ばけもののふところで






 サン・ビセンテ岬の北岸に打ちつける波は烈しさを増し耳を聾する。冷たい波音は中郷の思考を洗った。パリを離れてこのざまだ。薄汚い歩道を見下ろすのに飽き、瞼は重たく半分伏せられていたが、目の前を歩く姿は確かに見えていた。冷たく洗われた頭蓋の内側に投影されるそれは伊能だった。
 それ、は伊能の姿をしているだけだ。中郷には解っている。解っていて、構わない。伊能の姿をしている。伊能の言葉で話しおる。声も仕草も伊能そのものである。寡黙であり自分への侮蔑に満ちている。
 躊躇する間は毫もなかった。本物の伊能であれば、伊能は文句を言わぬ。あやかしの類いであれば殺すに越すはなし。幻であればいよいよ遠慮はない。そも――。中郷はコートの奥に手を突っ込む。指先に冷たい鉄の塊が触れる。そもそもこの拳銃を差し出したのは伊能の手だ。
 取り出したそれで中郷は無造作に伊能の頭を狙った。気配に足を止め、それは振り返った。木曜の黄昏の、冷たい雨で水平線を曇らせる大西洋を背に佇み、中郷を見た。眸は冷たく静かで動揺がない。動かぬ伊能に目を細め狙いを定めた。酔いが心地良く中郷の腕を支えた。頬か。否、眸か。否。
 眉間を貫かれ、曇天の黄昏に妖しいほど鮮やかな血の花が咲いた。膝からくずおれ、その肉体は前にのめる。躊躇わず中郷は二発目、三発目を撃ち込んだ。揺れる肩。揺れる腕。首が仰け反り、中郷は心臓を見定める。
 身体が大きく仰け反る。灰色の石が靴底で音を立てる。中郷にも見覚えのある靴だった。本物だったのかもしれん。そう考えた時には伊能の身体は崖の上から消えていた。落下する身体を追って石の立てる硬質な音が響く。それもすぐ真下の波音に掻き消される。
 中郷はコートのポケットを探った。ウィスキーの瓶でも出て来ないかと底なしに深いポケットの内側を掻き回したが出てきたのはいつのものだか知れない皺くちゃの煙草だけだった。強い風の中苦労して火を吸いつけ、吐いた紫煙の中でまた目を細める。不意に思い立ち右腕を真っ直ぐ曇天に突き上げた。拳銃の弾をある限り撃ち尽くした。弔砲は殷々と岬に轟き、しばし波音が声を潜めた。
 一歩、二歩と中郷は岬の先に近づいた。灰色の石が砕けた辺り、眼下を覗き込んだが七十五メートル下には海の泡が白くたつばかりで死体は見えない。中郷は感慨もない手つきで拳銃を放り出し、続いて湿気った煙草を吐き捨てた。
 紫煙を吐き出す口が不意に曲がった。足下に白い欠片があった。骨だ。
 ――バカタレが。
 拾い上げたそれを、中郷はコートの内側奥深くに収めた。

          *

 サントレノ通りの白い壁面が木曜の昼下がりのくすんだ陽を受けて憂鬱の色を増す。伊能は欠伸をした。額の触れたガラス窓から冬の寒さがしみた。今朝目覚めた時は冷凍庫の中で、ビルの暖房は一向に回復しない。正午にかけて何度か大家の婆さんが業者だか電話相手に文句を垂れるのを聞いた。
 ゴミが片付けられて部屋は寒々しかった。中郷が消えて後、伊能は部屋にあったものを中身も見ずに全てゴミ箱に突っ込んだ。それで片付く代物ではなかったから、最後は毛布を風呂敷替わりにゴミを包んで捨てたのだった。お蔭で夜中は凍えるはめになる。何度か姉の夢を見た。触れた姉の肌は冷たく伊能が抱くと炭になってぼろぼろと崩れた。何度もその夢を見た。そのたびに本物の姉の手の感触が蘇った。
 中郷がここにいる間、呼び寄せたものがあったのか、時々亡霊が姿を見せる。亡霊だと伊能は判じているが、実の正体は知れない。日本で生きているはずの朱野能子の姿もあったから、亡霊というより此方の心を見透かして化けて出る狐狸の類いか。パリで狸だの狐だの馬鹿らしい話だが、それらの毛皮を身につけた女はよく眼下の通りを歩いていた。
 酒がない。透明な空き瓶が足下を埋め尽くしている。立ち上がると椅子の脚が触れたもの、自分の爪先が蹴ったもの、妙に凛とした音を立てた。
 部屋を出る。廊下はいよいよ薄暗い。螺旋階段の中央にだけ灰色の陽が薄く射している。木曜日。街の北部は雨だと壁越しに聞いた。もうすぐここへも来るだろう。伊能は階段へ踏み出した。ポケットの金は大して確認していなかった。手が冷たい手摺りを掴んだ。
 ふと。
 耳の後ろを掻く。頭蓋の内側に直接吹き込まれるような音。伊能は手摺りから身を乗り出し階段の中央の空洞を真上に見上げた。それから階下を見下ろした。人影はない。しかしあれは確かに口笛だった。軍歌だ。歌は調子を外すくせに、口笛の音階は正確だった。
 ――中郷。
 見下ろすのが先であったろう。上に逃げ場はない。上へのぼれば必ず見つかる。しかしどちらにも中郷の姿はなかった。伊能は口笛を返した。今度も確かに聞こえた。返す口笛に、また口笛が応えた。しかしそれぎりだった。雨が降り出し、螺旋階段は暗く沈んだ。伊能は目を凝らしたが人影はなかった。
 階下へ下りる。聞き慣れた足音がビルの前を足早に通り過ぎた。伊能がドアを開けるとちょうど大家の婆さんがこちらへ入ろうとするところだった。ドアを押さえて通してやる間、目で足音の過ぎた方角を見遣ったが痩躯の長身はない。ただ憂鬱に薄れる午後の陽の下、時々毛皮の女。たまには男も。
 煙草の匂いが残っていた。伊能はコートの懐に手を遣った。煙草は出て来なかった。手に触れたのはフラン札の萎れた感触でもなかった。取り出した白い欠片を伊能はビルの玄関にもたれたまましげしげと眺めた。骨だ。人間の骨だろう。噛んでみると一瞬甘い。それは幻に過ぎなかった。伊能は別のポケットに手を突っ込んだ。今度はジンのポケット瓶が触れた。口を湿し、背後から婆さんが文句を垂れるのを無視してサントレノ通りに出た。
 冷たい雨が静かに追ってくる。伊能はポケットに手を突っ込んだ。ポケットの中で瓶と骨片が触れ合い音を立てた。記憶が形をなすように、ポケットの奥で鳴る小さな音が口の中に一瞬の甘さを蘇らせた。伊能は指の腹を噛んだ。血が滲む。塩の味を口中に満たし、霧雨の中、伊能はウィスキーを買いに歩き出した。

          *

 腕に抱えたウィスキーの瓶とバス停で掏摸から助けた老婆の押しつけたパンが一緒くたに詰め込まれた不格好な紙袋を抱え、伊能はビルの前で立ち止まっている。目の前に幽鬼が佇んでいる。中郷だ。
 中郷のように見えるだけかもしれんと伊能は紙袋を揺すった。本当は懐の煙草を探したかった。だが両手が塞がって出来ない。酒瓶の触れ合う音に中郷は聡く反応し伊能を睨みつけた。幽鬼のくせに。腹立たしくなり無視して玄関をくぐろうとすると背後から伸びる腕がドアを押さえる。煙草の匂いがした。嗅いだことのない匂いだ。死者の臭気かと考えた。骨を燃やされ白い灰になる、その煙の匂い。
 幽霊はついてくる。階段を上るが足音は一つもない。伊能のそれは身に染みた習慣である。警戒が足音を消させる。背後の男が足音を立てないのはいよいよ幽霊である証拠か。伊能は数週間前の雨の午後、玄関で聞いた足音を思い出した。あれは確かに中郷の足音だった。それは確かなのだ。
 部屋の前まで来て鍵を取り出せないことに気づく。その時背後の男がずいと伊能とドアの間に割って入った。手には鍵が握られていた。そこで伊能はようやく気づいた。ははあ、ここは地獄だ。自分もいつの間にか死んだらしい。
 地獄も勝手知ったる様で中郷は窓辺の椅子に腰掛ける。行儀の悪い足が空き瓶を数本蹴倒す。テーブルの上のグラスは伊能が洗うのも捨てるのも無精しておいていたものだ。中郷はそれを黄昏の青い窓に透かし袖口で拭った。伊能は買ってきたばかりのウィスキーをそこへ注いだ。
 低く震えるものがあった。中郷が笑っている。喉の奥を鳴らし、こちらを見上げている。
「死んでようやく礼儀を覚えたか」
 酒を片手にした中郷は幽鬼と言うより酒鬼そのものだ。浮かべた表情は笑顔にさえ見えた。口の端を持ち上げて満足げだ。伊能は向かいに腰を下ろし自分の分を注いだ。
 煙草を、中郷は持っていた。コートの内側から冷たい潮の香りが一瞬漂った。湿気った煙草の火薬の爆ぜる音が小さく部屋に響いた。伊能は流れてくる紫煙を嗅ぐ。微かに甘い。脱がなかったコートのポケットを手がまさぐっていた。空のポケット瓶が触れた。骨はどこへ行っただろうか。
「またか」
 中郷が尋ねる。
「またか、とは?」
「またおれに差し出すつもりか」
「何を」
 グラスを掴む手が人差し指を立てる。
「あんた、人違いをしていないか」
「幽鬼がいっぱしの口を利きやがる」
「それはこちらの科白だ」
「ぬかせ」
 一口にウィスキーを呷ると、中郷はコートの懐奥深くから何かを掴み出した。
「ほら、きさまの骨だ。供養してやろうとわざわざ持ってきてやったものを」
 伊能は骨を手に取る。白く、軽い。抓み上げて歯の奥で噛んだ。甘い。
 目の端を赤い火が床に落ちた。放物線を描くそれに気を取られている間に中郷の手が突っ込まれ、口の中から骨を奪い返していた。中郷は口の中で悪態を吐いていた。そうしながら爪先が床に落ちた煙草を躙った。
「中郷」
 懐で眠っていた拳銃が手の中で音を立てる。銃口を向けられ、向かいに座った男は大きく目を見開いた。
「なんだ。きさま。なんだと?」
 手の中の骨と銃口と伊能の顔を見比べる。
「じゃあ、なんだ、きさまは本物の伊能なのか、また」
「あんたも本物の中郷らしい、また」
「じゃあここはどこだ。地獄ではなかったのか」
「パリだ。あんたは飛行機で地獄に来たつもりだったのか」
 己がここを地獄だと思い込んだことは棚に上げ、伊能は目の前の相手を鼻で笑った。それだ、と中郷が憎々しげに言った。
「サン・ビセンテ岬のきさまも同じ顔をしたぞ」
 夏の、鮫狩りを伊能は思い出した。しかし中郷の目の中にある景色は灰色にくすんで、あの夏ではない。伊能は壁に頭をぶつけ、半眼閉じて中郷を見た。溜息を吐くと、中郷が欠伸をして同じように窓ガラスに頭をもたせかけた。また無遠慮な足が空き瓶を蹴って、転がったそれが部屋の端で壁にぶつかるのを二人は黙って聞いていた。




2016