嘘吐きの最期



 何の、一言も出ず。
 だからと言って気丈に「道中気をつけろよ」とか、あるいはハリウッド的に「僕も行こ
う」、否「俺が連れて行ってやる」といったドラマチック且つベタな科白も浮かばず、ま
た振りでもそんな表情一つ出来ず。
 ぼんやりとモジャの顔を見ていると、さっき耳を通り抜けていったと思った言葉が頭の
中を、まるで古城をさ迷う幽霊のように、ぐるぐると巡っているのだった。モジャもまた
困ったようにピカリを見つめ返していたが、決して「やっぱりやめるよ」とは言わなかっ
た。
 ドアから外へ出てゆくとき振り向きさえしなかったので、その困ったような顔がモジャ
を見た最後の顔になった。
 悔いがない。嘘のように。
 モジャに関してはずっと悔いてきた。悔いてばかりだった。喪失感が埋められたことな
ど一度も、一瞬たりとも無かった。

 それも嘘だと、モジャのいなくなった部屋を見て思った。ベッドのシーツを剥がす。む
き出しのマットの上に横になると静かに涙が流れ出した。




あの日の思い出を薄めては大人びてゆく



 ララとズーが旅立つ日、残った家族全員が駅まで見送りに出た。
「当ッたり前だろ」
 と怒ったようにブラボーが言った。
「家族なんだから」
 意外とこの家族が一番好きなのは彼なのかもしれない。リブは時々そう思う。所属して
いるサッカーチームは遠征の真っ只中だというのに、わざわざ帰ってきたのだ。その様子
は昨日もテレビで見た。マスコミがマイクを突き出して何を尋ねても、ブラボーはニヤリ
と笑い答えなかった。
 ララが列車に乗り込むと、意外なことにベルが泣いた。彼女の場合、急に屋根の下から
人がいなくなることの不安感が大きいのだろう。今まで、この家族にそんなことはなかっ
た。何よりもパパとママがいた。パパがベトナムに行ってしまってから、ベルは少し不安
定だ。彼ともうまくいっていない。ララは振り返ってベルを抱き締め、頬にキスをした。
ベルも一頻り泣いてからキスを返す。
 皆、ララのことが好きだ。リブも、ララが好きだ。隣で何も言わないピカリもそうだろ
う。
 それでも、ララについて旅をすることが出来るのはズーだけなのだ。
 ララが楽団に入ることを決意した時、皆が賛成し、喜んだけれども、こんなことになる
とは思っていなかった。いつまでも子供のように信じていたのだとリブは思った。パパは
パパのまま。ママはママのまま。自分達は子供のままで、家族のままだと。
 出発のベルがホームに響く。ベルがようやくララから手を離す。扉が閉まり、その向こ
うからララが手を振る。ズーの少しぎこちない微笑みが見える。それが揺れて、列車が動
き出す。
 再び泣き出すベルの肩をママが抱いた。
「いつまで泣いてるの、お嬢さん」
 五人でバーに出かけた。家族でバーに出かけたのは、初めてのことだった。ママは笑っ
た。寂しそうだが、楽しそうに見えた。
 自分はどんな顔に見えているのだろう、とリブは思った。




ミッドナイト・ブルー



 真夜中の鏡に映った姿は、未来の自分の姿なのだそうだ。
 そこには煙草の煙とともに疲労や徒労を吐き出し、何か空々しいほどの正気と平静を湛
えた顔が映っていた。ピカリはそれが自分の顔だと、最初思わなかったし、それが自分だ
と気づいた後も、自分がそんな顔をしていることに新鮮な驚きを感じていた。まるで初め
て鏡を見たかのようだった。ちなみにピカリは、幻かもしれないが、初めて鏡を見た時の
記憶を持っている。
 記憶力はいい。だが、記憶力に関係なく、それは嬰児だった頃のものだ。幼児は胎内で
の記憶を保持しているというのは、少し前ならば一笑に付された学説だ。脳の見せる幻や
夢ではないだろうか、と疑う意識もなくはないが、しかしピカリはそれが原初の記憶だと
今でも信じている。鏡に映る姿をどうして自分のものと判断できよう、とその時ピカリは
思った。それが初めてのピカリの意識で、その後の記憶は朧だが、その目覚めの瞬間の記
憶だけははっきりとこの心に残っている。
 そして真夜中の鏡を前にし、ピカリは再び目覚めのような冷たい意識を感じた。これが、
俺の顔だ。
 家の中は静かだった。この屋根の下で寝息を立てる人間は、唐突に、あっという間に減
ってしまった。ブラボー、お前はいびきをかいて寝ているのだろうか。ベル、お休み前の
ヘッドホンは外して寝たか? リブ、目を瞑っているだけかもしれない。ママ。
 ママは静かな寝息で。そして真夜中に一度だけ目覚めるだろう。隣に夫がいないことを
確認するために。
 ピカリは腕を伸ばした。スイッチを下げた。明かりが、落ちた。
 煙草の赤い火が二つ浮かんでいる。一つは自分の唇の先で。一つは鏡の中で。この暗闇
の中でも鏡は未来のピカリの姿を映しているのだろうか。倦怠と諦念を吐き出し、どこま
でも正気を湛えた男の顔。暗闇の中でこそ、真実を映し出すのだろうか。俺の顔は、どん
な顔をしている?
 煙草の火を、一瞬、鏡に押し付けようとして、とどまった。そしてピカリは笑いもせず
に部屋に戻った。煙草は灰皿に。そしてベッドに横になり、目を瞑った。眠るふりをして
いる内に、本当の眠りに落ちた。