LOVE EACH OTHER



 掲示板に貼り出された特別講義の中にはヒルシェフェルトという、何かの単語みたいな
名前が載っていて、そういうドイツ人の医者もいたような気がしたピカリだが、結局彼女
からの誘いを優先し、その講義には顔を出さなかった。
 ズーどころか、ララも、モジャも特別講義に参加したのだと知ったのは、その夜である。
薬品と薬品の匂いの隙間からコーヒーの香りがする、ピカリの部屋である。レポートは書
きかけのまま、三人の話は講義のノートを巡っての議論より、雑談に傾き始めた趣だった。
 しかし。
「マッセル」
 ズーの声。
「ラビング」
「あ、それは聞き覚え、ある」
 ズーの声を追って、ララの声。
 その後は、ズーの独壇場らしく、
「タポートマン、ペトリサージ」
 と続く。
 やけに楽しそうで、ちょっと振り向くと、ズーが指先でテーブルの上に円を書いている。
 不意に三人と目が合った。
「…レポートは?」
「んー、これでAをもらってもねえ」
 珍しい言葉と共にララが苦笑する。
「真面目にやれよ」
「大真面目だぜ?」
「うん、真面目すぎるくらい」
 ズーとララが笑って、モジャまで「あはは」と声を出して笑っているのが、正直羨まし
く、「本当かよ」と呟いて背を向ける。
 それからようやく会話は精神科医や内科医の名前を交え始めたが、相変わらず雑談めい
た雰囲気のままだ。
「ボス…が」
 自信のなさそうなモジャの言葉を、ララが「メダルト・ボス」と補足する。
「…が、批判した論のことを、人間学的歪曲理論」
「そうそう。批判されたのがシュトラウス、クンツ、……ヒルシェフェルト」
 その名前に呼応するように、ズーが
「イプセイション」
 と言って、よく覚えてるわねえ、と笑ったのはララ。
 しばらく笑い声が続く。話は完全に脱線したらしい。
「ハブロック・エリスの用語もあるぜ」
「あれは露骨よ。あとは…そうねえ、ソリタリィ・バイスはあからさまじゃないけど、ち
ょっと違うかな。文学的表現ならシン・オブ・ユース?」
「ニッポン語」
 モジャが言う。
「ハンド・エモーション」
 くすくすと笑い声を背に、ピカリの手の中で試験管が割れる。ビーカーが床に落ちる。
「でも、ズーにとっては本当に衒学みたいなものよねえ」
「机上の…」
 モジャが言葉に詰まると、ララもちょっと首を捻って
「空論、じゃないしね」
「宝の持ち腐れ?」
 モジャとララが、ズーを見る。
「それは正常に機能して、使い道のない奴のことだろう」
「そっか」
「ズーはしょうがないよね」
 インポじゃーねー、という声はズーとララとモジャの合唱だった。
 その瞬間、けたたましいほどのガラスの悲鳴が部屋に響いた。机の上に乗っていたはず
の試験管の列が全て床の上に粉々に砕け散っていた。
「悪いな、ピカリ。気が散ったか」
「…大したことない」
 その後、口々に、邪魔してごめんねと言いながら三人は部屋を出ていったが、ピカリは
そこのソファに当のモジャ達が座っていた時よりも息苦しく、じたばたと居ても立っても
いられぬ気持ちになった。

 翌日、デート中に上の空だったと道の真ん中で彼女にぶたれた。



参考文献「原子水母」「ぶんかノ花園」(幻冬舎文庫・ぶんか社/唐沢商会)

辞書をくったり検索するのが面倒な方へ、ちょっと単語解説。
マッセル、ラビング、タポートマン、ペトリサージ:乳頭愛撫の方法の正式名称
その下はほぼマスターベイションの俗称。
イプセイション:ヒルシェフェルトの用語
ソリタリィ・バイス:独りさびしい悪習
シン・オブ・ユース:若者の罪
ハンド・エモーションは日本語の「掌情」を直訳しました。
また、ヒルシェフェルトさんは同性愛擁護派だったそうです。