ズーのアフリカ研修旅行・前夜



 屋根の下に動物の声がしなくなったと思ったら、その夜ズーが扉をノックした。
 ララは部屋の明かりもちょうど消したところだったので、暗闇の中でズーの顔を見た。
いつもどおりの、表情がなくなるとパパそっくりの、そして鏡の中の自分そっくりの顔だ。
そのズーは枕を持参していた。
 ベッドの上で額をつきあわせて瞼を閉じると、小さな頃を思い出す。それは明確な像で
はなく、一瞬掠めるような匂いや感触だった。ズーからはいつも動物の匂いがしていた。
しかし今、隣で眠るズーからはクロゼットの奥の匂いや、久しぶりに開けたトランクの匂
いがする。
「明日、出発」
 ズーの声がした。
「明日?」
「うん」
「半年でしょ」
「アフリカ」
「行ったね、小さいころ。家族で」
「うん」
 ララはズーの額に自分の額を押し付けた。そしてそっと囁いた。
「おやすみ」
「うん」
「おやすみ、ズー」
 ズーから額を押し付ける気配がした。
「おやすみ、ララ」
 その低い一言を、ララは子守唄のように聞いて、眠った。

 翌朝、バス停まで一緒に歩いて行くと、ズーが珍しく手紙を書くよなどと言うものだか
ら、ひどく胸が締めつけられてしまった。
「…ララ?」
「ううん……」
 思わず立ち止まってしまったけれど、また歩き出す。
 空港に直行するバスは、五分間停車して乗客を待っていた。
 いってきます、とズーはララの頬にキスをした。いってらっしゃい、とララはズーの頬
にキスをした。

 五分後、バス停に一人残されたララはちょっと泣きそうなのを我慢して、鼻歌を歌って
いた。




番外編・ズーのアフリカ研修旅行



 風の音がする。
 サバンナの風は色も匂いも、温度も密度も違う風が幾重にも織り合い、人の息を止める。
 空港から自分をジープに乗せた男はズーを見て、白磁のようだと言った。肌の白さと、
整ったブロンドを見て、彼は開口の三番目には、そう口にした。決して悪気があった訳で
はない。勿論、ズーも気を損ねた訳ではないが、イヴの末裔にしては随分末端にきてしま
ったのだな、と不意に実感したのだった。
 この風が苦しいのはあまりにも末端に生まれすぎたせいだろうか。ズーは歩みを止めて、
天を仰いだ。密度の濃い風が、ズーを包んでいた。その向こうに、蒼い夜空が広がってお
り、その真ん中に真っ赤な月が昇っているのだった。ズーはそれを強く見詰めた。そして、
大きく口を開いた。
 風が口の中に飛び込んだ。砂と埃と、息苦しいほどの密度の空気が、ズーを体内から破
裂させんばかりに満ちる。ごうごうと、どうどうと、人の持ち得る語彙、発音では言い表
せぬようなうねりが、脳にさえ吹き込んだかと思うほど身体を震わした。風の音だ。
 空気が震えるのだろうか、それとも地から揺るがす響きか、遠くの丘やブッシュを渡る
際の木霊を孕んでいるのか。音そのものを風が有しているのか。
 歌っているのか。
「ラ……」
 息を吐いたつもりだった。乾いた大地に、自然の響きと自然の明かりの他なにもない大
地の上に、しかしズーの声は白磁と言われたイヴの末裔、その末端の、そう人間の肺の、
口の、舌の、漏らす人間の声として響いたのだった。
「ララ…」
 風の音に混じり、飲み込まれ、ズーの声は流され、既に遠く地平めがけて吹き渡る。
 急に息が楽になった。風に、かすかな、柔らかい火の匂いが乗っていた。ズーは地平に
向かって目を凝らした。人の作った火が見えた。かすかな焚き火の明かりが、小さな星の
ように地上に灯っていた。
 ズーは少し笑って、再び歩き出した。




ふたりはなかよし



「考えてるのは家族の幸せだけって言ってたよな」
「言ったわね」
「じゃあ何だよこれは」
「…あなた、何、目くじら立ててるのよ」
 リブはモジャの隣に腰かけて、あたたかな湯気の立つカップを同じように持って、そし
てモジャの何倍も訝しげな視線をピカリに投げて寄越した。
「ちょっと頭が固いんじゃないの、サイエンティスト」
「でも、…何か、…何かあるだろう、だってリブ…」
「過去にこだわるつもり? 柔軟性なさすぎるんじゃない?」
「こ……のっ」
 みるみる赤くなったピカリが何か言葉を(きっと罵倒だ!)発する前に、モジャがずん
ずん近づいてきて両腕でピカリの胸を押した。
「…モジャ?」
「や、めてよ」
「あらあら、嫌われたわね」
「リブっ」
「もう!」
 モジャの腕に力が篭る。ピカリの身体はあっという間にドアから外に押し出された。
 ぱたん、と閉じたドアの前にピカリは佇んだ。否、立ち尽くした。自分を部屋から追い
出し、隔絶したドアを見詰め、呆然とした。その隣をズーが通り過ぎて、当たり前のよう
にドアから部屋の中に入っていった。




パパはこない



 パパは来ない。
 あれっきり、パパは部屋に来ない。
 モジャの一日は朝目覚め、昼ぼんやりとし、夜絵を描き、夜遅くに眠り、また朝目覚め
る。よくピカリが来て、最近はリブが来て話して、ズーもたまに来て、ララがこの部屋の
ことを知ったのは一番遅かったらしくて、こないだズーと来て、そのまま泊まっていった。
 まるであの家に住んでいた時よりも家族のようなことをしているけれども、でも少しず
つ違うんだろう、と感じている。ズーとララはあまり変わっているように見えないけれど
も、リブは兄弟としてより同じ感覚で話が出来る相手として選んで来てくれているようだ
し、それにピカリは。
 パパはもう構わないんだろうか。
 日の昇る少し前に目覚める。新聞はとっていない。テレビもつけない。ラジオも聞かな
い。コーヒーを淹れて、少し朝食を摂る。少しの朝食をゆっくりと食べる。
 まばたきをすると、不意に、部屋が違って見える。チェロのための椅子が欠落している
ことに気づく。長年暮らしてきたようにコーヒーの匂いがすることにホッとする。一つず
つ欠けたようで、一つずつ戻ってもきたようで、だからこの部屋はやっぱり見知らぬ部屋
だった。
 真新しい絨毯。パパが選んだんだろうか。このアパルトマンの改築にパパが携わってい
たのは知っている。
 モジャは窓から通りを見下ろした。見知った車が街に向かって走っていった。
 パパ。

 モジャは朝食も途中のまま、ベッドに戻った。昼過ぎまで眠った。
 頭痛がしたので、薬を飲んだ。