MONSTER



 テーブルの真ん中には画用紙が一枚置いてあって、そこにはこう書かれていた。

 『世界に、洪水がもう一度起こったとして。』

「起こったとして」
 リブが人差し指をピンと立てる。
「誰を助ける?」
「はいはいはいはーい」
 ベルが手を挙げ、早い者勝ちだとでも言うように身を乗り出した。
「あたしパパに助けてもらう!」
「ベル、助ける話をしてるのよ?」
「だってパパに助けて欲しいんだものー」
 仲がいいはずなのに急に異種言語を話している気分になる。リブが前途多難とばかりに
溜息をつこうとすると、ごん、と音がしてブラボーの靴がテーブルの上に乗り、馬鹿にし
きったように言った。
「そんなんママに決まってるじゃんよ」
「わあ、言うと思った」
 感情のこもっていない声でズーが言った。
 ピカリが後をつぐ。
「俺たちは洪水になっても離れてやるよ」
「ありがとよ」
「お前と、カインとアベルは演じたくないし」
「は?」
 リブがうなずきかけて、わざとらしい咳払いをする。ピカリの意見に賛同しそうになっ
た自分がちょっと嫌だったからだ。
「じゃあお前らは誰だよ」
「別に助けない」
 ズーが答えると、ほらこれだ、とブラボーは肩をすくめた。
「お前、時々人間じゃないだろ。愛がねーなー」
「かもな」
「認めんなよ兄弟だろが!」
 ブラボーが彼なりの怒り所で怒るが、あまり頷く者はいない。
 するとリブが急に笑みを浮かべた。
「ピカリは?」
「…彼女かな」
「研究室の?」
「悪いか? 家族はお前らにまかせるよ」
「んだよピカリ、お前、新世界のアダムとイブとか考えてやがんだろ」
 と、ブラボー。
「生物は遺伝子の船だ。それを受け継ぐために男も女もいる」
「頭よさそうに言っても、ただのスケベだからな」
 実際ピカリの頭はいいのだけれども。
 ズーはララを見る。ララは微笑んで、じゃあ私はズーが助けてほしい動物を助けようか
な、と言う。ズーは別にそんな希望などない。生き残るものが生き残り、淘汰された更地
に新たな息吹を上げればいいと思う。そのあたりのことをララは理解していないのではな
く、慈愛からズーにそう提案するのだ。
「じゃ、ララの目の前で沈みそうな奴を」
「それが象でも?」
「うん」
「ゴキブリでも?」
「当然」
「まいったなあ」
 眉を寄せながらも、ララは笑っている。しかしほとんどその言葉通り、きっとララは目
の前で溺れそうになっている者を助けるのだろう。それが沈むことを望んでいるズーでも、
テーブルの隅で兄弟たちの話を聞くだけのモジャでも、そしてもしかしたら誰もが手を差
し伸べるのを忘れてしまっているリブでも。
 勉学こそが全てで、強い女代表とでも札を下げているかのようなリブは、場を収めるこ
とをまだ放棄せず、ペンで幾度もテーブルを叩いた。その時。
「こら」
 低く、深い声が兄弟たちを包み込んで、おしゃべりは一斉に止んだ。
「パパ!」
 ベルが一オクターブ高い声で叫んで、その首にかじりついた。しかしパパは両手の荷物
を取り落とすことなくベルを抱きとめる。
「討論もいいが、白熱しすぎじゃないかね、諸君」
「ねえ、ねえねえ、パパなら誰を助ける? もしも世界にもう一度洪水が起こったら」
 パパは期待に瞳を煌かせるベルを優しく床の上におろし、その鼻を軽く摘んでみせた。
「勿論、ママさ」
「えー、ううん……、でも、でもイヤー!」
 ママにただいまのキスをしに台所へ向かうパパの後を追いかけて、ベルの高い声が響く。
「お願い、私を助けて! ねえ、パパ! パパ!」
 それで会議は解散になった。何人かはテーブルに残って飲み物を所望した。ララは席を
立ってママと一緒にお茶をいれた。
 末席に着席していたモジャが、そっと立ち去った。誰もモジャには尋ねなかったし、モ
ジャも口を挟まなかった。けれどもモジャだけでなく、兄弟の誰もが口に出さずとも知っ
ていた。モジャは誰も助けることが出来ない。
 ピカリはモジャの後を追わなかった。彼女のことについて、ブラボーと話していた。

 その夜、夢を見た。昔のことを思い出していた。曇り空が低く垂れ込めていた。冷たい
風が吹いていた。ピカリは一人で森に向かっていた。否、かつて森のあった場所へ向かっ
ていた。新たな道路と開発のため、そこにあった木々は切り倒され、掘り返され、無理に
埋め固められた灰色の更地の只中にモジャは立っていた。涙も感傷もない、そこには喪失
さえなかった。最初から失われるものさえない虚無だった。その中に、モジャはいた。し
かし紙のように真っ白な顔色のモジャからは、虚無からさえ貪欲に毟り取る喪失がつきま
とっていた。あの日、ピカリはモジャに声をかけることが出来ないまま家に帰った。
 今、夢の中でピカリはモジャに手を伸ばそうとしていた。もしもこの世が滅びたら誰を
助ける? 決まっている。最初から決まっていた。遺伝子の船など関係あるものか。それ
が洪水でも、南米の神話の火の雨でも、デウスの落とす雷だろうとも、ピカリが助けよう
と思う者は一人しかいない。そう夢の中のピカリは信じていた。
「………」
 ピカリは相手の名前を呼ぶ。呼んだはずだ。しかし相手は振り向かない。ピカリは手を
伸ばして、相手の腕を掴む。引き寄せ、まじまじとその顔を見る。しかし、相手は訝しげ
な顔と声で自分に尋ねるのだ。
「パパは?」
 自分は答えられない。
「ママは?」
 自分は答えられない。
「ズーは? ララは? ブラボーは? ベルは? リブは?」
 自分は答えるかわりに相手の身体を抱き締めるが、その身体は砂で出来ているかのよう
に粉々に砕けてしまうのだ。
 とんでもないことを仕出かしたという恐怖がじわじわと全身に広がり、叫びだしそうに
なる。

 寒さで目が覚めた。毛布がベッドから滑り落ちていた。ピカリは時計を見たが、数字が
頭に入ってこない。闇夜だ。ただ、闇夜だ。空は雲って、星さえ見えない。
 ピカリは壁に向かって手を伸ばした。壁の向こうに向かって手を伸ばした。
 ぼとり、とただ血肉の詰まった袋のように身体が床の上に落ちた。そこで初めてピカリ
はうめき声を上げて、頭を抱えた。
 世界に二人だけならいい、と生まれて初めてピカリは思った。




天体観測



 部屋の中は闇ではなかった。どれもこれもがはっきりと見えた。ランプシェードや、壁
紙の模様、乾燥中のカンバス、油のビンはぬるりと光り、まるで明かりを溜めていたかの
ようだ。痩せた身体を包み込む毛布。皺の寄ったシーツ。黒髪。
 モジャは眠れないまま、瞼を開いている。夜だ。しかし闇ではない。得体の知れないも
のが手を伸ばしてくることもない。どれもこれも見慣れたものが見慣れた場所に並んでい
て、永劫の時をそのまま、崩壊さえせずに続いていくような気がした。自分はこのまま、
眠れないまま死ぬのだろうか。
 そうじゃない。眠れないまま、死ねないのだ。
 ぽっかりとした虚空に魂が落ち込んでゆく。身体は朽ちることなく、那由多を越えて寝
台に横たわっている。寂しさはいつものことだった。死ぬまでそうだろう。死ねないのな
ら、ずっとそうだろう。
 モジャはベッドから抜け出す。窓を開けると、西の空に沈みかけた月の明かりに全ての
景色が影を負っていて、ひどく静かな空気をかもしていた。地動説は嘘かもしれない、と
モジャは思った。やっぱりこの世界は、ずっと端の方で崖になっていて、皆、そこから落
ちてしまうんだ。
「モジャ」
 誰かが呼んでいる。
「モジャ…」
 窓から身を乗り出す。同じく窓から身を乗り出したピカリの姿が月に照らされていた。
「寝てなかったのか?」
 小さく頷くと、ピカリが手招きをした。
 モジャは音を立てないようにピカリの部屋に向かう。ドアの前に立つと、計ったかのよ
うに静かに開きドアマンのピカリが部屋の中へ促す。モジャが足を踏み入れると、背後で
ドアは音もなく閉まった。
 大きな天体望遠鏡が空を向いている。
「まだ月が出てるだろ」
 隣に来たピカリが静かな声で説明する。
「月が沈むと、星の光がぐっと増すんだ」
 二人で窓から星空を見上げる。月が西の地平線の向こうに、沈む。
 小さなものたちが一斉にひそやかな声を放ったかのようなものを感じた。モジャは吸っ
た息を、少し震えながら吐き出した。それまで見えなかった小さな星の姿まで、空にはさ
っきまでの倍の倍も星が輝いていた。砂が浜を埋め尽くすように、その数は知れない。
「増えた」
 まるで魔法のように。宇宙の中心であるこの地上の為に、天空中の星が姿を現したかの
ように。モジャは一言呟いた。ピカリは満足そうに笑った。
「何か観たい星はない?」
「…土星の輪」
「う…ん、ちょっと無理かな」
 しかしピカリは土星の方角へレンズを向ける。集められた光が小さな覗き窓からモジャ
の目に飛び込む。モジャはすっかりそれに見惚れている。ピカリはそれを後ろから覗き込
むように、小さな声で説明を付け加える。
「天文台に行けば、見えるんだけど…」
「なに?」
「土星の輪」
「色も見える?」
「輪の色…?」
 初等部のころ、絵の先生が嘘ついたんだ、とモジャは言った。
「土星の輪には全ての色が入ってるって」
「………」
「ぼく、虹より凄いと思って…」
「…その時、俺に言った?」
「え?」
「土星の輪、見せてって」
 モジャは軽く首を横に振った。ピカリが天体望遠鏡を持っていることは、兄弟みんな小
さい頃から知っているのに。
「モジャ、今度天文台に行こう」
 望遠鏡を覗いたまま、モジャは返事をしなかった。
「イヤかい?」
「…この天体望遠鏡を持って行くんじゃ、駄目?」
 顔を上げる。星明りにモジャの顔が少し紅潮して見える。
「空の綺麗なところに、これ、持って…行けないかな…」
「行こう!」
 ピカリはモジャの手を握った。

 ので、ある夜、二人でこっそり家を抜け出して望遠鏡を担いで天体観測に出かけたのだ
けれど、帰ってくるとパパが起きて玄関で待っていた。ピカリだけ、怒られた。モジャは
俯いて、ピカリの袖を握っていた。




スプリング・イズ・スプリングス



「春は希望の泉」
「私、キングは嫌いよ」
 リブが言う。ララは残念そうに振り向く。
「でも読んだじゃない」
「今はもう、あまり面白く感じないの」
 ララはちょっと迷って
「私は、今も好きかな」
 と呟くけれども、新刊はちっとも読まない。いつだって読むのは同じ物語。
 初夏の晴れた午前、屋根の上にのぼりペリエの壜と楽器を片手に。覚えた節を歌に乗せ
る。希望とは素晴らしいものよ。屋根のタール塗りを終えた囚人じゃないけれど、初夏の
よく晴れた屋根の上は確かに自由だ。
 明るい光と共に降り注ぐ歌声に誘われて、動物たちは皆、逃げ出してしまった。いつも
肩に乗るオオハシさえ呼んでも帰ってこないので、それがあまりに愉快で、ズーは気分が
よくなったのか、ララのいる屋根の上に登る。
 来客をララはペリエでもてなす。ズーはララの歌にあわせて動物の鳴き声を出す。手指
や唇から器用に鳥の声や、四つ足の獣の様々なコミュニケーションの音が飛び出す。
 ララが楽器を置いて、手を伸ばす。ズーはその手のひらに自分の手のひらをぶつけて音
を出す。伴奏は単調な、二人の手拍子に変わる。ララは様々に手のひらを躍らせる。ズー
はぴったりの息でその手のひらを叩く。
「歌って、ズー」
 ララが笑う。ズーは詞もない声の長く伸び、流れるだけの旋律を歌う。ララが高い音で
それに調子を合わせる。
「春は希望の泉?」
 下の階の窓からリブが顔を出す。窓辺にオオハシが舞い降りる。羽が舞い上がってリブ
はくしゃみをする。
「でも、あのタイトルは恐怖の四季よ?」
 湧きいずる泉のように二人の歌声は絶え間なく。




リリィ



 パパとママが二人きりで旅行に出かけた。
 家に七人の子供が残された。

 リブがキッチンに立った時、多分、誰も心配をしていなかった筈だけれども、今、子供
達の目の前にはバケツ一杯のパスタが溢れている。子供達は長いソファに並んで腰かけ、
タバスコをかけたパスタを映画見ながらだらだらと食べた。
「よく晴れてるわね」
 ララが呟いた。サウンド・オブ・ミュージック。もう何度見たか分からない。真面目に
見ているのはモジャだけだ。ララはフォークを皿の上に置いて、窓を見上げた。
「午後から曇りだよ」
 ピカリが答える。足元には、ソファに背をもたれるようにしてモジャが座っている。目
はじっと映画に釘付けになったまま、時々思い出したようにフォークを動かしてパスタを
食べている。辛いのを我慢しているのか、目の縁に涙が滲んでいる。
「雨降ったら全員で外に出るぜ」
 ブラボーが言った。嫌な予感がしたのか、リブが横目で「何?」と尋ねる。
「シャワーも洗濯も面倒じゃん。いっぺんに済ますんだよ」
「馬鹿言わないでよ」
「でも面白そう」
「ベル!」
「シャボンで洗えばいいだろ」
「ブラボー、もう黙って」
 リブは兄弟二人を叱るだけ叱って口いっぱいにパスタを頬張る。ズーが父親似の顔を薄
く歪めるように笑って、タバスコで真っ赤になった唇を拭う。
「でも、そんなことして遊ぶのって、初等の時以来じゃない」
 ララがリブに微笑みかけるが、しかしリブは眉をひそめて、
「でも私たちが今いくつだと思って?」
「その後でシャワーを浴びて、洗濯をすればいいわ」
「…本気なの、ララ」
 くすり、とララは笑った。
「だって、久しぶりなんだもの」
「私はパパとママがいない時こそ規律は守られるべきだと思うわ」
 モジャを覗く男三人が目の前のバケツを見て、ふん、と鼻で笑う。モジャは会話を聞い
ているのかいないのか、その姿はサウンド・オブ・ミュージックに見入っているようにし
か見えない。ただ、タバスコで赤く染まった唇がつるりとパスタを飲み込んだ。
 不意に電話が鳴った。三コール。誰も立ち上がらなかった。四コール。リブがナプキン
で口元を拭い、立ち上がる。五コールと六コールの間の沈黙に受話器が取られた。ソファ
の上は急に静まり返る。映画の声だけが聞こえる。マイ・フェイバリット・シングス。皆
の耳は電話の声に引き寄せられ、涙の膜の上に映画が虚ろに流れる。
 パパとママからの電話だった。
 映画が終わり、ブラウン管が黒く静まり返る。兄弟達は皆、パスタの皿を投げ出してし
まった。タバスコの匂い。まだバケツの中の冷めたパスタ。ズーが水を取りに立ち上がる。
ララがその後を追って、人数分のコップを持ってくる。
 辛い匂いが残ってると言いながらブラボーが窓辺に寄る。窓を持ち上げ、空を見上げる
と雲が屋根の上を覆っている。
「あ」
 ブラボーが笑った。
「雨だ」
 ふと赤い後姿が窓辺から消える。
「ブラボー!」
 リブが慌てて駆け寄り窓から身を乗り出すと、にゅっと腕が伸びて彼女の身体を外に引
っ張り出した。ブラボーを罵る悲鳴と、当の本人の磊落な笑い声が庭に響く。ベルがお気
に入りのカーディガンだけは脱いで玄関に向かう。ララは窓の下で裸足になって、ひょい
と飛び降りた。
 残されたズーとピカリとモジャはしばらく動かなかったが、ララの歌声につられるよう
にオオハシが羽ばたいていってしまったので、ズーが仕方ないふうに窓から顔を出す。取
り敢えず後ろは振り向かずニヤリと一人で笑って、同じく窓から庭に飛び出した。
 ピカリは背もたれにゆっくりともたれ、天井を向いて溜息をついた。
「ピカリも行けば?」
 不意に足元から声がする。モジャが見上げている。唇や頬にタバスコがついている。ピ
カリはそれを自分の袖で拭ってやると、モジャは?、と小さな声で囁いた。
 モジャは困った顔をして、笑った。
 小さい頃使っていた小型のプールとシャボンを手に、ピカリが外へ出る。モジャは玄関
先に腰かけて、足を雨に濡らす。緑の芝が濡れている。兄弟が泡にまみれている。歌声が
響く。マイ・フェイバリット・シングス。私のお気に入り。雨とシャボンと六人の兄弟達。
「マイ・フェイバリット・シングス」
 モジャは裸足を雨に濡らす。




冥途パロディ



 昼間から一緒に歩いていたのに子供の手は冷たいままだった。彼は六人の子供たちの抱
き心地を思い出した。むれたような汗と子供の匂い。柔らかく指が沈みそうなあたたかい
肌。まるで違うものだった。夜の中でひっそりと取り出した凍土の氷のようだった。
 モジャはただ俯いてついてきた。サイレンが近くで鳴っていた。悲鳴と、暴漢の怒鳴り
声、幾つもの靴音。モジャは立ち止まり、あたりを見回した。古いビルと、石造りのアパ
ートの並ぶ通りで、急に戦争の只中にでも陥ったかのように、足をすくませ、じっとして
いた。彼はその手をとった。白く、細く、冷たい手だった。
 酒屋に入り、ワインを注文する。出されたので飲むと酸っぱいビールだった。文句を言
おうとしたが、足元にしゃがみこんだモジャは黙ってそのビールを飲んでいた。仄暗い店
内には何人も人間がいるようだが、よく分からない。まさか、こんな粗悪なビールで酔い
がまわった訳でもあるまい。しかし、隣で話す声は聞こえるものの、何を言っているのか
分からない。その内、店内に蠢く意味不明の言語が水面のさざ波のようにジョッキを満た
して、段々と良い気分になってくる。
「まいった、朝から絵筆が握れないんだ」
 唐突にその声は言葉となって耳に響いた。彼は振り返るが、一体誰の発した言葉なのか
分からない。足元のモジャの肩がぴくりと震える。すると酔いが流れ出るように、彼は急
に不機嫌になる。声の主を質そうと思うが、自分の声はうまく言葉にならない。
 街路を光の帯が走る。サイレンが遠ざかる。すると店内の空気がそわそわと、落ち着か
なさげにざわめく。
「息子のために絵を描いてやったんだ」
 言葉はぽとりと波紋を落とし、妙に忙しくなった空気を鎮めた。さっきの声が力無く告
解する。彼は酸っぱいビールで唇を湿し、それに耳を傾ける。
「黒の絵の具だけは腐るほどあったのさ。それ以外は一つもなかった。マゼンタとホワイ
トを混ぜて、夕焼けみたいな色をなあ、塗ってやりたかったんだが、何しろグロッセンは
使い果たした。俺が全部飲んじまったんだ」
 知っていた。白の絵の具はジンクでさえいいと思っていた。男の心は、手に取るように
彼には分かった。彼は空のジョッキを強く握り締めた。
「だから完成しなかったんだよ、俺の絵は真っ黒でね。俺の子供は泣いただろうか」
 玄関先で泣きもせずにいた。眠っている訳ではなかった。澄んだ瞳が空を映していた。
夕焼けが空を覆い、まるで世界がそのまま止まってしまったかのような、そんな錯覚を覚
えた、つい昨日のことだ。自分は子供を腕に抱いて。冷たい身体で。冷たい手で。一日中、
昼から手を繋いで歩いていたのに。
「そろそろだ、そろそろ鐘が鳴る」
 別の声が言うと、気配はぞろぞろと店を出始めた。ランプの影が揺れ、通りの闇に吸い
込まれる。と、その瞬間。
「父さん!」
 叫ぶ声が身体を引き裂いた。モジャが影と共に外へ飛び出そうとしていた。通りには光
の帯と、空から降るような鐘の音。俺には黒の絵の具しかなかった、と声が遠くに響く。
その声に吸い込まれるようにモジャの身体は飛び出す。彼は手を伸ばした。子供の手を掴
む。
 熱い。

 腕の中に子供の泣き声が響く。堪えるようにモジャは泣く。彼はビルの隙間から見える
夜空を見上げ、この街はどこだろう、と考えている。バスは何時まで経っても来ない。時
刻表の文字は掠れて見えない。そこかしこに下がったランプの明かりがゆらゆら揺れなが
ら通りに影を落としている。
 ああ、知らぬ街に来たのだと彼は気づいて、腕の中の子供を抱き締めた。




第一夜パロディ



 色の違う靴を履いているので、片方欲しい、と言うとモジャは困ったように笑った。ピ
カリは、ズーが泣いて引き裂いた毛皮をモジャにかけようと思ったが、モジャはもう次の
エスカレーターに乗って上へと行ってしまっていた。慌てて追いかけるが左右を間違えて
しまったために高い回廊の全く反対側へ出てしまった。もう反対側の広い窓を背にしてモ
ジャは微笑んでいる。
「さよなら、ピカリ」
 囁く声がガラスの壁に反響して届く。そんなこと言わないでくれ、と叫ぶと遥か階上か
ら子供の泣き声が響いて、窓が全て割れてしまった。吹き抜けた空港の中心を、様々に彩
られた雨がしたたり落ちた。赤く滲む。ピンクに滲む。
「さよなら、ピカリ」(手みたいな色だよ)
 モジャは多くを語ろうとしなかった、今までも。自分はいつでも聞こうと思っていたの
に。いつでもモジャをこの胸に抱こうと準備していたのに。しかしモジャの言えなかった
言葉は、今、ガラスの破片を震わしてかすかに届く、それだけだった。
 雨が滴る。燃えるオレンジ。滴る紫。
「さよなら、ピカリ」(あなたは私たちの兄弟じゃないんだわ)
 違う、モジャ、そんなことはない。(じゃあ、近親相姦だぜ)。五月蠅いな、ズー、毛
皮でも食らえよ。(見たことあるか、俺の顔)。
 はらはらと、黄色が。
「さよなら、ピカリ」(俺の顔は、兄弟で一番パパに似てると思わないか)
 ピカリは回廊を走り出す。踏み出し蹴り去る先から回廊は崩れてゆく。ガラスの反響は
既に幾万の囁きを内包して、星空を背にするモジャに襲いかかる。赤い雨。黒い雨。橙の
雨。紫の雨。黄色い雨。ピンクが滴る。モジャの靴は両方の色が違うので遠くへは行けな
い。違う、帰ってはこられない。
「モジャ!」
「オー・ルヴォアー」
 星空にその身が投げ出される。ピカリも後を追う。水色の雨が降る。黒い夜空に水色の
雨が降る。モジャは困った顔で笑っている。
「ピカリ、お別れしようよ」
「嫌だ。モジャ」
 雨に打たれてモジャの身体は遠くに落ちる。ピカリが追いかけるから、もう追いつかな
いほど遠い星雲に吸い込まれてしまう。
「一世紀、待つよ」
 囁き声が水色の雨を震わせた。
「一世紀の間にピカリが僕を忘れてくれたら、その時は恋人になりましょう」
 こんな夢を見た。

 夜明けの匂いがした。雨は昨夜の内に止んだ、とつけっぱなしのラジオが囁いていた。
 ピカリは油彩の匂いの染みこんだソファから身体を起こし、薄暗い部屋の中を見回した。
 夢は次第に滲み、見えなくなった。