
手だ、とモジャは思う。
「どうしたの、こんなに冷えて…」
 ピカリの腕が抱き締める。モジャは目を開ける。まだモジャはベッドの上で、ピカリの
腕の中だ。水も飲んでいない。ストーヴもついていない。カーテンはほんの少し闇に染ま
って、暗い。
「…冷たい?」
 モジャは尋ねた。
「うん」
 モジャの頬に自分の頬を押し付けたまま、ピカリが答えた。
「吃驚した」
 モジャは目を開ける。ピカリの白い背中を見る。そこにそっと自分の手を伸ばす。自分
の手が、ピカリの肩甲骨の上に乗せられるのを見る。
「ごめん」
 モジャが囁くと、いいよ、とピカリが返した。
 ので、もう一度、今度は声には出さず、ごめん、と誰かに謝った。




あなたのいない世界で part.11



 大体、何であいつら急に仲がいいんだよ。少し苛々しながら、しかし自分が淹れたコー
ヒーをモジャが飲むのは嬉しい。リブが文句言わないで飲むのも、そこそこに気分は悪く
ない。ただ、コーヒーよりもお喋りが楽しそうなのは気に食わない。
 昨夜だって、俺とモジャは二人きりだったのに。この部屋に二人きりで、それどころか
世界中に二人きりでいるような充足感でベッドの上で抱き合っていたのに。
 けれどもピカリも解っている。モジャはイイとは言わなかった。しかし痛いとも言わな
かった。モジャの身体。モジャの腰。モジャの背中。口づけを落とした場所。涙を落とし
た場所。犯した場所。清めた場所。どこもモジャの人生の中で自分独りが独占したもので
はなかったのではないかと。
 そんな疑念を抱くと、背信以上の罪悪感が生まれるほど、ではあるのだが。ピカリはモ
ジャを見た。目の中に穏やかな輝きがある。でも話題は「自殺」だぞ。なんでそんなに楽
しそうなんだよモジャ。リブもどうしてそういう話題を振るんだ。どうしてそれで2時間
も喋っていられるんだ。猥談でもないのに、なんでそんなに盛り上がるんだ。滅亡を目の
前にした恐竜ではあるまいし、どうしてそんなに死ぬ話なんかするんだよ。
 自分が抱き締めれば、モジャは死の恐怖など忘れる。ピカリはそう思っていた。自惚れ
ではないと思っていた。そういう温かさや優しさを与え得ると、ピカリは信じていたから。
 気づくとお喋りが止んでいた。リブとモジャが口を噤んで、なんだか奇妙な無表情でこ
ちらを見ていた。ピカリはどきりとしたのを隠して、コーヒーを手に取る。
「何だよ」
 するとみるみるリブの眉間に皺が寄り
「別に」
 と重低音の返事が返ってくる。
「何だよ」
「何でもないわよ」
 リブはコーヒーを飲み干すと、そろそろ帰らない、と言った。
「俺もか」
「ちょっと、ピカリ。昨日も外泊したでしょ。ママが心配してるの分からないの?」
「別にいいじゃないか、どうせここにいるんだから」
「はあ?」
 しまった、と思ったのはピカリだけではなかった。モジャの顔もみるみるうちに赤く染
まっていった。耳まで赤い。
「まさか、この前の学会の帰り遅かったのも…」
 モジャは両手で顔を蓋い、ピカリは今、自分の顔がどれだけ引き攣っているか分からな
い。そして、はあ?、と今度こそ悲鳴のような声を発したリブの顔も怒りで青ざめるどこ
ろか、みるみる赤くなり、何故だか潤み始めた目でこちらを睨みつけると
「バカじゃないのこの変態サイエンティスト!」
 と叫んだ。
 その夜、リブに引き摺られるように家に帰ったが、部屋の前で別れる時のリブの顔が怒
っているというより、傷つき、泣き疲れたかのような顔をしていたので、少し驚いた。




あなたのいない世界で part.12



 機関紙に発表される教授の論文を手伝って三日も研修室に泊り込んでいるが、以前に比
べれば短い期間だろう。モジャがこの街に帰ってくるまで、ピカリは一週間研究室に泊り
込んでも平気だった。寂しくなかったし、虚しくもなかった。ママはちょっと小言を言っ
たけど、パパは何も言わなかった。巣立ちは、どの動物にも平等にやってくる季節だ。
 しかしどうだろう。俺は巣立ち出来ているのかな、とピカリはちょっとした自己批判を
始める。モジャを抱き締めるあの部屋を巣としたら、ピカリはちっとも巣立ちなど出来な
いだろう。あの中で、雛のようにか弱いモジャを抱き締めて、そうだモジャさえも巣立ち
させないかのような。
 部屋の様子を思い出す。ベッドと、絨毯と、椅子と。モジャは最近、絵を描いているの
だろうか。あの部屋からは、かつて彼らの生家にあったモジャの部屋のような絵の具やオ
イルの匂いがしない。
 モジャは幸せなのだろうかと、胸に浮かんだ一言が身体を冷たく凍えさせた。それは氷
柱で貫かれたかのような、恐怖にも近かった。
 時計の針は、短針がもう真上を指すにも間近な時刻だった。しかしピカリはソファの毛
布には目もくれず、机の上のものを鞄の中に乱暴に詰め込み、研究室を出た。扉を開ける
と、外から吹き込む冷たい風が顔を刺した。彼は足早に歩き出した。

 アパルトマンの窓は、どこも明かりが落ちていて、ひどく寂しかった。暗い階段を上り、
部屋の前に立つ。軽くノックする。返事はない。
 合鍵は、自分で作った。作っていいかとモジャに問うと、いいよ、と簡潔な返事が返っ
てきた。だから作った。その合鍵で扉を開ける。部屋の中も、暗かった。
 そっと、足音を立てないように歩く。しかし、絨毯の上に足が乗ったところで、ぴたり
と止まった。部屋は暗いが、ものの輪郭ならぼんやりと見える。絨毯の上に、なにか黒い
ものが蹲っている。
 ピカリは息を止めて、それを覗き込んだ。オレンジ色の髪が毛布からのぞき、絨毯の上
に流れている。リブだった。
 回りこむようにしてベッドの上を覗き込む。しかし覗き込む前から、寝息は複数聞こえ
ていた。
 小さな頃、彼ら一家は今よりもう少し屈託がなかった。彼ら家族はよく海外へ旅行に出
かけた。彼ら兄弟は、動物の仔のように、ホテルの一つのベッドにくっつきあって眠った
こともたびたびだった。
 ズーを間に挟んで、モジャとララが眠っていた。枕を使っているのはズーだけだった。
両隣の二人はズーの腕を枕に眠っていた。
 ピカリは自分が今まで息を止めていたことに気づかなかった。が、身体があまりの息苦
しさに勝手に盛大な息を吐き出した。ピカリは慌てて口を覆ったが、ズーの瞼が闇の中で
ぱちりと開き、真っ直ぐにピカリを見上げた。
「キモ」
「…ああ……」
 そのまま踵を返し、ピカリは家に帰った。
 家も真っ暗だったが、ママが起き出して、お帰り、と言い何か飲み物をすすめた。ピカ
リは首を横に振って断った。そう、とママは少し笑った。
「ごめん、もう寝るよ」
「ええ、疲れたでしょう」
 おやすみなさい。肩にかけたカーディガンがふわりと揺れて、ママが背を向ける。
 ピカリはその背中に声をかけた。
「ごめん」
 ママはちょっとだけ振り向いて、笑った。




あなたのいない世界で part.13



 去年の夏の彼女に偶然会ったのでセックスした。
 彼女とは二、三ヶ月の付き合いだった。本当に夏の間だけだった。それ以降、研究室に
篭ることの多くなったピカリは彼女の顔を見なかったし、なんとか家に帰るようになった
冬もまた一つの事件によって、彼女の顔など忘れていた。
 それでも彼女はピカリの後姿をちゃんと覚えていたらしく、無視するなんてあんまりじ
ゃない、と腕を絡めてきた。セックスするしかないだろうと思ったので、そのまま彼女の
部屋まで行って、セックスして、ビールを飲んだ。
 女の身体は冷たいんだな。ピカリは何となく今まで付き合った彼女たちのことを思い出
した。ずっと付き合っていた年上の彼女とは、モジャが失踪したと分かった頃から疎遠に
なって、別れた。むしろ一方的にピカリの側から離れた。年上の人はピカリのことを詰っ
たり、大通りで平手打ちをしたりと、一途で素敵な人だったけれども、別れる間際は冷た
い目で自分を見ただけだった。
 ビールを飲み終わった彼女の手がピカリの胸に伸び、背中に豊満な胸が押し付けられる。
冷たい身体。脂肪はひんやりとしている。女はここから赤ん坊に乳をあたえ、男にここを
吸われると声を上げるけれども、こんなにひやりとしていただろうか。
「…ピカリ君ってさ」
 彼女はピカリの乳首を弄っていたが、不意にそれをやめて、ただピカリを抱き締めた。
背中に押し付けられて発せられる声は、ちょっとくぐもっている。
「…何?」
「やっぱり、私と合わなかったね」
「そうかな」
「うん」
 冷たい手と冷たい胸が離れる。クリアな声が聞こえる。
「がっかりって言うより、拍子抜けするくらい」
「………」
 振り向くと、下着をつけようとした彼女がショーツを掴んだまま、こっちを睨んでいた。
「それでも愛していたよ、とか、言わない? 普通は」
「愛してたはずだよ」
 夏のさなかに出会い、セックスをするのは冷房のきいた冷たい部屋。セックスの印象は
どれもこれも熱いものだと思っていたけれども、思い返せば、この彼女の背中の上でもピ
カリは数式のことを考えたりしていたのだ。
「…悪い」
 彼女は溜息をつき、下着を身につけて姿見に自分の裸を映して、ポーズをとった。その
くびれた腰をピカリも眺める。
「…夕食は?」
 鏡の中で彼女は少し思案し、やっぱりいい、とピカリの申し出を断った。
 別れた彼女にこうやって会ったのは初めてだった。そしてまたセックスしたのも初めて
だった。案外、初めてだった。年上の彼女とはあれ以来会っていない。彼女は留学でどこ
かに行ってしまったし、他の彼女たちは今何をしているのか、ピカリは知らない。
 玄関で、ピカリは振り向き、彼女に尋ねた。
「今、何してるの?」
「女優」
 彼女は鏡に向かい目を軽く伏せ、塗っていたルージュをほんの少しだけ離して、答えた。
「綺麗だよ」
 振り返った彼女は苦笑して、手をひらひらと振った。
 優しさと脂肪の冷たさとセックスの余韻を引き摺りながら、何となく書店に入り、タイ
トルもろくに見ずに雑誌を手に取った。ぱらぱらと捲る手が、急に止まる。そして慌てて
ページを戻す。
 絵だった。
 大判の写真ではない。小さなものだった。作品のサイズもそこまで大きくないのだろう。
しかしその色彩は、そのフォルムは目からピカリの内部に入り込み、余韻も全て吹き飛ば
してしまうほどピカリの全てを侵蝕した。
 モジャの絵だった。熱烈な賛辞をひき従えた、その絵。去年描かれたものだった。去年
の夏、発表され、ピカリの知らない街のとある美術館に飾られているのだ。
 足元がぐらりと揺れる。雑誌をどう戻そうとしたものか、手から離れたそれは床の上で、
ばさりと音を立てて広がる。店員がやってくるが、ピカリは逃げるようにして外へ出る。
冷たい風に巻かれ、背中を押されてようやく歩く。
 なんとか家に帰りつき、ベッドの中で顔を覆った。冷たい手をしていた。ピカリの手は
氷のように冷え切っていた。