山田メシアとメフィスト




 窓を叩く音がする。月夜だった。真円の月が影法師の向こうに昇っていた。真吾は影法師に向かって声をかけた。
「誰、」
 影法師は応える。
「誰、だと」
 世界中から音が奪われたかのようだった。酷く静かで、遠い遠い空の果てで雲の消える音さえ聞こえそうだった。
「誰、」
 真吾の声はひどくか細く聞こえた。次の瞬間に世界の破滅を控えたかのような、得体の知れない空漠に飲み込まれるような声だった。

 雨の日に病を拾った。
 真吾は帰宅するや、二階の自室に引き籠もった。道子は心配したが、両親はそれがどうと慌てることもない。もう真吾も子供ではない。十六と言えば父は働き出した歳だし、母は最初の見合いをした歳だった。
「寝れば治るよ」
 道子を追い出す。
 しとしとと雨の音は重い。頭の中に降り注ぐかのようだった。雨音が髪の間から頭蓋骨をすり抜け脳の中に溜まってゆく。そして重くなった頭が魂を引き摺りながら地獄に落ちてゆくような気がした。
 地獄か。真吾は僅かに目蓋を開く。畳の目が雨の影に揺れている。僕は地獄を知っているかのようだ。
「ねえ、おじさん」
「メフィストだ」
 枕元に佇む初老の紳士は自らを悪魔だと言う。真吾が呼び出した悪魔なのだという。たった十歳やそこらの、子供が。



 喉が嗄れて声が出ないのだが、メフィストには思っていることが伝わるらしい。
 真吾はそれを悪魔の神通力とは無関係だと考えている。何故なら、メフィストは真吾の目の前に現れて以来、ずっと真吾に気をかけ、心を注いでいるからだ。真吾の心、思いを知ることを望み、欲しているからだ。また真吾もメフィストに心を傾けていた。真吾もまた伝えようという意志でメフィストに触れていた。注ぎかけ、受け入れ、また注ぐ。
 だから、空を飛びたいと無茶な願いを心に浮かべメフィストの袖を引いた時、メフィストは必ず自分の願いを叶えるだろうと確信していた。たとえ真吾が自分を試しているのだと解っていても、メフィストは真吾の望みを叶えるのだ。
 丹前を羽織り、メフィストの首にしがみつく。すると、寧ろ首が締まって苦しいから、ただ背中に乗れと言う。
 耳元で風の音が止むと、もう、暮れなずんだ街を見渡す中空にいる。すっかり夜かと思ったら、西の地平線にはまだ夕焼けの名残があるのだった。
 手のひらでぽんぽんと肩を叩くと「重くない」と言葉が返ってきた。
 また叩く。
「まだ十六だろう」
 叩く。
「ガキには違いないさ」
 叩く。
「背は伸びたかもな」
 叩く。
「身体はまだひょろひょろだ。軽いもんだ」
 叩く。
「本当だ」
 叩く。
「俺はお前の家を乗せて飛んだこともあるんだぜ」
 メフィストの肩を叩く真吾の手は止まった。
 覚えていなかった。




2014