歳を重ねた人々 part.1



 アメイジング・グレイス、小さな声でリブが呟き、ピカリは顔を上げた。ピカリの視線
に気づいたリブは、ピカリに全く意識がなかったことに少し呆れ、指先で鼻の頭を叩いて
見せた。
「…鼻歌?」
 まさか、とピカリは笑う。その姿に、リブはまた呆れる。
 ピカリの手の中の美術雑誌は取り寄せたものだった。その表紙を飾る絵を、もう何年も
何年も前に、それは彼らの共に暮らした家族の家の屋根の下で描かれたものだったのに、
リブはこの雑誌を見ることで初めて目にした。ピカリもそうだったのかもしれない、とリ
ブは思う。しかし、もうピカリの表情は変わらない。
 巻頭から何ページにもわたって特集をされた画家。バーバモジャと、彼はその名を名乗
ることを躊躇っていなかった。沢山の絵に囲まれて、彼はカメラの向こう、控え目に微笑
んでいた。
 また、ピカリは無意識の内に歌いだしている。アメイジング・グレイス。リブは時計を
気にした。三時になる前までには病院に戻らなければならなかった。彼女は枯れ、乾いた
細い手を思い出す。その手が自分を、リブ、と呼び、彼女は枕元にそっと屈みこんだ。
「ピカリ」
「…うん」
「知ってる?」
「何を」
「アメイジング・グレイス」
 ピカリはちらりと視線を上げる。リブは俯き、エスプレッソの水面に自分の顔を映す。
薄い化粧。淡いルージュ。
「歌ってないぜ、俺は」
「彼が好きだった国」
 水面が揺れる。
「日本って国よ」
「…知ってる」
「キヨシ・ヤマシタ、ウタマロ、ヒロシゲ、ヒガシコクバル・チジ」
 最後の名前は政治家の名前だと、今はリブは知っていた。
「アメイジング・グレイスの邦題を知っている?」
 雑誌が顔を隠し、ピカリは気のない声で、さあ、と返した。
「君への標」
 それからリブは、日本語の発音をゆっくりとなぞる。
「きみへの、しるべ、よ」
 リブは立ち上がる。エスプレッソのカップには、ほんのりルージュが移っていた。
「…どうだって?」
「お義父さん、長くはないわ」
「彼がいなくなったら、とうとう別れるか?」
 ふん、リブは息を吐いた。
「別れるもんですか」
 君への標と言うのだ。枯れた手が自分に伸ばされ、リブはその手を包み込むようにとっ
ていた。目の前の病人の息子でもある、夫も、その兄弟も誰もいない静かな病室で、リブ
は震える声で歌った。ただ一度のことである。
 今、日本のタイトルを知らなかったピカリが、モジャの絵を見ながら同じ歌を口ずさん
でいるのは偶然ではないのかもしれない、とリブは思っている。絵を描いたモジャの心に
添うように、その歌は唇の端から漏れいずる。
「会いに行けば?」
 背を向けたまま、リブは言う。
「家には妻がいる」
「別れれば?」
「過激だな」
「どうせ二度目じゃない」
「お前が別れたら考えてやるよ」
 タクシーが目の前に止まった。ドアに手をかけて、リブは振り向いた。
「私も、あなたが別れたら考えてあげるわ」
 ピカリが呆れたように肩をすくめていた。




歳を重ねた人々 part.2



 徒歩で帰ってきたララが抱えていたのはヴァイオリンケースの他に2冊の美術雑誌で、
彼女は同じ号のそれを嬉しそうにベッドの上に並べ、鋏を取り出した。ズーは一足先にホ
テルに戻り、ワインを二杯、そろそろ眠ろうかと思っていたところだった。
 ズーは横になったまま、隣のベッドに目を遣った。青い絵が、シーツの上に並べられて
いた。
「…青いな」
「うん」
 ララは軽く目を伏せて、見たことのない絵ばっかり、と囁いた。
 青で幾重にも暗く塗りこめた絵は、順に明るく淡い色彩を交えるようになる。
「ズー」
 呼んだララが、軽く息を吹きかけた。絵の中の青が目の上に舞い降りる。青は一点に凝
り、キャンバスの上を舞う、蝶だった。
 二人か顔を見合わせ、秘密を分け合うように笑った。ズーは軽い酔いに揺れる身体を起
こし、隣のベッドに移動した。スプリングが跳ね、青い絵が舞う。鈴の転がるようにララ
が笑う。青い絵に包まれ、二人は眠る。




歳を重ねた人々 part.3



「私が何かを選ぶの?」
「僕か、そこにいる君の弟かだ」
 ララは振り向いた。しかし見ているのはベッドに腰掛けたズーではなく、夜のガラス窓
に映る自分の見返り姿だった。彼女は自分の顔が笑っていないのを見たし、そして少し不
機嫌の予兆が陰の様に射すのも見た。
 彼の指揮が素晴らしいのは今更、彼女が説く必要もなかった。彼もそれを自覚していた
し、そこに座るズーも悪いとは言わなかった。そしてララ自身、彼の指揮によって引き出
される自分のヴァイオリンの音色の心地よさを、今でもその身の内側に思い起こさせるこ
とが出来るのだ。
 それだけにこのコミュニケーションの断絶は悲しいものだった。ララは彼の呼ぶ声に視
線を戻した。そして強く彼を見た。それは意外な一撃だったらしく、彼は一瞬怖じた表情
を見せた。
 ララは辛抱強く言葉を紡いだ。
「もう一度言うわ。ズーは私の弟でも、兄でもない」
「知ってる六つ子だ」
「七人」
 思わず押し出されそうになる溜息を飲み込むが、彼にはそれが気に食わなかったらしい。
突然、ララに向かって二歩、三歩と足音高く近づいた。
「君は…」
 その時、彼の目に映ったララの顔はまるで相手を憐れんでいるかのようで、怒りに濁っ
たブルーアイズの底で今度こそ溜息をついていた。
「選ぶわ」
 ララの一言は鐘の音のようにその部屋を支配した。彼の足が止まり、それまで投げ遣り
な風に事態を眺めていたズーの神経がララに向いた。
「ボン・ラントレ」
 彼の顔がみるみる歪む。彼女は少し微笑み、英語で言い直す。
「お帰り、お気をつけて」
 男の足音が廊下の向こうに消え、エレヴェーターのベルが響くのと一緒に遠くから泣き
声が聞こえてきた。ララはドアを閉めた。もう溜息はつかなかった。私は一人だって歌え
るのよ、と彼女は呟いた。
「戦争が起きて、世界が滅んで、私ひとりぼっちになっちゃっても、きっと私は独りでも
歌えてしまうの…」
 ヴァイオリンもあの楽団じゃなくても弾けるわ、ヴァイオリンじゃなくても。そう続け
て彼女はバスルームに消えた。
 部屋にはズー一人になった。シャワーの音は冷たそうだった。ズーは部屋の明かりを消
した。ララの見返り姿が映っていた窓には夜景が浮かび上がった。
 闇の中で、微かな街明かりに鈍くブロンズがかったグリーンアイズを伏せ、ズーは小声
で歌いだした。流行の歌も知らない。少数民族が口伝で伝えてきた歌なら幾つも知ってい
る。しかし歌えるのはララの部屋にあったレコードの中の曲、兄弟で歌った曲だった。子
守唄だ。
 ララの冷たい身体がベッドに潜り込み、子供のような寝息が聞こえてくるまでズーの歌
声は途切れなかった。