イントロダクション



この一連のストーリーは『デカチョウ』のインコさんのアイデアが発端です。
他人の褌で相撲をとらせていただきました。
タイトルは全てピチカートファイヴより。
内容的にも結構拝借しているので、ダブル他人の褌で以下略。




優しい木曜日(5月)



 どこかで音楽が流れていた。強い風に流されてきれぎれに吹いてくる音楽を、モジャは
明るい街角で立ち止まり、聞き惚れた。紙袋の中には新しい画材ばかり。そして手の中に
赤いリンゴが一つ、初夏の日差しに照らされ光る。モジャは音楽の流れてくる方向に耳を
向け、瞼を伏せた。リンゴを齧ると、夏の匂いがする。そうだ、この音楽も夏の音楽だ。
 懐かしい夏の気配が、その瞬間からモジャを包み込む。旅立ちの春ではなく、新しい夏。
アパートの窓を開けよう。そう決めると、モジャの足は歩き出した。夏の風を呼び入れて、
新しい画材で絵を描く。新しい夏を、そのままカンバスに立ち上げる。そのイメージに集
中していたせいで、アパートとは逆の方向に歩いていることに気づかなかった訳だけれど
も。

 通りの名前を確かめながら、来た道らしき路地をたどる。リンゴは芯だけになってしま
ったので、川に投げ捨てた。
「ねえ、君」
 呼び止められたのだとは思わなかった。
「君」
 だから歩き続けた。その声だって、聞こえないようなものだったから。
「モジャモジャ頭の君!」
 流石に足が止まった。恐る恐る振り向くと、花を抱えた背の高い男がにこにこと微笑ん
でいる。
 ぼくですか…?という声が出なくて、首を傾げると、そうだと言うようにうなずいて手
招きされた。モジャの足はゆっくり動き出す。
「君、もしかして迷ったんじゃないの?」
「……え?」
「ここ通るの三度目だからさ」
「さん……」
「最初はあの角でリンゴを食べながら歩いてて…」
 男は指を伸ばす。モジャの視線は通りの角ではなく、その指に吸いつけられる。ロダン
の大理石彫刻、石膏を思い出す。綺麗な指だと思った。
「…道に迷ったんじゃないの?」
「あ……」
 不意に男の顔がモジャを覗き込む。急に全ての引力から解き放たれたように、モジャは
上も下も解らなくなった。手から紙袋が滑り落ちる。広がる画布。落ちる絵の具が初夏の
日を受けて光る。そして画布の上に傍若無人に飛び散る。

 お詫びにもならないけれど、と男は手にしたカサブランカの花束をくれた。白いその花
は新しい街に暮らし始めたモジャにとって、最初の、そして唯一の孤独の友となった。
 だから花屋の店先でバケツにさされた百合の花を見る度に、モジャはあの五月を思い出
す。そしてまだ音楽家とも名乗らなかった彼の白い指を思い出す。




LOUDLAND! LOUDLAND!



 舞台の上というのは足音が響くものだと、モジャは実感した。前をこつこつと歩く紳士
の後につけ袖から一歩踏み出すと、調弦の音が一際鮮やかにその耳に飛び込んできた。制
御されない色の束を自在に三次元に配置するイメージが身体の中を駆け抜ける。最初の一
歩だからこそ感じる感動。モジャは軽く瞼を伏せる。部屋に戻ったらすぐにも形にしたい。
弦のセピアと赤。木管の緑。深く沈む蒼が黒にさえ見える深い深い暗い淵…。
 名前を呼ばれた。モジャは軽く俯いていた顔を上げた。深い蒼が波紋の静まるように消
える。そして一人の男が顔を上げた。チェロを抱いた男と目が合った瞬間、モジャは軽く
息を飲み、そして紳士に促されるまま会釈をした。チェリストは目の中で少し驚いた色を
浮かべて、すぐにそれを笑顔の中に溶かし、手を差し出した。
 二人は軽く握手を交した。モジャはその手を覚えていた。その顔以上に覚えていた。頭
の中でイメージが多重露光のように浮かび上がる。すらりとしている。節がごつりとして
いる。長い指。まっすぐに伸びる蒼。指先から咲く白い花。
 制御不能の色の束が壊れてしまう。イメージの全てが彼の手先に収斂する。三次元を押
しつぶし、二次元を細く縒り、一次元のイメージだけがモジャを占める。もう音楽は音楽
ではない。調弦の音鳴り響く舞台の上に存在するのは、
「モジャ」
 気を失う寸前に見たのは、一次元から解き放たれた再び制御不能の音の束。ホール一杯
に鳴り響く全ての楽器の第一音。音楽が、世界を、変えてしまう。まさか…!

 ホールの外のベンチに横になり、紳士のコートに包まれてモジャは演奏を聴く。紳士は
時折優しくモジャの肩を叩く。その日モジャは、チェロを抱いた男の名前を知った。




優しい木曜日(夜)



 パーティーの熱気が窓ガラスを曇らす。外は音もなく雨が降っている。黒い窓を斜めに
切り裂く銀の雨に身体を半分傾け、モジャは紳士達の噂話から逃れようとしている。画壇
のスキャンダルに楽壇のゴシップ、同じ噂話がもう何時間も繰り返し続けられている。モ
ジャはアルコールは得意ではなかったし、増してこの煌びやかな噂話は目に眩しすぎるも
のだった。
 慣れないワインを飲み干すと、すかさずボーイが近寄ってくる。それを目で断った、つ
もりだったが、グラスにはまた新しいワインが注がれている。知識人の輪の中心にいたソ
ムリエらしき人が、朝焼けの草原を…、とかいうことを言っていた気がする。モジャはグ
ラスの中を覗きこむ。しかしその中にあったのは朝焼けの草原ではなかった。闇だ。闇の
中に小さな明かりが。あれはパパのデスクのスタンドの明かり? ベッドの中から見上げ
た暗い紫色の闇。その深い色合いを見つめていると、少し足元が揺らいだ。
 ワインチャームがチリリと音を立てた。モジャは倒れてはいなかった。誰かが腕を支え
てくれた。長い指が、モジャの手からグラスを取り上げ、くいっと一息に飲み干してしま
った。
「出ようか」
 若い声には聞き覚えがあった。チェロの調弦から顔を上げた人。紳士の紹介で再会した、
彼。花屋の前で出合った音楽家。
 モジャは恐る恐る顔を上げた。音楽家は微笑んでいた。ワインで頬が赤くなっていて、
まるで子供のようだった。すると、目が合った途端に、きゅっと眉を寄せる。
「あ、飲んじゃった」
 思わず笑みがこぼれた。モジャはうなずいて、パーティーを後にした。

 雨の中をわたる風は肌寒いほどだったが、酔いに火照った二人にはちょうど心地よいも
のだった。二人は一つの傘の中で肩を寄せ合いながら、大通りに向かって歩いていた。お
ぼつかない足取りのモジャに音楽家は、タクシーを呼ぼうかと提案したが、モジャは断っ
た。一応、切り詰めて生活しているのだと言うと、音楽家もうなずいた。
 音楽家は、切り詰めた生活の中で、それでも美術展を見に行った、とモジャに言った。
「君の作品があったよ。とても小さな作品だったけど」
 長い指が弓を持つように持ち上がる。そして、雨の弦をそっと弾く。
「僕は言葉は下手だけど、小さいのに、どこまでも広がるみたいな絵だったね。コップの
中を覗いていたら、いつの間にか海の中を泳いでいるみたいな……誰かと肩がぶつかって
ようやく、自分が美術館にいることに気づいて、ハッとしたんだ」
 モジャはワイングラスを思い出す。ワインの深い紫色を底へ底へと泳いでいった。彼が
連れ出してくれた。
 しかし音楽家は、素人なのに知ったようなこと喋りすぎたなあ、と架空の弓を手離し赤
い顔を覆った。
「ごめん。気を悪くしないでおくれよ。ただ、僕は、君の絵が好きになったんだ」
 ひくっ、とモジャの喉の奥が鳴った。彼はその痙攣を飲み込み、ようやく小さな声で
「ありがとう」
 と言った。
 通りはいつの間にか大きなものに入っていた。しかし二人は肩を寄せ合ったまま、歩き
続けた。初めて楽器を練習する拙い旋律のように、おしゃべりは続いた。時々、小さな沈
黙が出来て、そのたびにお互い顔を見合わせて、少し吹き出した。
 十字路に差しかかり、二人の足は止まった。おしゃべりも止んだ。音楽家は傘をモジャ
の手に握らせた。モジャが首を振ると、僕の家は近いよ、と笑った。
「でも、風邪をひくかも…」
「そりゃあ、君だって」
 音楽家はちょっと考えるように頭を掻いた。
「なんなら、君が、僕の部屋に来るのもいいかもしれないけど」
 その時、モジャは意識せず一歩下がってしまった。音楽家の頭の上には、不意に雨が落
ちてきた。しまった、とモジャが顔を上げた時、音楽家は笑った。
「濡れた僕の勝ち」
 そしてモジャの両手を傘の柄に添えさせる。
「じゃあね、おやすみ」
「あ……!」
 雨の中を駆け出そうとする音楽家をモジャは呼び止める。すると彼はくるりと振り返り、
モジャの前に戻ってきた。
 火照った頬に雨粒が触れた。雨の匂いが鼻の奥に吸い込まれる。冷たいけれど優しい匂
いだ。音楽家は柔らかく重ねた唇を、やがてそっと離した。
「おやすみ」
「……おやすみ」
 夜闇の中で雨は銀色に光る。その中を音楽家の後姿が駆けてゆく。服を濡らす雨粒の一
滴一滴、靴が水溜りを踏んで、飛び散る水滴の一粒一粒まで、モジャには見えた。音楽家
の背中が見えなくなるまで、モジャはそこを動かなかった。




眺めのいい部屋/連載小説



 雨が降り出した。その影が窓辺の鉢植えの上に落ちる。その瞬間、モジャは彼の部屋に
いることを急に心の底から実感して、深い溜息をついた。
 音楽が止んだ。彼がチェロを弾く手を止めて、こちらを見ている。
「どうしたの?」
 彼の耳は些細な一息さえ拾い上げる。モジャは彼を振り向き、首を横に振った。
「続けて」
「…あ」
 彼の目が丸くなる。そして笑う。何、とモジャは尋ねる。
「笑ってるね」
 弓が弦の上にそっと乗せられる。そして穏やかな旋律が再び始まる。モジャは振り出し
た雨を眺める。雨音と調和するような曲に、音楽は変わっている。
「モジャ」
 旋律に乗せて、言葉が届けられる。
「また来週から遠くの演奏会があるんだけど」
 モジャは鉢植えに目を落とす。小さな葉。少し日の照りすぎだろうか。黄色くなってし
まっている。
「留守番してくれるようなルームメイトが欲しいと思うんだ」
 小さく息を吸う音を、彼は聞いたのだろうか。
「どう思う?」
「…いいね」
 音楽家は続ける。鉢植えに水をやってくれたり、素敵な絵を描いてくれたり、
「冬には、デッサンをしながら、ストーブでパンを焼いたり」
 モジャは小さな声をたてて笑った。
 彼も笑った。
「おいでよ、モジャ」
 雨音を溶かすようにチェロの響きは流れた。ゆるやかに流れながら、何かを溶かすのが
分かった。笑いながら、モジャは流れてきた涙を拭った。そしてうなずいた。涙の流れる
音も、そのうなずきさえ、彼には聞こえていたに違いなかった。




ダーリン・オブ・ディスコティック part.1



 夕明かりを受けてチェロは優しく光っていた。その大きな楽器を抱くように、モジャは
支える。右手に弓。後ろから彼の手がそっと添えられる。緊張しなくてもいいと言われて
も、少し身体が硬くなる。そしてもう三年以上も顔を見ていない兄弟のことを胸の底で思
い出した。ララは誰にでも楽器を触らせたし、モジャにも触っていいと入った。一度、タ
ンバリンか、単純な打楽器を鳴らしたことがあるけれども、やはり音楽はララのもので、
モジャの手の中でどうこうし得るものではないと思っていた。
 なのにこんな大きな楽器を。しかも彼の大切にしている楽器を。
「やっぱり、できない」
 小声で呟くと、大丈夫だよ、と彼が耳元で囁くように励ます。
 しかし、モジャにはやはり出来ないと思った。腕の中に何かのあることが、まず違和感
があって仕方なかった。彼が抱き締め得たものなんて、人生の内にはなかったし、あると
も想像したことがなかった。
 優しく添えられた彼の手に、不意に力が入る。弓が引かれる。
 一音。
 たった一音が部屋に響いた。それは思いの外大きく、いつまでも残響が部屋に残るよう
だった。モジャはびっくりしてしまって硬直する。が、背後で音楽家は感心するように溜
息をついた。
「モジャ」
 モジャは首をひねって、助けを求めるかのように彼を振り向く。すると彼は声と同じ感
心しきった顔で、わずかに頬を紅潮させモジャに入った。
「すごいよ。ハレルヤの第一音だ」
 日がビルの向こうに落ちるまでレッスンは続く。Aの音から。音は長く長くフェルマー
タ。階下から、あるいは街路からこの部屋を見上げて耳をすました時に聞こえたのは旋律
だったろうか。音楽だったろうか。しかし彼の手が添えられ生み出される音は、彼が隣に
いる限りモジャにとって失われたものとは全く違う、新しい音楽だった。
 そして、ハレルヤ、と彼は低音の声を響かせてゆっくりゆっくり伸ばして歌う。まるで
子守唄のように、一音を長く長くゆっくりと。そして優しく。
 日よ暮れないで。モジャは床に落ちる影を見て祈る。どうぞこの夕方をいつまでも続け
て。彼のいる限り。この音楽の続く限り。




ダーリン・オブ・ディスコティック part.2



 声を押し殺しているという意識もない。闇の中から伸びてきた手が唇を撫でる。引き結
ばれた唇の上を優しく撫でて、それからキスが下りてきて。モジャは心の中で、ごめん、
と呟いて、でも決して声を漏らしはしない。キス。キス。唇を開き、触れ合わせて。鼻か
ら息が抜ける。それが聞こえるとモジャの顔はつらく強張ってしまう。するとキスが離れ
る。そしてまた撫でる優しい手。
 出会ってから、夏、秋、冬、春、夏、秋……と幾つもの季節を過ぎる中、彼がモジャの
過去を尋ねたのは初対面の頃の一度だけだし、キスやベッドの上でのことは全て優しい微
笑みを向けるだけで、何も尋ねたことなどない。
 いい、と言ってあげればいいだろうか。いい、と一言声を漏らせばいいんじゃないだろ
うか。昨夜ドラマを観ていた自分が頭の隅で囁く。しかしモジャは唇を結んだまま、彼の
手に身体をまかせるだけ。自分の声一つが一体彼の何を報うのだろう。ただでさえ。
 急に涙が滲んだ。真っ暗闇の中で、それを知っているかのように彼のキスは目元に落ち
る。

 小さな明かりがともる。マッチの炎はほんの短い瞬間、彼の顔を照らしてすぐに消える。
炎の残像の中に小さく、赤く燃える煙草の先。モジャのかいだことのない外国の煙草。
 モジャは起き上がる。そして背後から彼を抱き締める。チェロを抱くのに躊躇した腕を
恐る恐る伸ばし、彼の胸に触れる。自分の胸を彼の背中に押し当てる。モジャは彼を初め
て抱き締める。




めざめ



 目が覚めると、朝はまだだった。しかし枕元の時計を見れば午前何時と表現することが
できる。テレビをつければ、おはようございますの挨拶と共に朝のニュースを流している。
こんな時間を、隣で眠るモジャは何と表現するのだろう、と彼は考えた。モジャが絵筆を
握って表すものは、言葉以上に雄弁だ。悲しみ、幸福、別れ、それらの片鱗は全てモジャ
の描いたものから入ってきたものだった。深い青の底に閉じ込めたかのような何か。彼が
夜明け前と口にしてしまえば終わってしまうこの時間を、彼、音楽家はモジャの描いたも
ので見てみたいと思った。
 彼はモジャの寝顔を見下ろした。すると半分枕に沈み込んだ白い顔が柔らかく浮き上が
る。カーテンが光を含み始める。モジャの寝顔はいつも頑なだ。しかしその頑なな寝顔の
中で、瞼がぴくぴくと動いて、美しい眼球の存在を知らしめる。身体が目覚める準備を始
めている。彼はそっと微笑んで立ち上がり、朝のお茶と出立の準備を始めた。
 モジャはなかなか目覚めなかった。このまま寝坊させてもいい。彼はそう思った。彼の
分のお茶はもうなくなってしまったし、チェロは玄関口で出発の時間を待っている。彼は
最期にこれだけ、と少し悪戯心めいてベッドの上に身を乗り出した。カーテンの向こうの
窓を開ける。朝の風はひんやりしていたが、朝日と肩までかけた羽根布団がモジャをあた
ためてくれるだろう。アラームで目覚めさせたくはない。優しい目覚めをモジャが迎える
といい、と思う。
 その時、空耳のように名前を呼ばれた。
 さっきまで瞼に隠されていた瞳が朝日を受けてわずかに閃いた。寝起きの涙を浮かべて
いるのだ。モジャは小声で、おはよう、と言った。彼も小声で、おはよう、と返し、ちょ
っと笑った。モジャの口の端にはよだれが光っている。彼はそれを指先で拭ってやる。モ
ジャの顔は布団の中で赤くなって、もう一度彼の名前を呼んだ。
 モジャは名前の通り髪の毛を起きぬけのモジャモジャにしたまま、彼を玄関まで見送っ
た。荷物の少しだけ詰まったトランク。そして彼の大切なチェロ。彼はその両方を一度手
放して、両手でモジャの頬を包み込む。そして額に落とす口づけを一つ。
「それじゃ、留守を頼むよ」
 モジャも口づけに答えるように、一つ頷く。
 彼は口づけあとに自分の額をそっとぶつけて、笑った。
「すぐ、帰るよ」
 朝日の中に街も、このアパートも、彼の姿も溶けてゆくかのようだった。白い光がいっ
ぱいにモジャを包み込んで、モジャは手を振る彼を見送るために目を細めた。




優しい木曜日(9月)



 モジャはゆっくりと目を覚ます。それが目覚めであることも気づかないかのように。そ
れは彼の起こしてくれる目覚めとよく似ていた。カーテンが開いている。窓辺に置いた鉢
植えの影が頬を撫でていた。フォーゲットミーナット。暖かな部屋の中で季節外れに咲い
た花。モジャはベッドから抜け出し、コップに水を汲む。自分で一杯飲んで、もう一杯を
鉢植えの根元に注ぐ。水色の小さな花びらがふるふると揺れる。
 彼の部屋で暮らすようになってから手抜きしないで作るようになった朝食。朝日は優し
くかげり、窓からは薄く白い曇り空が見える。空全体が光をはらんでいるような曇り空だ
った。コーヒーを運んでくると、ちょうど通りを斜めに見下ろした時に見える彼方に天使
の梯子の下りているのが見えた。モジャは銀製の梯子を思い浮かべる。ちょうど、揃いで
買ったティースプーンの色と同じ銀だ。
 急に彼の目の前からは朝食も消え、モジャはただ一つの欲求のようにスケッチブックと
木炭を手にする。小さな小さなその作品を描き上げた時、勿論、コーヒーは冷たくなって
しまっていた。
 この作品は銅版画にするのもいいかもしれない。そんなことを考えながら新しいコーヒ
ーをいれる。トーストも冷めてしまっているのに苦笑。一口齧って、次はコーヒーとうろ
うろしていると、ドアの下に新聞が挟まっているのに気づいた。
 木曜日だった。天気は朝から曇り。所によって小雨の予報あり。街は穏やかな週の中日。
モジャはその朝、とうとうあたたかいコーヒーを飲むことが出来なかった。
 海外の飛行機事故の記事は一面の左下を四分の一、占めていた。そこには売れ始めたこ
の国の音楽家が搭乗していたからだ。斜体で印刷された彼の名前は、モジャを見上げて、
ただいま、と囁いた。モジャはただただ、ただただ、何も出来なくて。息さえすることを
忘れて、じっと彼の名前を見つめた。コーヒーの湯気が消えてゆく。窓の外をゆっくりと
天使の梯子が流れてゆく。