あなたのいない世界で part.1



 例えば兄弟しかしらないピカリの秘密を思い出した時、お葬式の午後には煙草を吸うこ
とかな、とララは思った。別に秘密じゃないけれど。
 ララがそんなことを思ったのは、ピカリが葬式でもないのにリビングで煙草を吸ってい
るからで、ママやベル、リブが買い物に出かけているからいいものを、しかし部屋に残る
この独特な煙の匂いをどうするつもりだろう。それともスキップに関して一ミリたる感激
も抱かず当然の顔で受けた未来の(しかもそれはとても近い未来だ)天才科学者には、釈
迦に説法だろうか。ソファの上で膝を抱えたまま、ララは新聞で顔を隠すようにピカリを
見る。こんな姿、リブ達に見つかったら…。説教の的ではない、笑いの的になるのだ、多
分。
「ふん」
 現に、ズーは嗤っている訳で。
 ララは新聞の連載小説に目を落とす。煙草の先のちりちりと燃える音が聞こえる。既成
の楽器では出せない音。ささやかな物体の終焉と、風に吹かれる消滅。連載小説の舞台は
砂だらけの小さな惑星だった。
 電話が鳴った。ララは新聞を置いて電話口に立った。背後でズーの、指先で新聞を抓み
上げる、紙の擦れる音が聞こえた。
「もしもし」
 ララの聴覚は受話器に集中をする。
 受話器の向こうからは何も聞こえなかった。多分、誰が耳を当てても何も聞こえないと
切ってしまっただろう。しかし受話器を取ったのはララだった。ララには空気の密閉され
た狭い部屋の空気の淀みと、建物の壁を震わす屋外の微かな雑踏、その振動にも満たない
振動が感じ取れた。
「誰?」
 その一言に、ピカリが振り向く。煙草が窓の桟に押し付けられる。火の潰える音は、ラ
ラの耳に届いたが、彼女の中には届かない。
 ララは息を潜める。身体の中で鳴り響く血潮の轟音と、神経の高い囁きを追い払う。そ
して心の底から真の静寂を引き摺り上げ、受話器の中の世界を包み込む。
 死んだように穏やかに静まり返った空気。部屋を包む厚い壁。震えるガラス窓はカーテ
ンで覆われている。暗い、静かな部屋で、息もしていないかのように受話器を握り締め、
沈黙している。
「あなたは…」
 声をひそめる。
「モジャ?」
 電話は切れた。
 ララは乾燥した電子音を繰り返す受話器を胸に押し付けると、ゆっくりと振り向いた。
ピカリが凍りついたように、窓辺に佇んでいた。
 この家の中で、その名前は三年ぶりに呼ばれたのだ。
 ぱらり、と乾いた音が舞い降りた。ズーが新聞を捲った。ララは息を吐いた。受話器を
そっと戻すと、チン、という微かな音にピカリが痛みを感じたかのような顔をした。ララ
は反射的に相手と同じ表情をし、そして微笑み、不意に表情をなくして俯いた。
 鳥肌の立つほど冷たい十一月の風が、窓から吹き込み、リビングは一斉に震えた。




あなたのいない世界で part.2



 アパルトマンの床に敷かれた真新しい絨毯と、真新しいシーツの匂い。モジャはベッド
の上で蹲り、何かを考えようとしている。しかし身体がもうぴくりとも動かないように、
モジャの頭も螺子の切れた古時計のように動かないのだった。カチリ、とも。誰も鍵を持
たない古い箱と同じこと。そこにあっても、もう忘れられ、諦められ、そして誰の目にも
見えなくなる。
 廊下の突き当たりの窓からは、かつて家族のようにして暮らしたあの家の屋根が見えた。
モジャは物心ついた時から、三年前、一人家を出るまであの屋根の下に暮らしていたのだ。
もう二度と帰らぬだろうと諦めていた家。決して忘れられなかったぼくの(家族の)家。
 パパ。
 手を引かれ、この部屋にやって来なければ、モジャはあの締め切った部屋の中で天使の
ラッパを聴くまで眠っていただろうけれども、しかし真新しい絨毯とシーツの匂いのする
この部屋も、また閉じ込められたようなものだった。パパは鍵をモジャに手渡したけど
(きっとパパは合鍵は持っているんだろう)モジャはもうこの部屋に鍵をかけてどこかへ
行こうとは思わなかった。
 ゆっくりと夜が明ける。曇った朝は、やけに明るい。灰色の光が空を満たす。ぼんやり
と(モジャのように)意志を失った光の粒子が部屋の中を漂う。
 どこかから音楽が聞こえる。テレビの音、いやラジオだろうか。道の向こうから聞こえ
てきて、遠ざかる。ピアノと弦楽の調べが弛緩したモジャの肌の上を撫でる。
 不意に鳥肌が立った。
 ふつふつと、腰から背中にかけて順に動物の肌に変わってしまったかのような感触。こ
れでまだ意志が残っていれば、ああ、と小さな溜息がこぼれたはずだ。音楽は、そっと、
そっと、極めて静かにモジャの心を揺さぶった。

 夕方になり、モジャは目覚めた。窓から射す日が顔に当たっていた。熱でも出したかの
ように頬は熱かった。シーツの匂いが変わっていた。シーツは涙に濡れていた。モジャは
のろのろと起きだし、水を一杯飲む。それから惜しげもなく涙を流した眠る自分を羨まし
く思った。
 狭いキッチンに置かれていた水はそれだけだった。パパが置いていった水だけだ。冷蔵
庫の中には、まだ何も入っていなかった。モジャはパパがモジャの財布にお金を入れたこ
とも知っていた。鍵はテーブルの上に載っていた。角を二つ曲がった通りを真っ直ぐ行け
ば店があることも、勿論覚えていた。
 日の暮れかかる頃、モジャの足はようやく玄関をまたいで外へ出た。鍵をかける。鍵を
なくさないようにポケットに仕舞いこみ、歩き出す。
 角を二つ曲がって、通りを真っ直ぐ。ゆるやかに傾斜した坂を半ばほど下ると、背後か
らぽつ、ぽつと街灯がともった。
 店のドアを押すと、頭上で鐘が鳴る。鐘の音の向こうから会話が聞こえてくる。
「飲みすぎだろ」
「珍しいな、人間を心配したりするのか、お前も」
「兄弟だから仕方ない」
 ひどく懐かしい言葉だった。兄弟。会話する二人は背が高く、奥の酒棚に向かっている
というのに、棚を越して頭が見えていた。
 モジャは一歩、後ずさった。背中が酷くドアにぶつかった。頭上で鐘が乱暴に揺れて、
悲鳴のような音を上げた。奥の棚の二人が、背伸びをして、こちらを見るのが分かった。
そして、その目が見開かれたのが目に映るか映らぬかの刹那には、モジャは身体ごと叩き
つけるようにドアにぶつかり、外に飛び出していた。
 坂を上る車のライトが夜を切り裂き、クラクションの音が響き渡った。それから辺りは
静かになった。
 モジャの足はもつれたまま、宙に浮いていた。身体を抱き締める腕の強さに、息が出来
なかった。遠くで扉の鐘の鳴るのが聞こえた。肩越しに、店の明かりを背に立つ長身の影
が見えた。金色の髪が夕闇に向かって光を乱反射させていた。
 荒く、息を吐くざらついた音が聞こえた。モジャは固く瞼を閉じ、相手の胸に顔を押し
付けた。懐かしかったからでも嬉しかったからでもない。全てが恐ろしかったからに過ぎ
なかった。そしてとうとう、喘ぐように自分の名が呼ばれた。




あなたのいない世界で part.3



 そして、そのままモジャの身体はピカリの腕の中で崩れた。ピカリはその瞬間、本当に
自分の腕がモジャを潰してしまったと、心から本気で怯えた。まるで悪夢のように、現実
にみた悪夢のようにモジャの身体から力が抜け、砂袋のように意志のない重みだけが腕の
中にある。
 今にも取り乱さんばかりだったピカリが、その身体を抱えて病院まで辿りつくことが出
来たのは、何も言わないズーが冷たすぎる程の視線を突き刺してくれたからだろう。唇ま
で色をなくして、涙さえ溢れさせんばかりの身体で、ようやく病院の人工的な明かりの下
にやってきた。
 モジャは酷く衰弱していた。点滴の針をさされた腕は、痩せて乾いている。ピカリは枕
元の小さな乏しい明かりに照らされたモジャの顔を見詰めていた。腕と同じように乾いた
肌。柔らかく乱れる黒髪に包まれた顔白く、しかし。
 ピカリは項垂れ、頭を覆った。
「何、してるのよ」
 ゆっくり振り返ると、扉を背にしてリブが立っていた。
「…いつの間に」
「人のこと幽霊みたいに言わないで。ノックだってしたわ」
 リブは財布を差し出す。ピカリがただ、それを見返すと、馬鹿にするような溜息をつか
れる。
「持って出たのは酒代だけなんでしょ」
「あ……。ああ」
 財布を手渡すと、リブはくるりと踵を返した。今度はピカリが唇を歪める番だった。
「やっぱり、心配さえしやしないんだな」
「そうよ」
「で、御注進か」
「姉妹だからっていっしょくたにしないでもらえる」
 リブは振り向き、しっかりとピカリを正面から見据えた。
「知ったかぶりは好きじゃないし、野弧禅もお断りだわ。でもね、私はこの件についてあ
なたより知っているわ」
 ピカリの顔が歪むのに、リブは薄く笑った。
「御存知の通り、ええ、ええ、私は家族の幸せを壊したくないだけ。それだけよ」
 リブと入れ違いにズーが病室に入ってきた。ズーは点滴のラベルを読み、モジャの顔を
見下ろして、感情の汲めない溜息を一つついた。
「…お前か」
「半分」
 ピカリは小さくうめいて、頭をかかえた。
「リブは知ってたし、手持ちも余裕があったし」
「お前は…?」
「俺の貯金を期待するのか」
 確かにそうだ。ピカリはもう随分、頭がいかれてしまっているのを感じた。
 ベッドの上、モジャは生きているのかどうか確かめたくなるほど静かに眠り続けている。
その寝顔を見詰めていられるのならば、ピカリは多分、この瞬間に世界が終わってしまっ
ても構わないとさえ、感じているのだった。




あなたのいない世界で part.4



 鋏が指先の皮を掠める。ララの動きはちょっと止まり、それから慎重に新聞から連載小
説の欄を切り離す。
 ズーが帰ってきて、すぐに出て行った。
 リブが出て行って、すぐに帰ってきた。
 それから遅れてズーとピカリが帰ってきた。
 男同士の話にアルコホルが必要なのは、何となく理解できなくもないけれども、ここ数
年のピカリはともかく、ズーにはあまり似合っていない気もする。でも男の子同士の勝手
に口を挟む気はない。
 連載小説は静かに続いている。愛し合う二人は砂の星にやってきて、二人だけの生活を
始める。少ない食料、水をもとめてスコップを手にする。地図を片手に彷徨う。きっと男
は死んでしまうんだろう、とララは思う。男の子は勝手だから。
 そしたらこの小説はどうなるのかな。
 連載小説をスクラップブックに貼り付け、ララはソファの上で膝を抱えた。ああ、女の
子でもアルコホルの欲しい夜はある。紅茶にブランデーをちょっぴり、とか。脳や身体が
アルコホルの成分を求めているんじゃなくて、多分、この落ち着かない雰囲気に晒された
心が、明確な非日常の手触りを求めているんだ。
 リブが部屋から降りてきた。リブは自分でお茶を淹れて、キッチンに立ったままそれを
一杯飲んだ。
「ララ」
 呼ばれて振り向く。
「お茶、淹れて」
 断る理由はない。ララはリブのために紅茶を淹れる。ミルクも砂糖もいらない。ララは
自分のカップの分にだけレモンを垂らして、席に着いた。
「…ララは変わらないわね」
 一口飲んだところでリブが言った。
「そう?」
「ええ」
「リブは変わったの?」
 不意にリブがこっちを見た。そう問われたのが意外だとでも言うように。
 結局リブは答えなかった。答えず、リブはソファの上に載せられたままのスクラップブ
ックを手に取った。
「面白い?」
「うん」
「二人きり、何もない世界に二人きり…」
 どう思う、とリブは尋ねた。
 ララはリブの目を見た。リブが出て行ったのはほんの僅かな時間だった。しかし、リブ
の目には急な疲労が重く、濃くのしかかっていた。ララは穏やかに答えた。
「戸惑うわ」
 幸福か、不幸か。リブが求めていたのはそういう答えだったのかもしれない。しかしラ
ラは幸せだとも、不幸せだとも、分からなかった。問いに対する答えはそのまま、問われ
たことへの素直な心情でもあった。
 二人分のカップを片付けて、一番最後にララはリビングを出た。
 ズーの部屋の扉を叩くと、彼が顔を出した。
「ちょっと、いい?」
 ズーの部屋は生き物の匂いに満ちている。ララは綿のはみ出たソファに腰かけ、走り回
るラットを捕まえて、掌に包み込んだ。そっと耳を押し当てる。
 ぎゅう、と小さな声がした。
 ララは手の力を抜いた。ラットはあっという間に部屋の隅に逃げてゆく。
 手の中に入れれば潰してしまうかもしれない。
 私が優しく見えるのは、ただこの手の中にいれようとしないから、触れないからだけか
もしれない。
「…どうした」
 珍しくズーが問いかける。
「うん…何でもない」
 ふうん、と言ってズーは部屋の明かりを消した。急な闇は、部屋のあちこちにひそむ動
物たちの声を一層際立たせた。そして、まるで動物のような気配で、ズーはララの隣に腰
かけた。ベッドは月初めから産卵した蛇に占領されている。ここで眠るのだろう。ララは
部屋に戻ろうとした。少なくとも戻ろうと思った。しかし身体は動かなかった。ぐったり
とした、疲労。リブの目に映ったような。
 ララはずるずるとズーにもたれかかった。ズーはクッションでも抱くような造作の無さ
で腕を伸ばし、ララの身体を抱いた。
 動物たちの息遣い。かすかな囁き声。その中でズーの心音は、まるで心臓の鼓動とは別
のものにララの耳には聞こえた。息の音は、部屋に渦巻く幾つもの風の音だった。それら
が同調しあい、ララが自分の呼吸を忘れてそれと一つになった時、ようやく眠りが訪れた。
 夢の中で、ララは風の音を聞いた。
 いつか家族で行ったサバンナの記憶だ。楽しいことがたくさんあった。動物に触れて、
オアシスで泳いで。けれども今、ララを包み込むのは熱い風だった。風の音だけだった。




あなたのいない世界で part.5



 疲れきっていた。モジャは暑苦しい毛布さえ跳ね除けることもできず、ベッドに横たわ
っていた。
 眠ったのは覚えている。夢を見たからだ。
 死ぬ間際の時間を、夢に見た。モジャははっきりと悟ったのだった。僕は死ぬ生き物だ
った。どうしてそのことを忘れていたのだろう。それとも知らなかったのか。
 ピカリは週末から学会のためにインドに行っている。先の冬まで絵とチェロと音楽だけ
に満たされていたモジャは、インドで科学が盛んなのか、何か先端技術があるのか、何も
知らない。ピカリは学会で一週間戻らないと言った時は辛そうだったが、インドと言う地
名を口にする時はまるで当たり前のようだった。
 きっと、学会であちこちに行ったりするのは嫌いじゃないんだろうなあ。輪郭のぼけた
シーツの白の向こうに、絨毯や壁紙の模様がやけにくっきり見える。モジャはそれを虚ろ
に見詰める。目の中から夢の中の、あの恐怖が蘇り、全身を麻痺させるようだった。虚ろ
になってゆく、決して逃げられないのに、恐ろしい。
「自堕落」
 乾いた言葉が落ちた。
 言葉が目に触れた瞬間に、恐怖が一瞬、侵食を止める。
 その隙に割り込むように、言葉は続いた。
「まるで生きていないよう。生命の活動を放棄したかのよう」
「…リブ……」
「目が覚めたのね」
 窓辺に佇むリブは、唇の端をちょっと歪めるように苦笑した。
「酷い顔」
 モジャは起き上がろうとしたが、急に頭から血の気が引くのが分かった。瞼を開いてい
るのに、目の前が暗く翳る。頭を枕に戻し、瞼を閉じる。
「モジャ、あなた知らないんでしょう」
 リブの声だけが聞こえる。
「自分がいずれ、そして絶対に死に行く生き物だと、知らずにいるんでしょう」
 だからこんなに時間を無駄に潰すんでしょう? もし生きていることを知っていたら、
こんなことはしない。一瞬、一瞬が、
「恐ろしくて堪らないはずだわ」
 モジャは瞼を開いた。リブは窓から外を見ていた。しかしその目は、じっと凝っている
のに虚ろだった。頬が僅かに引き攣っている。強く結んだ唇の下で、歯を噛み締めている
のが分かる。
「ああ」
 リブ、とモジャは小声で呟き、両手で顔を覆った。
「…何よ」
 呟いたきりモジャが口を噤んでいるので、リブが苛々したように促した。
 リブ、ともう一度モジャは呼んで、ゆっくりと口を開いた。
「その…死ぬことが、絶対に死ぬことが怖くて、いつ死ぬか分からないことが怖くて、死
んだ後どうなるか分からないことに胸が潰されそうで、その…死んで、死んだ後に永遠が
続くことと、死なないで永遠に生きることの、どちらも怖いって……僕は…」
 モジャの声は段々か細く途切れがちになり、最後に、リブもそういうこと考える?と辛
うじて疑問符が聞こえた。
 しばらくは何も聞こえなかった。モジャは自分の心臓の音を聞きながら、再びゆるやか
な侵食を始めた恐怖の存在を感じていた。
 溜息が耳を掠めた。
 顔を覆う両手を退かすと、リブの顔が目の前にあった。リブは枕元にしゃがみこみ、モ
ジャの顔をまじまじと覗き込んでいた。
「知らなかったわ」
 あなたがそんなことを考えているなんて夢にも思わなかった。小さな声で、思い出をな
ぞるかのような瞳で呟くと、リブの視線がふいにきちんとモジャの目を覗き込み、そして
まるで唐突に
「ごめん」
 と彼女は言った。
 あまりに素直な声に、モジャがどうにも応えあぐねていると、リブの頬がぱっと、水に
絵の具を散らしたかのように赤くなった。




あなたのいない世界で part.6



 リブが口座を開くと言うので、ついていった。
 電話が鳴ったのだ。モジャはこの部屋に電話があることを知らなかった。目に映ってい
たのかもしれないが、心まではその像を結ばなかったのだ。鳴り続けるベルを、一体どこ
からかと部屋中、耳を澄ましておろおろとあちら向きこちら向き、ようやく受話器を掴ん
だ時、リブの声は待ちくたびれたとは主張したが、怒ってはいなかった。
 空調が利いている訳ではない。風の音も、排気口の黴の匂いもしない。しかし、銀行内
はしんと冷たかった。ひんやりした空気と沈黙に包まれて、モジャはソファの上、軽い眠
気に襲われた。リブの背中が奥の机に見える。
 付き添いを乞われたと言うより、誘われたのだと思う。何故だかは分からない。リブが、
たかだか町の銀行に行くのに緊張したり、臆したりするはずもない。口座を開くのよ、と
いうあの口振りからも、不安を抱えているようには見受けられない。
 しかし、それら全て思い込みかもしれない、とモジャは思うのだった。真実は滅多な事
象で掴み得るものではないし、モジャとリブは、つい先日までお互いに相当な誤解を抱い
ていたのだ。たとえそれが推測の道筋も納得のゆく誤解だとしても。
 リブが振り向いた。笑顔ではない。しかし彼女はいたずらに笑顔は見せない。愛想笑い
は嫌いなはずだ。可笑しくもないのに笑う、取り繕うために笑うことを彼女は好まない。
今もそうなんだ、とモジャは睡魔を追い払い、ソファから立った。リブはモジャが立ち上
がったのを見ると、片頬だけ吊り上げてちょっと笑った。
 オープンキャッフェの席についても、二人が話したのは口座のことではなかった。モジ
ャは、リブが自分をお茶に誘う口実を作るための銀行だとは思わなかったけれども、実は
そうだった。それはリブだけの知ることだったし、モジャと言葉を交わすうち、リブの自
身の口実その他の事柄については些事と忘れてしまったのだった。
「植物だって悲鳴を上げるのよ。花を摘む時、鎌で刈る時。電子が行き来するのは、私た
ちと仕組みは一緒…いいえ、似てるんだわ。刃がその身を傷つけた瞬間、彼らの電子の声
に耳を傾けた時、確かに悲鳴を上げているのよ。これはただの反応かしら。植物が種子に
よって遺伝子を受け継ぎ、運ぶ…。なら樹木は? 私たちがクローンを生み出すより早か
ったわ。挿し木はオリジナルそのもの。クローンなんか比べ物にならない、全く同一の分
身じゃない。それに接木。レモンの木にオレンジの実をつけることも出来る…」
 彼ら、とリブはごく自然に植物をそう呼んだ。
 モジャはその感覚に嬉しくなり、口を開く。
「木とかね、花を育てる農園とか、花は音楽を聴くじゃない? それで成長がよくなると
か、味がよくなるとか。僕たちが…植物に勝手に夢見てるって言うか、自分たちと同じレ
ベルで語ろうとするけど…、人間に聞こえる声で喋らないからって、食物連鎖の下方だか
らって下位に置いてたけど、違う気がしてくるんだ。人間の、心とか、精神とか、……そ
ういう枠より、もっと神様みたいな、大きな…」
 言葉に詰まる。リブは口を挟みそうになったのをぐっと飲み込んで、モジャを待つ。
「魂…? 植物っていう大きな生命を一つ考えたみたいな、共通の意識…じゃなくて、無
意識とかじゃなくて…」
「魂のネットワーク?」
「そう、神様が独りいて統率してるんじゃないの。皆、同じところにいるんだけど、」
「個々でありながら、全体としての上位の階層にも存在しているのね、植物の…」
「魂?」
「魂。意識、心、精神……ううん、存在そのものなのかな」
 二人はほっと息をついて、カップに口をつけた。
 しばらく背もたれにもたれリラックスしていたリブが、不意に、同じ言語、と言った。
「今の話、植物がその魂のシステムを昔から保持し続けていて、私たちが進化の過程で忘
れてしまったのか、それとも植物と人間は最初から違うシステムだったのか。でも今、私
たちの言葉が通じ合ったのは、そこに少し手が届いたような、そんな気がしない? 言語
感覚……いいえ、やっぱり言語そのものね。感覚と言ったら、全く同じではない。私の表
現とあなたのそれとは、ちょっとずつ違っているもの。植物だって、種が様々に分かれて
いるわ。樹木、草木、花も、苔も。現れる姿が違うように。例えば、私には語彙がある。
モジャは違う表現を使うわ。でも、共有する源が一緒なのよ」
 同じ言語で話しているの、わかる? とリブは言った。
 感じられることは、モジャも一緒だった。彼は肯いた。
「そんな人は滅多に会えないのよ」
 リブは少し俯いて、カップの中を見つめた。飲みかけて、覚めてしまったコーヒーの水
面が湖のように静まり返っていた。
「本当に、いなかったわ」
 どう?と尋ねられる。ズーや、ララや、ピカリのことをリブは考えているのだろうか。
モジャは、このように語り合える、ということさえ知らなかった。他愛もないはなし、楽
しい話は大好きだ。しかし、これは独りで苦しむものだと思っていた。だから今、言語を
共有する相手が目の前にいることに、戸惑いながら喜びを表していた。頬が少し緩んだ。
「モジャ…、ゲイなの?」
 急な言葉に一瞬、思考が止まる。リブは知っているのだろうか。知られたのだろうか。
と言うか、僕は?
 その沈黙の間に、リブの頬にまた水に溶いた絵の具のような赤がぱっと散った。
 モジャも同じように顔を赤らめた。赤らめながらも口を開く。
「こういう話…」
 言い直す。
「今日とか、リブと話したみたいな話、したこと、ないよ」
「そう…」
 リブは白い手で口元を覆うと、小さく息をついた。