こんな夢を見た。(昇天)



 いつの間にか消えた歌声はララのものではなく、それこそ唯一モジャの歌声だったと知
ったが、時既に遅く二度とそれを聞くことは出来なかった。モジャは十字に分かれた廊下
の左へ曲がった先の病室に眠っているのだった。ピカリはナースに案内を乞うて、部屋の
前まで連れてこられた。名札はみんな真っ白で、上の端にモジャの名前だけがあった。
 両面の窓から日の光が白く病室を満たしていた。長いカーテンが並ぶ寝台を隠してしま
っていて、その一番奥だけがぽっかりと空いていた。モジャの寝台だった。ピカリはナー
スに礼を言って、部屋に二人きりになった。二人きりになった呼吸を感じながら、ゆっく
りと白い床を踏んだ。
 モジャは光に溶けるように白い顔をしていた。黒髪が柔らかく額や頬を覆うのが唯一の
輪郭線のように、その姿は頼りなかった。
「来てくれて、嬉しい」
 自分が何かを言い出す前に、囁く声が耳に届いた。モジャの瞼は閉じている。それがゆ
っくり持ち上がり、淡く笑んで「ピカリ」と名を呼んだ。
「まるで、元気みたいだ」
 椅子に腰掛けながらピカリは話しかけた。
「ピカリが来るのが解ってたから」
「誰かにきいたの」
「ううん。どうしても、解ってね」
 言いながらモジャの瞼はまどろむように半分閉じた。
 モジャの行方は去年の秋以来、ようとして知れなかった。通知は巡り巡りし、学会から
戻ったピカリのデスクの上で三日間待ちぼうけをしていた。慌ててやって来たピカリだっ
たが、その焦燥も汗の匂いも、病院の清浄な気配と薬品の匂いに消されてしまった。だか
らもう何の質しも出来ないのだった。何処にいたのか。何を考えていたのか。モジャはこ
の明るい光の満ちる病室の隅で寝台に横たわる、そればかりだった。
「まるで病気じゃないみたいだ」
 ピカリは繰り返した。
「肌も綺麗だし、声も」
「ピカリも元気そうだ」
「…そう見えるか?」
 モジャの手が柔らかい布団をのけて、すい、と伸ばされる。指の背がピカリの頬を軽く
撫ぜた。
「ごめんね」
 聞き返すともっと小さな声で、ごめん、と小さく呟いた。
「何がだよ」
 わざと明るい声を出し、モジャの手を包み込む。指先がひやりとしていた。こんなに明
るい光と白い布団に包まれているのに、まるで陶器のようだ。爪の内側だけ、ほんのり血
の通っているようなピンクに染まっているが、それさえ消えてしまいそうな儚さ。モジャ
は浅い息の合間に、ごめんね、と三度謝った。
「いいよ」
 ピカリは声を絞り出した。
「全部赦すよ」
 するとゆっくり溶けるようにモジャが微笑んだ。
「触って」
 促され、額から頭を撫でる。
「頭蓋骨はズーにあげる約束をしたから」
 モジャの言葉に心臓が縮み上がったが、顔には出さなかった。全て赦すとピカリは言っ
たのだった。
「魂と身体は、パパと、父さんに返さなければならないから」
「…赦すよ」
 違うぞ、モジャ。俺は家族が七人反対しようとも、お前を連れ帰って看病する。お前の
ためだったら研究も何も惜しいものなどあるものか。俺はお前を愛してるんだよ。
 手の中でモジャの指先がほんのり染まる。
「ピカリ」
 泣きそうな声でモジャは言った。
「じゃあ、やっぱりお別れじゃないか」
 微笑んだまま、泣きそうな声でモジャは言った。
「赦して」
「ああ、赦す」
「忘れて」
 ピカリは言葉をなくす。
「ああ、僕は百年待たなくちゃ」
「モジャ」
「自由に逢える時まで、百年、その時まで」
 忘れていてね、とモジャは囁いた。明かりが消えた。窓の外は月も出ぬ闇夜だった。い
つの間に日が暮れたのだろう。この病室は白いままだったのに。今は闇の中、長いカーテ
ンがひらめくばかりで、ベッドは覆い隠され、モジャの姿は見えない。ナースに促されピ
カリは長い廊下に出る。明かりが点々と消えて、ピカリが外へ踏み出た途端、錆びた音を
立て錠が落ちた。

 道は浜に続いていた。街を抜けると、強い潮風が頬を打った。急逝の知らせは、やはり
三日送れてピカリに届いた。研究室からありったけの紙を持ち出し、浜へ出ると、両手一
杯に抱えたそれを潮風に乗せて空に飛ばした。カモメの群れて舞うように、紙は青い空に
舞い、視界から没する。昼過ぎに水平線近くの海がきらきらと白く光って、そこに舞い降
りたのだと知った。
 日の光が七色に落ちる。ピカリは百年待つつもりで浜の岩に腰掛ける。忘れられなかっ
たその時は、自分がモジャの心を迎えにいくまでだ、と思った。




こんな夢を見た。



 子供の身体は細く、力を込めると簡単に折れてしまった。「そんなことも御存知なかっ
たの」と遠くで妻が言った。女は黒いスカートを翻して左の扉から出て行ってしまったの
で、残ったのは天井と背後に開いた窓だけだった。月光が弱々しく射し込んで、折れた骨
の奇妙な関節の上で砕けた。光が落ちるたび痛いのか子供は黒い瞳から涙をはらはらと零
した。足元には書きあがったばかりの図面が広がっていたが、ファクシミリは子供と引き
換えに売り払ってしまったので、仕方なく子供を抱いたまま図面を届けに外へ出た。
 夜の下に出ると子供は大人しくなった。月光は星が砕いてしまうので、関節は四つに増
えたまま子供の右腕はだらりと垂れていた。「パパはお酒を飲むね」子供が小さな声で尋
ねた。「人生の楽しみだからさ」彼は答えた。「これから僕を捨てに行くんでしょう」。
「よく知っているじゃないか」。「パパは僕が嫌いなんだね」。「お前を愛しているよ」。
「嘘もつくんだね」。「お前はさかしい奴だ」。
 放り出すと子供の腕はまた折れた。しかし子供は細い足でよろよろと草の上に立った。
意志を持たない腕が風に吹かれて揺れた。夜露に濡れて、服はどんどん黒ずんでいった。
彼は疲れていたので、それを隠そうと思わなかった。命令すると子供は素直に服を脱いだ。
開いた背中を紐で留めただけの、囚人のような服だった。
 指で押せば、肋が折れてしまう。しかし腰を抱いて、肩を掴んで自分の上に落とすと、
子供の身体は滑らかなゼリーのように自分の性器を包み込んで、まとわりつくように締め
上げる。アルコールのビンが散らかっていたので、なんて悪い子供だと思った。叱るよう
に頬を張ると、青い痣が身体中に広まった。
 顔の半分を真っ青に染めた子供を抱いている。星は全て落ちてしまって、地平の際で月
が揺れる草に運ばれている。子供の柔らかなブルネットが指に絡みつく。
「こんな夜だったね」
 こんな夜だったな。
「パパが僕を産んだのは」
 オレがお前を捨てたのは。

 痛みに近い感覚に急激に目が覚めた。心臓が高く音を立てる。一瞬自分の居場所がわか
らない。黒いカーテンに覆われた窓の向こうが赤い。夕方なのだろうか。狭い部屋に明か
りはなく、背後にかすかに寝息が触れる。ゆっくりと身体を起こす。モジャは胎児のよう
に身体を丸めて眠っている。仮眠室だ。頭の中で言葉にする。これは事務所の仮眠室だ。
 煙草をくわえると平生の仕草に少し心臓が落ち着き始める。うろうろと歩くと赤い点が
残像を残しながら揺れた。ベッドの端に腰を下ろし、彼は煙を吐き出すふりをして溜息を
ついた。
「私は男だ」
 オレは父親だ。
「子供なんか産めるはずがない」
 オレは自分の子供を捨てた。
「これは私の子供じゃない」
 これはオレの子供だ。

「こんな夜だったね」
 振り返ると、月明かりの下でモジャが服を落とした。
「パパが」
 裸身がもたれかかる。
「初めて僕を抱いたのは」

 目が覚めた。真夜中だった。図面は真っ白だった。
 煙草の火は消えていた。




クリムゾン



 誰でもやってることだって。女王陛下のしもべの狗だって、やってることだって。行く
先、行く先のベッドで、風呂で、プールでサウナでどこででも。何なら昨夜ブラボーが観
てた鞭持った考古学者だってやってるんだって。象に乗って、王宮に行って、それから仲
の悪かったはずの歌手の部屋に行って。それだけじゃない、ヴェニスでも。
 兄弟達より二本遅いバスで帰るピカリは窓に額を押し付けて、そんなことを考える。男
が時々堪らなくなるのは解るけど、まさか安手のポルノみたいに女も身体が火照るって言
うのか。それで、研究室を私用に使ったりするのか。嫌いじゃないけど、今日みたいに声
を上げる彼女を見たことがなかったから、ひどく疲れた気分だ。精気を吸い取られた、と
か。ただ素直に興奮はしてしまう。安手のポルノみたいに濡れた女。真っ直ぐなブルネッ
トを掻き回す。彼女は熱烈に口付けた。
 回想に耽る内にバスは発車しそうになる。慌てて鞄をかかえ駆け下りると、寒風がどっ
と全身に叩きつけた。火照った身体はあなたの方よ、ピカリ。頭の中で女の声がする。ノ
ン。ガールフレンド。れっきとした。
 しかし冷たい風に横っ面を叩かれてようやく目が覚めた。空はすっかり群青色に沈み、
あたりは静か……ではない。サイレンが鳴り響いている。やがて、ぽつぽつと佇んでいた
人が密集し、押せ押せとばかりに街中の炎を見物している。去年建ったばかりの新しいア
パートが燃えていた。窓から吹き上がる赤い炎が煙を染める。染められた煙は天にもうも
うと昇り、天国に向かって階段でもわたしているかのようだ。それを渡る人間がいないと
いいのだけれど。人は垣のように自然と距離を持ち、燃えるビルを囲んでいる。放水車と
消防隊員の怒号が響き、少し背伸びすれば、毛布で身体を包み震えている人々が見えた。
「ピカリ」
 女の声にびくりとすると、ララが腕を掴んでいる。
「…帰ってなかったのか?」
「ブラボーがね」
 ちょっと視線をやると、ブラボーとズーが最前列で燃え盛る炎を眺めていて、その少し
後ろに憤懣やる方ないという表情のリブと、飛んでくる灰を嫌そうに払うベルがいる。し
かし、そうだ。兄弟だから。兄弟を置いてなんて、帰れない。
 ピカリはびくりとして首を巡らせる。それをララの手が、そっと促す。そして黒髪の兄
弟を見つけたところで、手はそっと離れた。彼は迷わずモジャのもとに駆け寄った。
 モジャは野次馬とは随分離れたところに佇んでいた。その目は踊る炎を見詰めて、赤く
輝いていた。
「モジャ」
 ピカリは名前を呼ぶ。急に身体が冷たくなった。恐怖が胸の中に滑り込んだ。
「何泣いてんだよ、モジャ」
 モジャは返事をしなかった。ただ、時折、唇が震えた。

 鎮火まで見物して帰った兄弟達は、勿論両親からあたたかい説教をくらって食事となる。
しかしモジャは何だか安心した顔でスープを飲んでいる。頬がほんのり紅潮している。
 上の空のピカリに、リブの声が耳から入る。
「でも、ねえ、あのアパートはパパの会社が設計じゃなかった?」
 出火原因は放火だそうで、あの毛布に包まって震えていた煤だらけの人間の一人が犯人
だった。あのあとパトカーで連れて行かれた。ピカリは手錠が光るのを、ちらりと見てい
た。
「残念だな」
 とパパは言った。火事に関しての彼のコメントはそれだけ。
 ピカリは早々に食事を切り上げて自室に戻る。そして勢いまかせに一度だけ自慰をして
しまう。火照ったからだのガールフレンドを悪魔に売り払って、得たのはモジャの泣き顔。
彼はてのひらの精液をティッシュで拭って悪態をつく。頼む、誰か、誰か、教えてくれ。
どうしてあいつは泣いたんだ。


 パパが、いない。


 そう呟くのが、ピカリには聞こえなかったので。




ロング・アフターヌーン



 鼻がなくなった!と思って吃驚したら、急に目が覚めて自分が知らない街角に立ってい
ることを知った。モジャは両手で鼻を覆った。すると、抱えていたパネルが音を立てて歩
道に落ちた。パネルの間に挟んでいた古いポスターが寒風に舞い上がる。そのままビルの
屋根を越え、青い空に吸い込まれるように見えなくなった。モジャは両手で鼻を覆ったま
ま、それを見ていた。北風に吹き晒されて凍えた鼻は、触れても自分の鼻ではないようだ
った。痛みではないような痛み。それは服の下、身体中の悲鳴より、現実のものに思えた。
モジャは瞼を閉じてゆっくりと息を吐いた。
 先生に連れられて出かけたビルの前には見慣れた車が停まっていた。でも、まさか、と
思っていたので、開店前の真新しいオフィスの真ん中にパパが立っていたときは吃驚して
足が竦んだ。けれどもパパは先生とにこやかに握手をして、ちっとも自分のことなど気に
かけていないようだった。二人がオフィスにかけられる絵のことを話し合っている間、モ
ジャはガラス張りの壁に寄って、空を見上げた。流石、10階にもなれば空も近くなるな
あ、なんて思いながら。パネルに挟んできた絵は全部ポスターで、本物じゃないから、じ
ゃあ絵が決まったらまた来るのかしらん。
 名前を呼ばれて振り返る。先生の肩の向こうでパパが見ていた。親子なら、言ってくれ
たらよかったのに、と先生は言って、モジャとパパを二人きりにして帰る。パパが何故こ
こに来たのかを尋ねて、モジャはこのオフィスに残っている古いポスターが欲しかったの
だと正直に答える。既にそれは期待より色褪せて見えたが、仕方なくパネルの間に仕舞っ
た。パパは助手席にモジャを促した。モジャはこれがいつも家族で出かけるファミリーカ
ーでなくてよかったとだけ思った。
 しかしそれでもパパはモジャを縛った。マフラーを抜かれた首筋がひやりとし、かわり
に戒められた手首に毛糸がちかちかと当たる。それは、兄弟で参加したバザーで買った品
物だったと思い出す。
 そこでマフラーをしていないことを思い出した。モジャは車窓から後ろを振り向いた。
あてどなく彷徨った街路は遠く、バスは心地よく揺れながら走った。仕方のないことだ。
もしかしたらパパの車の中に忘れたのかもしれない。けれども、もう。モジャはちょっと
首を垂れて、溜息をついた。
 いつもの停留所でバスを降りると、不意に後ろで、じゃあな、と聞きなれた声がして、
それに対して黄色い声が複数「またね、ブラボー!」と返す。振り向く前にサッカーボー
ルがモジャを追い越し、更に赤毛がモジャを追い越し、そして振り返る。北風が髪をなぶ
る。冷たいのだろう、そばかすの散った頬が赤くなる。鼻の上に皺が寄って、ぷい、とま
た先を行くサッカーボールを追いかける。追いつくと、その場でリフティング。風なども
のともしない。ブラボーは自在にボールを操り、それを首の後ろに乗せてみせる。と、ま
た目が合った。ブラボーはボールを跳ね上げ両手でキャッチすると
「ついてくんなよ」
 と吐き捨てた。
 モジャはパネルを抱えて歩道に佇む。冷たい風に押し流された雲が陽を隠す。夕方の気
配がする。モジャがまた溜息をつこうとすると
「馬鹿じゃねえの?」
 道の先でブラボーが叫んでいた。
 とぼとぼと歩くうち、結局、ブラボーと一緒に家に着いてしまった。出迎えたのはララ
だった。ララはブラボーの赤くなった鼻を笑って、後ろに佇むモジャの紙のような顔色を
心配した。
「お茶、いれるね」
「ミルク入れるなよ」
「わかったわ」
 ブラボーの傲岸さも、ララは笑って包んでしまう。モジャはそれに隠れてそっと部屋へ
戻ろうとしたが、振り向きもしないブラボーが
「ララがコーヒーいれるんだから、いろよ」
 と、ちょっと吃驚するようなことを言った。ブラボーにすれば、ララが、まあ好きだか
ら、そういうところを思い通りにしたいだけなんだろうけど。でも今日は疲れてるんだよ
なあ、と思っているとズーが帰ってくる。ズーはララに自分の分のコーヒーを注文して、
ブラボーとは別に口を利かない。
 3人分のコーヒーが出され、ブラボーは、自分の分はいれなかったのか、とララに尋ね
る。私は紅茶なの、とララがブラボーの向いに腰掛けている間に、ズーがモジャの手を引
いていってしまう。コーヒーを飲み干してブラボーはそのことに気づいたが、もう気にし
てはいない。

 コーヒーの香りがするな、と思っていたら、いつの間にか部屋にズーとモジャが入り込
んでいて実験を眺めている。というか、既にモジャはうとうとしかけていて、ソファに横
になっている。ピカリはその肩に白衣をかけてやろうと思ったが、ズーが見ている。
 ズーはニヤリと笑って部屋を出た。ピカリはしばらく憮然としていたが、テーブルの上
の飲みかけのコーヒーを呷ると、少し落ち着いた。モジャは小さな寝息をたてていた。白
衣を肩にかけると、少し悲しそうに眉を寄せた。




世界、あるいは魔王という名の



 宗教のように支配した。独裁者の手の届かぬ高みに運ぶため、その手を伸ばすピカリは
しかしモジャの宗教というより、彼そのものがモジャのための殉教者だ。ダメだダメだ、
と心の中で呟く。この家に居る限りパパの手からは逃げられるものか。同情ではなく、非
難でもない。仕方のないことだ。野の只中に孤独にいれば、たとえ象の赤ん坊がどれだけ
優美でも、ライオンの赤ん坊がどれだけ愛くるしくても、それが弱々しいインパラの赤ん
坊だったら尚のこと、牙にかかり、引き裂かれ、食われるのは当たり前のことだ。
 だから人間で、だから宗教かとも思い、ピカリの愛の囁きが段々低く、籠もってゆくの
を壁越しに聞く。モジャの声は決して聞こえないが、ピカリの声を聞いていればどのよう
な態でいるかは知れるもの。尽きることのない信仰告白と礼拝、魂を喜捨し、殴打の痕を
巡礼する。残るは断食だけ、とそれは宗旨が違ってしまうが。しかし絶対服従という名の
宗教と同じこと。真摯で、盲目的なほど熱情的で。
 が、それでも、声一つたてぬモジャは御本尊などではない。モジャこそ、この宗教に支
配された。だからこそ心が形を保っている。モジャは絶対に口にはすまいが、(勿論だ、
そんなことを彼が告白してしまったらピカリは手を引いて家を出ることを厭わないだろう。
全く、自分が幾つか解っているのか。飛び方を知らぬ小鳥の飛び出した日にはどうなるか、
自分だって知っているだろうに?)口にはすまいが、モジャはもうピカリの存在を欠かし
ては生きていかれないだろう。確かに、この家にはララも、たまには俺だっているが……。
 トカゲが小さな声で鳴いた。不意に正気に戻された。信仰告白はもう聞こえない。部屋
はすっかり暗くなっている。緑色のトカゲの入ったケースを、青白い照明が照らしている。
トカゲは首を反らし、目ばかりをきょろきょろと動かす。誰か、この部屋には動物達の他、
誰かがいるようだ。ゆっくりと振り返る。夕闇に青く染まった窓には、自分の姿が映って
いた。
 ズー。
 動物達に爪を立てられ綿のはみ出たクッションと壁に背中を押し付けるように、ずるず
ると横になる。ベルトに手を伸ばす。前をくつろげ、自分のものに手を伸ばす。かつてリ
ブは腹立ちまぎれに言った。観察者を気取って!ピカリはその後、こっそり言った。リブ
はお前がアカシックレコードの鍵でも持ってると思ってるんだ、本当は自分のものの筈だ
ったってさ。サイエンティストにしては文学的な言葉だと思った。
 ズーは知っているとおりにそれを扱うが、いつまでたっても勃起しない。した、ためし
がない。観察者、アカシックレコードの権利者、喩えも遠からず。世界はあるばかり、自
然は動くばかり、意志ばかり。感情などあるはずはない。興奮も。全ては微細の意志の集
合、ただ進む力ばかりなり。世界が射精するなら、それはもう一つの全く別の、全く新し
いビッグバンだ。その時世界は、この世にはいまい。
 ズーは全く無反応の肉塊から手を離した。可笑しくはないが、つまらなくもない。ズー
は壁に背中を押し付ける。俺を、世界を震わせ、宗教。




その手で、その手で



 カタン、と硬い音を立てて缶が倒れた。黒いペンキが床の上に流れ出した。モジャは振
り返ったが何も言わなかった。ピカリは足元の缶を立て直したが、もう半分以上のペンキ
が流れ出してしまっていた。黒い泉が足元に広がっていた。
 ごめん、と言葉を吐こうとするピカリをモジャの淡い笑みがとどめた。モジャが身体を
ずらすと、絵が露になった。キャンバスには赤い蜘蛛のようなものが天から垂れ下がり藻
掻いている。モジャは手を伸ばし、赤い絵の具に汚れた指先を床の上になすりつけた。黒
い泉に赤い雨が降る。跪き、モジャは床の上に赤い雨を降らせ続ける。赤い指は踊るよう
に床を滑り、雨は捩れ、螺旋を描き、とうとう黒い泉に、沈む。
 手首を、ピカリが掴んだ。モジャは顔を上げた。表情のない、まっさらなキャンバスの
ような面だった。ピカリは掌を泉に浸した。黒い雫がこぼれる、その掌をピカリは、モジ
ャの額に押し当てた。そしてゆっくりと下に滑らせた。
 モジャは抗わなかった。
 何一つ、抗わなかった。声も立てなかった。赤い渦の中に横たえられ、黒い泉の伸ばす
手に見える場所のくまなく蝕まれ、染められ、汚されることをの全てを。
 ただ一つだけ吐息を漏らし、目の端から涙を流した。




ドロップアウト



 トイレのドアを開けると素裸のモジャが便器に腰掛けてトイレットペーパーで洟をかん
でいた。狭い床には脱いだ服が散らばっていた。白いパンツが目について、ピカリはもう
一度モジャの顔を見詰めた。するとモジャは「けぽっ」と小さな音を立てて、服の上に嘔
吐した。

 バスルームにモジャと汚れた服を押し込み背を向けるが、思い至って引き返し「服を」
と言うと、モジャは慣れた風に、自分の身体より先に服の吐瀉物を洗い流していた。ピカ
リは着ていた白衣を脱ぎ濡れた服を包んで、早足で地下に向かう。大きなランドリーの蓋
を開け、白衣もろとも放り込んでようやく溜息。すると背後の階段から、同じく溜息。振
り返るとズーが呆れていた。
「何だ、気づいたのか」
 ズーの声に感情はこもっていない。何があったのかと問い詰める前にズーは階段を上に
向かう。上から射す光の中に鳩の羽が舞う。ピカリは苦々しいが、引き止めることも、問
い質すこともしない。ここで起きたさざ波は、あっという間に彼ら兄弟間に伝染するのだ。
リブやベルに知られれば面倒なことこの上ない。ママがいないだけでも、今は不幸中の幸
い。
 しかし階段を上ったピカリは、リブの訝しげな視線とぶつかった。
「洗濯?」
 短い問いかけを無視してバスルームに向かう。リブは後ろから冷たい靴音を響かせてつ
いてくる。おいおい、これが兄弟家族と住まう家に響く足音かよ。ドアの前で立ち止まる
と、リブの靴音も止まる。
「誰か入ってるの?」
「今から入るんだよ」
「嘘。シャワーの音がするわ」
「そんなに疑いたいなら、一緒に入るか?」
 ピカリは思い切りよくシャツを脱ぐ。口の端が少し歪んで笑っているのが分かる。ベル
トに手をかけ、言葉を継ぐ。
「兄弟だろ、恥ずかしいこともない」
 リブの顔が引き攣るのを尻目にバスルームのドアを閉めた。「莫迦じゃない」そんな声
がドアの向こうから聞こえた。モジャが浴槽の中でぽかんとピカリを見上げた。
「どうして?」
 しばらくして小さな声でモジャが尋ねた。
「兄弟だろ」
 ピカリはズボンを脱ぐ。シャワーの中に頭を突っ込むと、びたびたと大粒の雫が浴槽の
中に落ちた。モジャは下からピカリの顔を覗き込んだ。少し、ピカリは泣きそうな顔をし
ていた。落ちる大粒の雫を、モジャはその顔に受けた。




幸福の音色



 ニュースはララの控え目な、しかし嬉しげな声音が歌のように溢れ出すので伝えられた。
聖夜の教会でパイプオルガンの弾き手にララが選ばれた。勿論、この日のバーバ一家の喜
びようと言ったら、想像に難くない。ブラボーは口笛を吹き、ベルはよろめくララに構わ
ず、その首にかじりついた。その日のうちに兄弟全員の聖歌隊参加が決定した。リブやピ
カリも積極的にそれに賛成したし、あのズーさえ素直に参加を表明した。そしてその中に
はモジャも含まれていた。それを、パパとママを始め、誰も咎めはしなかった。歓びは人
を寛容にする。ほんの一時なりとも。
 神父は実に優しい人で、聖歌隊に参加した兄弟の6人を最前列に一列に並べた。それは
いっそ兄弟達に平静をもたらした。斉唱する兄弟達の目は真っ直ぐ前を向き、それは自愛
に、熱意に、優しさに満ちていた。その美しき兄弟達に町中の人間が見惚れた。誰もが、
あの子供たちは天使のようだと囁きあった。兄弟達は背後から湧き上がるパイプオルガン
の音色と共に、目に映る全てのものを愛せるような気持ちに包まれた。一人、ピカリだけ
はまた少し違った気持ちで隣に立つ兄弟を想ったけれども、それとて愛には違いない。
 家に帰ったバーバ一家は明るく柔らかな灯の下で七面鳥をテーブルに、シャンパンで乾
杯する。しかし数を数えてみると、パパ、ママ、それから子供たち6人。
 静かで冷たい廊下を通って、モジャは一番隅の自分の部屋にそっと帰る。何が家族に幸
せを呼ぶか、それを考えた訳ではない。ただ、余りにモジャは幸せだったので、ララの演
奏するパイプオルガンと一緒に兄弟全員で聖歌隊に参加し、歌えたことが余りに幸せだっ
たので、その余韻をたっぷり味わいたかった。それ以前にモジャを邪魔する人間などいは
しないのだけど、でもこの部屋なら。
 パイプオルガンの音色、すぐ隣で聞いたピカリの歌声と、絵の具の匂い、油の匂いが溶
けてゆく。カンバスに手を伸ばす。しかしその瞬間に幸せは霧のように消えてしまいそう
になる。モジャの身体をすり抜けて消えてしまいそうになる。悲しみの気配にモジャは硬
く瞼を閉じて、息を止めた。
 耳鳴りの向こうに優しい音色が零れるように聞こえてきた。ララだ。ララのハープだ。
瞼が薄く開く。歌声に息を継がれたかのように呼吸が通り始める。歌声。ララの。ベルが
声を合わせる。リブが続く。ブラボーが低音を滑り込ませる。そして、ズーが。ピカリの
歌声が。
 小さな絵をモジャは描き上げた。それは翌日、展覧会へ応募され、以降モジャは十年以
上も自分のその絵を目にしなかったが、その必要さえなかった。彼はその夜、幸福だった。
悲しみの気配を拭って、確かに。