アンフォゲッタブル・マーク






 板間だったか。否、もっと冷たかった。底冷えのする床だった。タイル。煉瓦…。しかし伊能の脳裏に蘇るのは中郷の背中だった。冷たく渇いて汗をかかない中郷の背中。
 そう昔のことではないが、鮮明でもない。記憶として鮮やかなのは寧ろ姉の――幼い頃見た姉の腰つきや汗を拭う手だった。伊能にとってそれは確かに性と結びついている。己という人生の根元に固く結わえられたものだからかもしれぬ。対して中郷というのは。中郷流に言えば一蓮托生の兄弟。ただの腐れ縁だとも思うが中郷の口を塞がずにおく程度には伊能自身、それを許容しているのだろう。兄弟。ならばこんな関係もあるだろう。
 開き直りのような受け容れがノイズを拭い去り、粗い粒子の群でしかなかった記憶の映像がやや鮮明になる。そこに中郷の裸の背中がある。
 底冷えのする床から起き上がった伊能は隣の男が寝息を立てていないことに気づいた。だがしかし眠っているのだろう。身体はぴくりとも動かない。幽鬼じみた風貌だが死体ではない。生きていることは全身で感じ取れた。五感。第六感。この身に備わった全ての受容器官が目の前の男から生気を感じていた。たとえそれが暗い澱みのようなものであるとしても。
 床の上で眠りに落ちる前のセックスは調教ではないと最初にそう宣言されていたものの伊能はそれを疑っていた。中郷は自分を屈服させるつもりなのだと思った。肉体的なそれよりも精神的拷問として強要されるセックスを、今後受ける可能性は彼らの仕事を考えれば十分にあり、最初の貫通儀式を中郷は買って出たというよりは完全に訓練の一環として完璧に遂行した感はあり、伊能は無意識のうちに尻をさすりながら自分がこの男とセックスをしたという事実に疑問を抱いている。そもそも教官役を終えた中郷が自分に背中を晒して眠っているというのが信じられない。引き締まった尻を両手に掴んで、これが未貫通ということもないのだな、と他愛もないことを考えた。
 その先に行ったことは今考えても馬鹿なことをと思う。行為の最中、頭の隅で考えなかったろうか。馬鹿なことを。だが伊能はまるで子供のように好奇心に突き動かされてそれをしたのだった。当然すぐ目覚めた中郷がちらりと睨め上げたのを覚えている。声も掛けず、止めもしなかった。身体をよじる中郷と取っ組み合いになり、正面から掴み合った。
 伊能の唯一鮮明な記憶がこの瞬間に重なった。全てを晒した中郷の裸を見た。視線でなぞる。このまま掴み合って勝てる肉体か。勝った末に己はこの裸を正面から抱けるのかと。その時、胸の、乳首のそばに寄り添うように黒子があるのを見留めて、何故か伊能は嗤ったのだった。口元の僅かな歪み、僅かに細められた目、その全てが中郷の癇に障りいよいよ足が反撃に出て冷たい床の上を転げ回ったのを覚えている。そして思い出した。あの床は煉瓦だった。正方形の煉瓦が細い窓から射す夜明け近いかそけき光にしんと冷えていた。
 夢うつつの回想をパトカーのサイレンが破る。パリの朝はつめたく冷えきり、伊能は目をしばたたかせた。椅子の上の身体が傾いていた。投げ出した足が氷柱のように凍えていた。中郷がベッドの上で酒瓶を抱え、じっと自分を見ていた。
「水を浴びろ!」
 掠れた声が耳の奥まできんきんと響いた。伊能は小指で中郷の罵声を掻き出しながら己の股間を見下ろす。だが動く気はない。グラスに残った酒の滴を舌に落としもう一度目を瞑った。瞼の闇に足音が響く。酒を飲む以外の全て倦んだ中郷がどこへ行くのか。だが次の瞬間顔に水をかけられ瞼を開けた。ぎろりと睨むと中郷も睥睨した。手が伸びて伊能の耳を抓み上げる。
「水を、浴びて、こんか」
 寒い朝に濡れたシャツが不快ではあり席を立つ。洗面台の前でシャツを脱ぎ、顔を洗った。濡れた顔に問いかける。中郷の記憶は強い性の欲望と結びついたものではない。姉と中郷を取り違えることは絶対にない。中郷が強くひっぱった耳を水に濡れた手で撫でる。火照りに心地よい。抓み上げられた部分が赤くなっていた。そこに伊能は自分でも気づかなかった黒子を見出した。
 鏡に顔を近づけ、目を細める。伊能は記憶を辿る。あの夜明け、正面から抱いた中郷の手がこの耳に触れたのではないかと。粗い粒子の記憶を漂い、しばし伊能は洗面台の前に立ち尽くした。




2016.9