ボン・ボワイヤジュ



 早朝の玄関に立つと、日も昇らぬ時間の薄い闇の美しさに軽い眩暈がした。モジャはそ
のまま座り込んだ。画材を詰め込んだリュックがゴトリと音を立てて床に落ちた。しかし
屋敷は静まったままだ。誰も起きてはこない…。そう、無人の玄関は美しい。薄青い闇と、
ドアの向こうから漏れてくる朝露の匂い。暗い床。馴染みの、生れ落ちた時から馴染みの
暗い床の上にしゃがみこんでも、早朝の無人の玄関はモジャに優しかった。
 昨夜は酷い夢を二本見た。ホラー映画を中途半端にツギハギした酷い夢だ。一つの主人
公はモジャで、物語は過去だった。モジャもよく覚えていない古い記憶だった。きっとピ
カリなら知っている。もしかしたらリブも。夢は、夢の世界があるのじゃなくて、記憶を
フォルダの中に整頓しなおす時間で、生まれた瞬間から覚えてきたありとあらゆる記憶が
ごちゃごちゃと飛び交う、その副産物なんだ。いつでもモジャは暗い床の上にいる。知ら
ない男の足が見える。パパじゃない。先生じゃない。酒の匂いがする。身体中が痛んで、
ひっきりなしの悪寒が襲う。助けてくれる女の人はいない。笛の音がしないから、きっと
ララもいない。夢の中で悪寒と痛みに動けないモジャは、ホラー映画のナイフが襲い掛か
るのを止められない。
 違うな。
 と、モジャは思った。確かにあれは昨日の夢のナイフだけど。モジャは両腕に顔を埋め、
もっと小さく蹲る。目の奥で何かが光っている。小さく丸めた身体の奥の暗いところに光
るものがある。小さな青い光。記憶がどこかに残ってるな。昨日、描き上げて郵送で送っ
たサムホールサイズの絵の奥に光っていた青い光。
 どこかで見た。去年の夏のプール。家族旅行で船の上から眺めた湖底。洗面台。ベルが
水を引っ掛けた後の空のコップ。シンクの底に沈んだナイフ。惨劇は常に真夜中に行われ、
シンクで血を洗い流されるナイフは夜明けを反射し青く光る。ピカリ。
 ピカリ。
 睫毛の生え際がきゅうきゅうと痛んだ。涙の滲み出すのが酷く痛かった。モジャは空の
コップに水を注ぎ、一杯だけ、飲み干した。コップを拭いて、元の場所に伏せる。これで
昨日ママが片づけをした時と家の様子は全く変わらない。モジャは黒髪に隠れた目を掌で
何度もこすり、それから画布の飛び出たリュックを背負って家を出た。





ブライト



 モジャの裸足の足がピカリの目には入らなかった。ピカリはいつもモジャの傷に気づく
のは一番後なのだ。油彩の匂いの染みこんだ黒いセーターの肩に顔を埋めると何も見えな
くなって、後は手に触るゆるく跳ねた黒髪やだぶだぶのズボンに包まれた尖った膝に意識
を奪われて、名前を呼ぶことさえ忘れてしまったのだ。モジャを抱き締めているだけであ
たたかかったから、そのぬくもりが毛布の毛羽立ちに変わってもピカリは朝まで気づかな
かった。モジャのことを、いつでも最後に知らされるのはピカリだ。
 ドアの前にはララが立っていて、ちょっと暗い顔で階下を見下ろし、キッチンでは少し
静かな朝食が始まっていた。モジャの姿はなかった。ピカリが家を飛び出そうとするのを
ララが止めた。否、その時はまだ止まりそうにもなかったけれど、ズーの家族を映さない
目と、ブラボーの顎のしゃくって見せたのにピカリは止まった。パパとママは並んだ背中
しか見えなかった。ベルとリブはいつもと変わらなかった。
 ピカリはのろのろと椅子に座り、バスケットの中のパンを齧り始めた。隣にララが座ろ
うとして、思い直し、一番離れた席に座った。朝の予定は皆、5分遅かった。パパは電話
で喋りながら会社に行き、とっとと食べ終わった姉妹が一足先に玄関を出る。どうせ同じ
スクールバスに乗るのに。パンはなかなか喉を通らなかった。ピカリは噎せそうになって
ミルクのコップに手を伸ばした。コップはひっそりと湿っている気がした。
 鞄を取りに部屋に戻ったピカリはモジャの靴がないことに気づいた。昨夜、モジャが靴
を脱いだことに気づいたのも後になってからだった。だから今朝それを気づくのが一番遅
くても、ピカリには仕方がないのだ。
 朝日は高く昇り、青空の下に光が満ち溢れる。玄関を抜ける瞬間、朝露の匂いが鼻を掠
め、ピカリは泣きたくなった。





you



 もうすぐ夕食だ。君は考えている。君は考えている。どうすれば歓喜に至れるのかと。
それは爆発するような激しいものでは、必ずしもないのだ。黄金の光、明澄な風、静まり
きった月の大地、バス停に至る道のりの陽だまり。家の隅に位置する部屋の大きな窓のそ
のまた隅で君は片膝を抱えて考える。それはゆっくりとした思考でいい。思考でさえなく
てもいい。音楽を追いかけるように、君は意識を彼へ伸ばす。闇の向こうのあの微かな青
い光がもたらす安息。息詰まる町から抜け出した爽やかさ。ピカリ、と瞼の裏に閃く青空。
木々のざわめく緑の間から覗く青空は鏡のように、ピカリ、と光る。
 もうすぐ夕食の時間だ。意識の外の、そのまた遠くから、君を呼びにやってくる足音が
聞こえる。君は考えている。君は考えている。歓喜を言葉にしてはならないと君は知って
いる。言葉に押し込めようとした瞬間に歓喜は逃げてしまう。君は想っている。感じ、そ
っと瞼を開く。ドアの向こうに誰かが立っている。ピカリ、と。
 君は笑う。





Mon papa



 フォトグラフは綺麗だと思ったその一瞬を忠実に写し取るけれど、だからこそかモジャ
がそれを用いることは少なくて、しかし彼は安いレンズ付きフィルムでそのフォトグラフ
を製作したりする。綺麗だと思ったその一瞬を留めておく、というより、それは彼の記憶
そのものと同じ用いられ方で、現像後は様々な大きさに千切られコラージュの材料となる。
家族の写真を撮ったことは一度もない。
 モジャは誰かを呼ぼうとして、振り向き、それからもう一度窓の外を見たとき、カメラ
を、と思った。言葉で伝えるより、今一度自分が描いて見せるより、これはそのものを写
し取り伝えたほうが自分の心境に合っていると思ったからだ。彼は常に表現の苦悩と戦っ
ている。写実、印象、超現実、しかしモジャはフォトグラフで、と思った。たった一枚の、
一枚きりのフォトグラフで。
 手のような、雲だった。形がではなく、感触がではなく、その色が。地平に沈んだ太陽
が知らぬ異国から投げかける光に雲の腹が照らされて、熟れた桃のような、チェリーのよ
うな、花のような色をして、その色に染まった雲を見た瞬間にモジャは、手のよう、と思
って、誰かに伝えようと首を巡らせた。
 広いパパの部屋にはモジャしかいなかった。
 絨毯は、部屋にいち早く染み込み始めた夜の気配に暗く沈み、明るく見えるのは窓だけ
だ。窓の外は短い冬の陽に刻々と色を変える。絨毯の上に横たわったモジャが、フォトグ
ラフ、と思い首を巡らせ、再び窓に目を遣ると、もう雲の腹は暗い灰色に沈んでいた。夜
が空を覆い始めていた。手を喚起させた不思議な色は、夕暮れのぬくもりと共に消えた。
 身体の重みが蘇る。創作意欲は余韻だけを残して失せていた。パパの手は暴力ではない。
知っている。まるでやり方は違うのだ。痛みを思い出した身体から、フォトグラフ、とい
う言葉がころりと転げた。ドアが硬い音を立てた。
 ズーが立っていた。手にタオルを持っていた。モジャは、いつの間にかズーがいたこと
に驚かなかったし、ズーもまたモジャの姿に驚かなかった。ズーが白い手を差し出した。
ズーなら誰にも気づかれずにシャワーに連れて行ってくれる。その辺、ズーはピカリなん
かよりもずっと上手いのだ。モジャは手を伸ばして、ズーの手を掴んだ。
 あ、と小さな声をモジャは心の中で上げた。金の前髪からのぞくズーの目は不思議な色
をしていた。熟れた桃のような、チェリーのような、花のような。この世の始まりを見て
きたかのような、この世の終わりを見てきたかのような、その癖、ちょっとその辺を散歩
してきただけのような。パパの髪の色のような。
「手みたいな、色だよ」
 モジャは小さな声で囁いた。
「そう」
 と、短くズーは応えた。





7 − 1



 晩秋の朝を行く兄弟たちは、皆一様に同じ方向を向き、同じ方向に爪先を向け、同じ方
向に背を向け、全く別々のことを考えている。彼らの思考は風のない清々しい空に虹のよ
うに舞い上がり、交差し、てんでばらばらに飛んでゆく。そのうち、どれか一つでも、も
う一人の兄弟に届けばいい。空行く雲か、道端のバス停か、通学路の小石か、何かがすれ
違い様にそんなことを考えた。
 学校へ向かうこの一群はある視点からすればパーフェクトだったし、ある思いからすれ
ば不完全だ。大局的に、などと大仰に言わなくてもあるがままを受け入れるなら、ただの
クラスタ。足並みはばらばらなのに、その一群は崩れることはない。
「ブラボー、踵」
「なに?」
 リブの冷えた声が朝の中に滑り出て、皆、少しだけハッとするがブラボーは振り向かない。
「踏んでるわ」
 ブラボーの靴の踵がぺしゃんこなのはいつものことなのに、見つけるたびにリブは言う。
ブラボーは歩きながら踵を上げ、器用に靴を直す。
 クラスタは揺るがない。
 ゲートをくぐり、芝生の間のレンガ道を歩き、自動ドアから校舎に入ってロッカーの前
に立ったとき、ようやく兄弟達はばらばらと別の動きのままに崩れだす。乱暴にロッカー
を閉めたブラボーの踵は、また潰れている。ベルはそれに気づいたけど、リブはバッグの
中の本に気がいってしまって、リブの知らないままブラボーの姿は赤い風のように消える。
ロッカーが離れているのに、ララはピカリの側まで歩いてきて小さな声で「今日は同じク
ラスがあるわ」と言った。ズーはそれを聞かないふりか、或いは本当に聞こえていない。
彼の足元にはラットがいる。どこかの研究室から逃げ出したらしいラットに、しゃがみこ
んでズーは構い始める。ピカリは玄関の自動ドアを振り向き振り向き、教室に消える。
 チャイムの鳴る、ほんの数分前だった。モジャが一人、慌てもせず姿を現して、静かに
ロッカーを開け、静かにロッカーを閉じた。そして静かに教室の一つに消えた。
 廊下ではまだズーがラットに構っている。





インコグニート



 バスに慌てて乗り込んできたのはピカリだった。まぶしい夕焼けの逆光になったピカリ
の顔が、自分を見つけて笑ったのをモジャは見てしまった。だからこうしてずっと俯いて
いる。
 一番後ろの席に並んで座った兄弟は、兄弟らしからぬぎこちなさでバスに揺られている。
鞄の陰で、そっとピカリの指が触れる。モジャがびりっと電気の走ったかのように身体を
硬くすると、柔らかく掌全体が重ねられる。ピカリ、と呼ぼうとしたが声が出なかった。
 カーブでバスが揺れた。揺れにあわせるようにピカリの顔が近づいた。
「大丈夫」
 ピカリはそっと囁いた。
「誰も、見ていない」
 二人は居眠りするかのように俯いた。時々額が、こつり、と触れ合った。





シロップ



 悲しい、これを言葉にすることが出来ないんだ。モジャの口の中に傷があった。口内炎
が出来ていた。栄養不足、ストレス、不衛生? ただ、子供だから? 僕たちは子供だか
ら仕方ないんだ、とそんな声が聞こえてきそうで覚えたばかりのキスで口を塞ぐ。でもま
た傷に触れて、ああ、続けることが出来ない。
 あの夜知ったのは、眠るときのモジャは歯を噛み締めていることだった。眠っている間
に噛んだのだろうか、栄養不足、ストレス、子供だから。誰かに噛まれたとか。
 言葉に出来ない。軽く唇を触れ合わせる。少し舌を伸ばせば傷に触れてしまう。耐え切
れず、モジャの手を掴んで外へ飛び出した。
「ピカリ」
 小さな声で名を呼んだモジャは、少し怯えていた。門限はもうすぐだった。しかし構わ
なかった。薬局に飛び込み、栄養剤を一本。ストレスだとしても。子供だからだとしても。
誰かにつけられた傷だとしても。サイエンティストの自分に出来るのは、これしかない。
 モジャは困ったように微笑んで、茶色いビンの半分を飲み干し、こちらを見た。
「半分こ」
 どうして子供なんだろう。いつになったらこの手を取って、家を飛び出すことが出来る
のだろう。モジャを助けるためにと言いながら、自分だけのものにしてしまうために。そ
んな大人のようなずるいことを、したくて。
 早く大人になればいい、と残った半分を飲み干した。





Beloved



 愛を、とCDは歌う。愛を、とシンガーは歌う。愛を、と小鳥が歌い、オオハシが歌い、
ブラボーの鼻が歌い、けれども皆、皆、誰もその意味など知らない。もちろんズー自身も。
 十二月にもなるのにブラボーは上半身裸のままぶらぶらと廊下を歩いている。もちろん
リブに見つかりでもしたら何か言われるに決まっているのだけど、ブラボーはそんなこと
には動じないし、この家はあたたかい。
 ―――あたたかいよ、家族には。
 だから二人並んで帰ってくるなんて無防備すぎる。ズーはカーテンを閉める。夕陽が急
に遮られ、急な闇に部屋中の生き物たちがざわりと騒ぐ。動物たちのざわめきをよそに、
ズーの胸は泉の水面のように静かだ。愛など知らないから。
 玄関の扉が開き、冷たい風がほんの少し吹き込む。愛を、と歌うCDの歌声が揺れる。
愛を、と歌うシンガーの歌声が揺れる。愛を、と歌う小鳥の声がゆらぎ、オオハシの鳴き
声がざわめき、ブラボーは大きなくしゃみをする。
 扉の閉まる音。開閉したのはピカリの部屋のドア一つきり。生き物たちのざわめきが止
む。ズーの静かな心と同じように。カーテンに包まれた夕闇の中でズーは愛の歌に耳を澄
ます。愛を知らぬ兄弟達を包んで、この家は今日もあたたかい。





ゲアシュテンコーン



 ゲァシュテンコーンというのが最近の、モジャには届かないモジャの渾名で、渾名とい
うよりリブが、眼帯をしたモジャの名を口にするのも嫌で結局ドイツ語で呼ぶことにした
らしい。しかしズーはそれを聞いて鼻で笑った。
 ピカリは病院に行くモジャを見送ることしか出来なかった。感染するから、とサイエン
ティストのピカリと、動物をたくさん飼っているズーを特にモジャは遠ざけた。それでも
たまらず後を追おうとしたが、階下にはパパの姿があって、結局ピカリの足は階段の踊り
場で止まってしまった。パパはベルの夢中なお喋りに付き合っている最中で、踊り場のピ
カリには気づいていなかったはずだが、しかしピカリはその時視線一つ交わさなかったパ
パの姿に押し戻されるように自分の部屋へと帰ったのだった。
 帰宅したモジャは眼帯と、手には紙包みを持っていた。医者から出された目薬と内服薬、
その他にもタオルや使い捨ての薄い手袋など。ピカリは双眼鏡のレンズ越しにそれを確認
すると、ドアの側でモジャの足音を待った。兄弟の帰宅に階下が一瞬静まり、それからパ
パの「お帰り」の声と、ベルの無視する無音。そしてお喋りが再び蘇り、ピカリは床を踏
む小さな足音に集中する。
 今だ、と扉を開き黒いセーターの腕を引きずり込む。腕から紙袋が落ちそうになる。声
にならぬ悲鳴を上げる口元が一瞬目の端をかすめる。ピカリは紙袋ごとモジャの身体を抱
き締める。
「あ…あ…」
 とんでもないことをしでかしてしまったような、そんな震える声をモジャが漏らした。
ピカリと呼ぶ声は掠れていて、懸命にピカリの腕から逃れようとするが、ピカリは抱き締
めたまま離さない。
「大丈夫…」
 ピカリは囁く。
「大丈夫だから…」
 囁きながらピカリの手はモジャの片目を覆う眼帯に伸びる。
「大丈夫だから」
「そんなことない」
 モジャは首を振る。柔らかにうねる黒髪が顔を覆う。
「感染、する」
「モジャ」
 ピカリは小さく暴れるモジャの頬に触れる。
「見せて。見たい」
「そんな…」
 小声で攻防は続くが、抗いながらもモジャの手はもうほとんどピカリを押し戻そうとは
していなかった。とうとうピカリの手は眼帯を外した。
 モジャの瞳は潤んでいた。
「目薬は?」
「お医者さんが診た後、ナースが」
「美人だった?」
「見えなかったよ」
「痒い?」
「少し」
「見える?」
「…少し」
 モジャは瞬きをする。瞳が一層潤む。
「ぼんやり見える」
「麦粒腫だ」
「知ってる」
 ゲァシュテンコーン、とモジャは囁いた。
 ピカリはハッとしてモジャから手を離した。モジャは唇に微笑のような歪みをたたえ、
ピカリの手から眼帯を取り戻す。紙袋の中身は床に散らばっていた。目薬、内服薬、感染
防止のためのタオル、使い捨て手袋。そして使い捨てカメラ。
「撮らないの?」
 モジャが尋ねる。ピカリは戸惑って視線を返す。
「興味ない?」
 ゲァシュテンコーン。
「…あるさ」
 ピカリは床の上から使い捨てカメラを拾い上げる。白い壁を背にモジャが立っている。
 安いフラッシュが光る。
 モジャは眼帯を元のようにつける。
「目薬は寝る前、飲む薬は食後」
 モジャは言った。
「説明書きも一緒にもらったんだから、平気さ」
 一人残された部屋でピカリは平気ではない。一人では、ちっとも平気ではない。それを
誤魔化そうと使い捨てカメラを分解し、フィルムを取り出し、冷蔵庫に保管していた薬液
で現像する。それから夕食まで、乾燥のためぶら下がったフィルムを見ていた。真っ黒な
帯の中に一枚だけ、色彩の反転したモジャが写っている。涙をたたえた瞳は小さく、ピン
の頭ほどの大きさしかなかった。
 しかしそれは潤んでいた。





大切なものは…



 愚かだ、愚かだという声が耳に聞こえた。耳の内側で、鼓膜を震わして。
 知っている、と知ったふりをしながら、それに目を背けたい。尚、自分は愚かだと認め
てしまったら、もう生きていても仕方がない。消えてしまうより他にない。
 でも、愚かだ。
 先はない。絶望の先に死の泉はひたひたと満ちている。静かな水面に己の顔が映る。緩
い黒髪の間から暗い穴のような瞳と、だらしなく開いた唇の呑み込んでしまった虚無と。
 しかしピカリはそこにキスをくれた。
 瞼に。涙をたたえた瞳に。唇に。歯に。舌に。そんなことしなくていいのに、と自分は
手で突っぱねることもせずに受けた。頬に。鼻に。そして唇に。
 どうすると言うのだろう。自分はこの家の中にいるのに。ピカリはパパとママの間に生
まれた兄弟の一員なのに、なのに、こんなことをして。
 こんなことをさせて。
 ペインティングナイフが画布を貫く。深く突き刺さったそれの柄を握り締め、真下に下
ろす。画布が切り裂かれる。
 詩人のイェーツは言った。

 ――愛の快楽は愛を追い払い、画家の絵筆は夢をのみつくす

 モジャは涙を零した。そんな。そんな。そんな。そんな。悲しいよ、神様。
「ピカリ」
 愚かさの罰ですか。
「好きなのに」
 愛した罰ですか。





伯林青



「べ・れ・ん・す」
「ジャポン?」
「そう、日本語」
 モジャはまだ乾ききっていないキャンバスに、油で濡れた指を滑らせる。宵の空の深い
青が指先から揺らぎ、キャンバスの中に風が吹く。
「ベルリン・ブルー」
 総天然色の図鑑を膝の上に開き、ピカリは写真の中の宵と、モジャの描いた宵を見比べる。
「日本語で? べ・れ・ん・す?」
「うまい、ピカリ」
 モジャが微笑む。ピカリは嬉しい。モジャの指先からキャンバスの宵には爽やかな風が
渡る。宵を渡る風だ。薬品の匂いを拭ってモジャを運んでくる、夜の風。
 窓の外がべれんすに染まるまで、二人は並んで一言、日本語のレッスンを。





Tale of tonight



 夢を見て飛び起きた。なんだ夢だ。夢オチだ。けれども傍らにモジャはいなかった。彼
ら兄弟はそれぞれ各々の部屋を持ち、各々のベッドで眠るのだから。一つのベッドしか持
たないのはパパとママだけ。大きなベッドを共有するのはパパとママだけ。彼ら兄弟がベ
ッドの上で何かを共有するとしたら、せいぜい、音楽か、本か、写真か、(例外、ズーが
動物を)。
 ピカリは掌を見る。濡れている。生あたたかい湿り気が血でないと確認したくて、
(しかし確認するのは恐ろしい、本当は自分が……)
 ピカリは明かりを点けるのをやめる。掌で顔を覆う。汗の匂いだった。掌を濡らしたの
は寝汗だ。
(血のはずはないじゃないか)
 モジャはここにはいないのだから。
(血のはずが、ないじゃないか)
 薄い胸を血に濡らして、最初ピカリはシャツがまだらに赤く染まっているのがモジャの
芸術の結果だと思ったのだ。なんと楽観的だったろう。床を濡らす赤い血が見えなかった
のだろうか。胸を濡らすばかりではない、そこから流れ落ちて足さえも真っ赤な、それを
ペイントの結果だと思ったのだろうか。にこにこ笑いながらピカリはモジャに近づいたの
だ。
 そして胸に突き刺さったナイフを知った。
(夢の中の話だ)
 抱き締めれば抱き締めただけナイフはモジャの胸に食い込んだ。しかしモジャは苦しそ
うな声一つ上げなかった。僅かに眉を寄せて、しかしそれさえ、はばかりもせず自分を抱
き締めるピカリの行動を諫めての表情だった。決して痛みなど訴えなかった。流れ出るの
は血ばかり。モジャを抱き締めるピカリの掌をあたたかく濡らす。
 抱き締めながらピカリは囁いた。
「好きだよ」
 不意に耳に届いた肉声に、ピカリは目を見開いた。
「僕も」
 ベッドの上にはモジャが。瞼を閉じたまま、自分の横に丸くなって。
「ピカリが好きだよ」
 ピカリは混乱する。時計を見ようとするが部屋は暗い。見えない。掌が生あたたかい。
これは寝汗か。血か。匂いをかいでみれば分かる。しかしピカリの掌はモジャを抱き締めて。
(これは夢か)
 分からない。